そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

田舎に来て家畜に触れてはどうか

2015-01-29 | トランプ
名古屋大学の女子生徒が人を殺した。その理由が、『人を殺してみたかった』ということらしい。凶器は斧であるから、惨殺である。しかも一ヶ月上経っている。死体は腐敗が進行し、自宅の浴槽においていたそうである。
その間この女学生は何と思わなかったのである。幼い時から、人を殺したい衝動があったようである。高校時代に同級生に毒を盛ったり、ブログで秋葉原の殺人などに賛意を抱いたりしていたようでもある。
これにそっくりなのが、佐世保の女子高校生が友人の同級生を殺した事件である。彼女も、『人を殺してみたい』と思っていたとのことである。
二人に共通していることが多い。未成年の女子であることもそうであるが、学力が高く犯行の後に反省の態度がない。彼女たちは何らかの苦悩か模索の結果、行き着いた結論であると言える。核家族化した都会の中での生活は、死を体験することもほとんどなく、模索の中で実社会をとらえることが出来なかったのである。

私たち畜産関係者にとって、動物の死亡は日常的である。愛玩動物とは異なり、経済的な飼養価値がなくなれば家畜は淘汰される。それでなくても、乳牛の場合は事故や病気で結構死んでゆくのである。愛情を注ぐ間などほとんどなく、淘汰される。
ある酪農家に、「牛に愛情は注いでも、愛着は持っては駄目だ!」と言われたことがある。日常の営農中に動物の死を積極的に体験し、同時に生命の誕生を体験することで、今回の犯行の彼女たちの抱いていた、苦悩や疑問の多くに答えを見ることが出来るのではないか。
彼女たちの思いは多くの都会の若者が抱いている苦悩ではない蚊と思われる。思春期に田舎に来て家畜に触れる体験をすることで、生命の在り方について何らかの解答が得られるのではないか。とりわけ酪農家は乳牛について、生命の誕生と出生後の扱いや触れ合い、そして死を積極的に受け入れることになる。家畜との触れ合いは、きっと好結果をもたらすと思われる。

とは言いながらも畜産農家の家畜も、近代化のもとに大きくなりすぎて、家畜を生きとし生けるものとして認識することが少なくなってきたのも事実である。下の内容で1月31日に札幌でシンポジュウムを行います。近隣の方々、とりわけ消費者など一般の方々のご来場をお待ちしています。(クリックすると大きくなります)

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