そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

津久井やまゆり園事件から一年経過したが、”内なる植松”を問い続ける

2017-07-26 | 格差社会
相模原市の障がい者施設、「津久井やまゆり園」に植松という男がいくつかの刃物などをもって侵入し、19人を刺殺し26人の入所者に重軽症の傷害を与えた事件から、今日で一年経った。この事件は戦後最大の殺人事件である。
この事件の異様性は殺傷された人数の多さもさることながら、園の内部事情を熟知する施設の元(臨時)職員でもあった殺害犯、植松聖の犯行理由である。植松は、「障がい者は社会的悪である」「障が者は不幸の元となる」などと、犯行理由を述べている。犯行直前には衆議院議長に社会保障費を減らすからと表彰を希望し、友人には障がい者を600人殺害すると述べている。犯行直後に植松は自首し、犯行の理由をいまだに曲げずにむしろ誇ってさえいる。東京新聞への手紙は論旨は一貫して、「障がい者にも幸せを与える行為がどうして理解できないのか」と述べ、障がい者の差別思想と幸せはお金という考え方は変わっていない。
やまゆり園の入所者の家族で作る家族会の会長,大月和馬さんは、「家族としても,『障害者はいらない』という言葉は,私たちにとって本当に心を傷つけているんです。非常に間違った言葉を世の中に発しておりますんで、それを是非取り消して欲しいなと、本当に心から思ってます」と、複雑な心境を述べている。
障がい者は社会にとっても家族にとっても負担になる存在であることには変わりない。同じ人間であるとか同じ人権を有するものという認識は、現実に発生する多くの負担を背負う家族や社会にとって、植松の思想が入り込む隙があることも否めない。特に家族には、健常者よりも愛おしい存在でもある、障がい者である。
作家辺見庸が、我々は障がい者には、「無作為のくぐもった犯意をもっている」と述べている。我々はいつでも差別する側に立ち得ることを否定はしない。しかし、それがためにこそ効率的でないことを人権にまで及んで障がい者を差別する思想にが育まれる社会にこそ、発信していかなければならない。
石原慎太郎が、こうした人たち人権にあるのかねというのも、”内なる植松”である。ヒトラーがユダヤ人殺害のモデルにしたのが、障がい者の集団的殺害である。いずれも、社会の効率化から外れた存在として障がい者を位置付けている。
この事件以来、日本中の障がい者施設は頑丈な扉や鍵の改善などセキュリティーに走るのは、理由は理解するがお門違いの対応と言える。やまゆり園が死亡の氏名の公表をいまだにやらないのは、家族への配慮であろうが障がい者の社会的に置かれている現状への憂慮とも思える。こうしたことの解決を困難にしているのが、我々自身と社会の”内なる植松”の存在なのである。人間を社会的効率を基軸だけで捉え評価するのは、経済効率優先社会が生んだものである。実行犯の植松の犯罪性だけを非難するのは容易なことである。それでは施錠など防犯設備の問題に行き着くだけである。やまゆり園殺傷事件の本質を、施設のセキュリティーの問題に矮小化することなどあってはならない。今一度差別社会、格差社会の自分たちの意識や社会の在りようを考えるべきなのである。

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1 コメント

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Unknown (タンケ)
2017-07-27 10:56:14
人間には様々な能力や感情がある。そして、そもそも神ではない。たとえ神や天使の顔をしていても、実際には悪魔の所業する者が多い、というよりそんな者だらけであり、人間の本質とはそういうものだ。

だが、そこに多少とも「弱い者への思いやりや優しさ」があれば、極限行為に及ぶことは少ない。その意味では、日本の政治は、逆に弱きを挫き強きを栄えさせる悪党の所業であり、そこに介在する政治屋らは悪魔と言える。

不満を然るべき相手にぶつけず、逆に弱者に向けて不満解消しているのが、この日本の多くの人々である。だからこそ、アベシンゾやジミンコーメという筋金入り悪党不正輩らが栄え続けているのである。

こんな狂った不正国家日本の人の心が欠如した輩に殺されたやまゆり園の犠牲者皆さんに深い哀悼の意を表する。
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