イマジネーション・トレーニングの日記〜わたしの藝と稽古の記録

パターンやイメージを探求するために絵を画いています。

イマージュの海へ

2025-01-08 19:48:38 | 日記

 

 

皆様、あけましておめでとうございます。

 

連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。

 

今年もよろしくお願い致します。

 

昨年わたしは、かなり「哲学」、「思想」よりの論文を書いてきて、

 

それからこの連載をどうしようかと悩んでいました。

 

いまここで、もうちょっと具体的な技術に帰ったほうがいいと感じています。

 

年も明けたということで、これをいい機会に、

 

「イマジネーション・トレーニング法」の「歴史」のようなものを

 

簡単に書いてみようと思います。

 

ちょっとした「振り返り」です。

 

基本的に、「イマジネーション・トレーニング法」は、「具体的な技術」であり、

 

「イメージ探求の方法論」、「努力の方法論」です。

 

これまで、いろいろなものに学び

 

わたしなりに、研究、実践しています。

 

わたしは、「記録」という方法を使っていて、

 

「ことば(書きことば)」と、「絵画イメージ」というものを

 

扱っています。

 

「稽古」ということをずっとしていますが、

 

わたしが1番近く感じるのは、梅棹忠夫先生の「知的生産の技術」です。

 

 

_____

 

 

「知的生産の技術」

 

 

梅棹忠夫、著、

 

岩波新書、(1969年)

 

定価、880円+税、

 

 

_________

 

 

 

毎日ちょっとずつ、勉強しながら、

 

「稽古のための時間」を、自分のために使っています。

 

以前書いたものとかなり重なってしまうのですが、

 

最初に、わたしは「内なることばを育てる」という本を読みました。

 

_____

 

 

「気持ちを言葉にできる魔法のノート」

 

梅田悟司、著、

 

日本経済新聞出版社、刊

 

2018年、

 

定価、1,200円、プラス税

 

___

 

 

 

「iPad」で、この「ことばの作業」をする。

 

というやり方がわたしの稽古の原点です。

 

これを「メモワール法」と呼んでいます。

 

それから、

 

「イメージだし」というやり方を「絵画教室」でまなび、

 

それから、「絵を画く」ということを「稽古」に取り入れたら、

 

いったい、どういうことになるかな。

 

と思い、

 

 

2019年から、画面の(絵画の)稽古もとりいれ、

 

それがわたしの「イマジネーション・トレーニング法」

 

のはじまりでした。

 

それからこの連載をはじめ、

 

稽古を育てながら、そのプロセスを連載していったのも

 

すごく重要なことでした。

 

いろいろな「稽古法の研究」をしました。

 

それからの内容は、

 

すでにブログに投稿したとおりです。

 

 

そういうわけで、

 

簡単な「イマジネーション・トレーニング法の振り返り」

 

をしてみました。

 

 

そして、わたしは今年、個展をする予定です。

 

冒頭にDM画像を載せておきましたが、

 

東京都国立市の「ギャラリー国立」2F、で、

 

「新しい人間学~イマージュの海へ」

 

と題して、

 

ここ二年間ほどの「画面の稽古」より、

 

「画面作品の個展」をします。

 

興味のある方はいらしてください。

 

お待ちしています。

 

 

(つづく)

 

 

____________

 

 

「イマージュの海へ~あたらしい人間学」

  

      鳴笛思徳個展

 

 

「ギャラリー国立」、2Fにて、

 

 

2025年2月27日(木)~3月4日(火)

 

12:00~19:00

 

(最終日~16:00)

 

問い合わせ

 

「ギャラリー国立」

 

 

TEL : 042-574-1211

 

 

 

 


補論、「イマジネーション・サイエンス序説」

2024-12-01 14:51:26 | 論文

 

2024年12月1日(日)

 

●かなり長期間悩みましたが、

 

今回、この原稿を公開することに決めました。

 

宜しくお願い致します。

 

 

 

_____

 

 

 

 

ここでわたしはデカルトの「方法序説」を読むが、

 

 

 

_______

 

ここでの引用は、

 

岩波文庫版「方法序説」、ルネ・デカルト著、

 

谷川多佳子、訳 (1997)による。

 

______

 

 

非常に有名な本だが

 

この本でのデカルトの主張は

 

いわゆる「近代合理主義」から逸脱する要素をたくさん持っていて、

 

「近代科学思想」の源流としてはなかなかユニークだと思う。

 

こういう部分を現場の科学者はいったいどういう風に解釈しているのだろうか?

 

とくに興味を惹かれるのは

 

「第五部」の項目で

 

「動物生気」、(p.73 )

 

「理性的魂」、(p.78 )

 

などのアイデアを含み

 

はっきり北宋道学や、朱子学などの「道学」の

 

「気」概念や「理」概念との類似性を示す。

 

 

また、よく知られているようにこの本は、

 

強く「神への直観」を扱っていて、

 

いままでの「近代科学」は

 

デカルトのこの本のアイデアを十分に吸収していないと感じる。

 

科学の問題として神や信仰の問題をどう解釈するかだ。

 

わたしはここで

 

わたしがずっとやってきた、「イマジネーション・トレーニング法」とは

 

つまり「イメージについての科学」だと理解し、

 

「生きた人間の生きたイメージ」を扱うことが

 

「わたしなりの方法論」だと理解する。

 

 

そのためには、

 

いろいろなアプローチがあるとは思うが

 

わたしは「瞑想」とか「カウンセリング」にはまったく向いていず、

 

「藝の稽古」をしていて、

 

何度もくどくいうように、

 

わたしは「イメージ」や「イマジネーション」を扱う上で、「絵画イメージ」に問題を限定し、

 

(

 

 

わたしにはそれをするゆとりはないが、

 

音データ、音イメージなどを使った方法もあると思う。

 

)

 

 

はっきりした「方法論的根拠」として、「記録メディア」を扱い、

 

「イマジネーション・デッサン」という形で

 

「イメージだし」を実験してゆき、

 

「イマジネーション・メモワール」

 

というやり方で

 

帰納的に、「考察、理論化、法則化」を行う。

 

これはつまり「二重メモワール法」で、

 

必要なだけ「デッサン」と「メモワール」

 

を繰り返して

 

「イメージ」というものを探求してゆくというやり方だ。

 

つまりこれはわたしが、

 

「イマジネーション・トレーニング法の概要」論文で呈示した方法論だ。

 

まあ目的はいろいろあっていいとは思うが

 

いまのところわたしは「いい画面をつくる」

 

目的が妥当だと感じる。

 

漠然としているが、こうとしか言いようがない。

 

わたしはいちおう画家で、「画面」をつくる専門家だが、

 

できる人にはおそらく「セラピー」や「求道」、「娯楽」、「タブレットを使った教育」や「自己啓発」、

 

などの目的にも使えると思う。

 

ここで多様な可能性を示唆したい。

 

そういう視野に立ってみると

 

わたしの「イマジネーション・トレーニング法」

 

は「イマジネーション・サイエンス」と呼んでよい、

 

大きな「理論的ひろがり」

 

を持つことも、はっきりしているのではないか?

 

よって、ここに「イマジネーション・サイエンス序説」として、補論としたい。

 

 

これは「新しい科学」

 

「イメージの科学」の探求の、新しい、方法論、理論で、

 

かなりの達成だと感じる。

 

数式や演繹法を使わない、「芸術的科学」で、

 

「量」の科学ではなく、「質」に関係する科学だ。

 

 

この「科学」をつかってわたしは

 

「おもしろい」とか「たのしい」とか「嬉しい」、

 

というようなポジティブで建設的なことを

 

「質的厳密」、「質的普遍」 の課題として、

 

わたしなりに研究できそうだと、漠然と感じている。

 

そういう学問も、これからの世の中には

 

あったほうがいいのではないかと思う。

 

「合理と非合理の調和」

 

つまりそれが「イメージの世界」、「心の平和」

 

というものだろう。

 

 

 

(つづく)


「純粋直覚」についての簡単な「覚え書き」

2024-11-16 20:40:34 | 論文

 

「純粋直覚」についての簡単な「覚え書き」

 

  ~あたらしい道学への歩みへの一歩として、

 

 2024年11月

 

 

「純粋直覚」というわたしなりの用語法、概念枠は、

 

おもに中国の宋明道学に強く刺激されて生まれたものだ。

 

「みちのまなびの変遷史」のようなものを考えながら学んでいて、

 

以前、「朱子学と陽明学」を読んだ。

 

___

 

「朱子学と陽明学」

 

島田虔次、著

 

岩波新書、1967年

 

定価、本体780円+税、

 

___

 

わたしの「純粋直覚」は、

 

ベルクソンのいう「直観」や「形而上学」、また「純粋経験」と、

 

ことばとしてよく似ていて、いったいどういう関係があるのかと思う人もいると思う。

 

原語ではどうなっているのか、わたしにはわからなくて、

 

また、コンテキストや生まれた背景がまったく違っていると思う。

 

結果として、「ベルクソン哲学」や、また「西田哲学」とわたしの「純粋直覚」がどういう関係を持つか、

 

わたしもたしかに強く興味があるが、

 

これをいちいち検討する能力はいま、わたしにはない。

 

そうなると、まずはわたしなりの「コンテキスト」や「由来」というものをはっきり明確にさせた方がおそらく建設的だろう。

 

「純粋直覚」は、わたしとしては、かなり思い入れがある「概念装置」で

 

ここにちょっとしたメモをしておきたい。

 

 

「朱子学入門」を読み、

 

ーーーー

 

「朱子学入門」

 

垣内景子、著

 

ミネルヴァ書房、2015年

 

2,500円+税

 

_____

 

 

ここに書いてある、

 

「世界はひとつのジグゾーパズル」という用語に強い照明を受けた。

 

 

わたしが「純粋直覚」と呼ぶもの

 

わたしはわかりやすくするために、「學禪」とか「理心」

 

という言葉をここに添えることが多いが、

 

これは、東洋道学の潮流に強く影響を受けた概念であり

 

わたしなりに「道学」「みち」を理解し、また稽古、修得してゆくための「方法論」としての概念構成となっている。

 

わたしは中国の「北宋道学」や「朱子学」、「禅」や、またわが国の本居宣長の「国学」への「みち」の学問史、

 

いわば道学の「変遷史」、「変貌史」は、

 

ある「形而上」のものを具体的な意味で我がものとしてゆく稽古や学の世界の系譜だと

 

いまのところ考えている。

 

そして、微力ながらわたしもこれを受け継いでいる。

 

 

 

 

 

ある「原理」、ないしは「みち」をさとるための「アプローチ」として、

 

その「原理」は道学では「理」と呼ばれているが、

 

おおよそ、「心即理」と「性即理」の二大潮流がある。

 

そのひとつ目の、

 

程明道の系統「陸王学」は「心即理」と呼ばれ、

 

感覚、体験、実感、直観、を通して真実や理想を追求する方法論であり、

 

大きく考えて禅の方法論もこれに属すると言ってよい。

 

わたしは坐禅はきちんとしたことがないが、それは一種の「稽古体験」ではないかと思う。

 

また程伊川の系統「程朱学」は、「性即理」の方法論で、

 

いわゆる「分析的、論理的、学問的」なアプローチ、

 

「居敬」と「格物窮理」を方法として用いていて、

 

具体的には

 

「読書」と「考察」、「分析」が要求されている。

 

 

この「心即理」の方法論と「性即理」の方法論は

 

相補的なもの、「相補的方法論」であり、

 

禅の修行においても、厳密には

 

「性即理」の方法と「心即理」の方法が両方ともあるようである。

 

 

そしてこれらふたつの稽古法、脩養法は、

 

さきほど述べた「世界はひとつのジグゾーパズル」という言葉に象徴されるように、

 

「みち」を悟る、つまりいわば「ジグゾーパズルを完成させる」ための方法論として

 

絡み合い、混ざりあって、相互補完、相互補足的な存在となっている。

 

そして、この「みちを学ぶ」ことには「ジグゾーパズル」とははっきり大きく違う部分があり、

 

それが「終わりなき探求」であるということだ。

 

さまざまな稽古体験を通じて、

 

それぞれの人々がさまざまな「度合い」、「深さ」、「水準」において

 

いろいろなかたちでさまざまに、

 

それぞれの「みち」を深めて、また窮めてゆく「運動」が「學」であり、また「稽古、脩養」だ。

 

つまり「小悟」や「気づき」を何度も重ねながら、「経験」を深めてゆくプロセスで、

 

これはいわゆる「自己実現」と言ってもいいだろう。

 

本居宣長において、わたしは「紫文要領」を読み、強く刺激を受けたが、

 

__

 

 

「紫文要領」

 

本居宣長、著

 

子安宣邦、校注、

 

岩波文庫、2010年、

 

定価、本体660円+税、

 

____

 

 

 

その「みち」はここでは「もののあはれをしる心」ということとなっていて

 

人生そのものを知ることの「度合い」となっている。

 

これはどう考えても「完成」する筋合いではないだろう。

 

 

 

 

わたしなりの「稽古法体系」において、わたしは、

 

まず、感覚的な「稽古」を使って「心即理」の感覚的、直観的な方法を行なっている。

 

直観的にことばや画面を書き出し、その「記録」を通して学んでいる。

 

いろいろな「気づき」や「展開」を経験している。

 

「イメージだし」の作業とわたしが呼んでいるものだ。

 

また、「勉強」を通して「性即理」の分析的な方法を実践していて

 

こういう散文を考えて書くのも「稽古」の重要な一部分だ。

 

その2つが相補的になって、「イマジネーション・トレーニング法」の

 

「稽古法体系」となっている。

 

「記録」という「方法」はわたしの場合、決定的な重みがあると思う。

 

具体的なはっきりした「方法論」がないと、深淵な「哲学」もなんの意味もないと考えている。

 

 

大まかにいってこのような「方法」の体系が

 

わたしなりの「純粋直覚」の説明になっていると思う。

 

わかりづらかっただろうか?

 

つまり結論として要約すると、

 

「純粋直覚」とは、わたしなりの稽古法「イマジネーション・トレーニング法」

 

をべつの言い方で説明しているものと言えるだろう。

 

そしてその「具体的な方法論体系」を指しているだろう。

 

(  つづく )

 


手応え

2024-10-12 11:27:38 | 日記

 

みなさん、おはようございます。
 
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
 
ずいぶんご無沙汰していました。
 
よろしくお願いいたします。
 
さて、今日は「手応え」
 
というものから、稽古、画面の稽古や、
 
このいま書いている「ブログ原稿」を、ちょっと考えてみたいと思います。
 
 
 
 
「手応え」という言葉は、釣りで魚がかかったときにもよく使います。
 
ではその「手応え」とはなにか?
 
ということになりますが
 
かなりはっきりした感覚なのはたしかです。
 
わたしの文章の場合には、
 
「はっきりした感覚」と「しっかりした画面」と「具体的な言葉」です。
 
因果関係はわたしもかなり考えますが
 
「画面を拵える」とか「ブログ記事を書く」
 
という作業はまったく因果関係ではなく、
 
いわば「相関関係」に属し、
 
「創造」、「表現」に関係します。
 
「ここで勝負を決めよう」、という感じです。
 
 
 
 
「創造」ということでは、先日も書いたように、
 
わたしはベルクソンの「創造的進化」を読み、
 
この内容はいまいちはっきりわかりませんでしたが
 
そこから言葉をいただくと、
 
「生の躍動(エラン・ヴィタール)」に関係します。
 
つまり簡単に言えば「元気に生き生きと生きる」ということでしょう。
 
そこから生まれる「知的努力」です。
 
これについては東洋の教えでも、
 
「道学」という中国の思想に、「生生」というものがあり
 
また、禅の教えにも「活潑撥地」(かっぱつぱっち)、というものがあり、
 
ベルクソン哲学はあんがい東洋的なのかもしれません。
 
つまり「よい画面を拵える」ことや「よいブログ記事を書く」
 
ことでは「わたしがまず元気を出す」ことが重要です。
 
活力のある状態を目指すことです。
 
お金持ちでも活力を失うことはよくありますが、
 
いくら財産があっても、
 
元気でないとだめなわけです。
 
 
 
 
 
そして画面の「手応え」などというものは
 
長く画いてゆくとだんだんに掴めるものですが
 
画面の「展開」に先立って、まず「手応え」があります。
 
「この方向でゆける」とか「この方向でゆこう」
 
という、「ある感じ」です。
 
この感覚は、稽古して覚えるしかなく
 
「イメージだし」とは
 
この「手応え」を掴むための方法、と言えるかもしれません。
 
ああでもない、こうでもない、
 
と考え続けた挙句にやってくる、
 
「突然の覚醒」で
 
まるで「あかりがともる」ような経験です。
 
この「あかり」は神秘的なものではなく、
 
ある「パースペクティブ」(展望)の「直観」です。
 
一気に「これでゆこう」ということがわかり、
 
そういう経験はみなさんもおありではないかと思います。
 
それは、ある種の「成熟」で、
 
こういう「ささやかな覚醒」を、迷い、困りながらいくつもだんだん積み重ねてゆくのが
 
稽古というものかもしれません。
 
 
 
 
さて今日わたしはなんとか「手応え」を得て、
 
この記事を書いています。
 
まったく毎回ヒヤヒヤものです。
 
「アートフェスタ」が終わり
 
雑用に追われていて、なかなか稽古が難しい状態でした。
 
また勉強をしながら稽古をして行きます。
 
もしよろしければ、このブログをまた覗いてみてください。
 
不定期更新ではあるのですが、
 
毎回頭を捻ってあれこれ真剣に考えながら原稿を書いています。
 
作品もちらほらでき始め
 
ほっとしています。
 
それでは次回またお会いしましょう。
 
 
 
( つづく)

 


「共助団体」さんでの「アートフェスタ2024」

2024-09-21 16:53:08 | 日記

「共助団体」さんでの「アートフェスタ2024」

 

 

おはようございます。

 

みなさま、長らくご無沙汰していました。

 

「連載、イマジネーション・トレーニング法」の時間になります。

 

ずいぶんひさしぶりの投稿になりました。

 

よろしくお願い致します。

 

わたしは、ここのところ、

 

お金を出し合って支えあっている、

 

「共助団体さん」(「宇フォーラム美術館」さんといいます。)での、

 

年に一回のグループ展、「アートフェスタ」

 

の展示をやってきて、

 

ようやくそれが終わったところです。

 

 

こんな感じの立派な美術館でのお祭りです。

 

わたしは駆け出しの丁稚のようなものですが、

 

参加して、今年で3年目になります。

 

今回、ここの「ブログ記事」に発表するにあたり、

 

そこで話してきた、

 

「アーティスト・トーク」の原稿なども、公開することにして、

 

どういう原稿にしようかなと、

 

久しぶりの「ブログ原稿」にかかっています。

 

展示した画面は、

 

すでにこのブログ記事では、公開すみのものばかりになりますが、

 

報告として、

 

今回「再掲載」をすることにしました。

 

いわば「ライブ盤」です。

 

 

ではまず、「アーティスト・トーク」から。

 

だいたい、わたしがいつもこの「ブログ」に書いていることを、

 

改めて話してきたものになります。

 

また、いま「感覚の質のめざめ」を考えていて、

 

それも書いてみました。

 

 

「アーティスト・トーク」

 

わたしは話しことばはあまり得意でなく、

 

例年のようにかんたんな原稿を用意しました。

 

これで今年もよろしくお願い致します。

 

 

わたしの「画面の稽古」、「イマジネーション・トレーニング法」は、

 

当初、「イマジネーションの探求法」として出発しました。

 

必然的にそれは、具体的な「かたち、造形」の問題を含まざるを得ず、

 

ここ一年ほど、「メチエ」の研究をしてきて、

 

「メチエとイマージュの稽古」ということをずっとしていました。

 

それもいちおうおちつき、

 

いま「おとづれるイマジネーション」、

 

「ある感覚の質のめざめ」とその「画面への具体化」という

 

哲学と芸術の「であう」場所に、わたしはいま、いると感じています。

 

そんなことを経て、またいろいろ考えながら、

 

日々、勉強して、画面を稽古しています。

 

そして、こうして、こういう風にみなさんと、「アーティスト・トーク」をさせていただき、

 

とても光栄に嬉しく感じています。

 

ありがとうございました。

 

 

また、画面一枚につき、ごく簡単な散文をそれぞれ拵えたので、

 

これも公開したいと思います。

 

展示写真は、あまりうまく撮れていず、

 

どうしようかと思いましたが、

 

簡単に補正して、

 

やはり、公開することにしました。

 

 

作品「people and memories」

 

 

「人々とその記憶たちへ」、

 

お世話になった諸先生がたや、親しい人々、

 

また、これから出会う、懐かしい人々にむけて、

 

この作品を捧げたい、

 

そういう考えで、この作品を作った。

 

 

作品「稽古の深みより」

 

 

意識のベクトルを内面にむけて、深く深く心の井戸を堀り、

 

だんだん「稽古の深み」に下りてゆき、

 

ある「普遍」に至ることを願いながら、

 

この画面を作っていた。

 

この画面はわりあいと気に入っていて、

 

「本」の扉にも使ってみた。

 

 

作品「子供の領分」

 

 

わたしは「アルフレッド・コルトー」の演奏する、

 

「子供の情景」と「子供の領分」がセットになったレコードが好きで、

 

愛聴していて

 

この作品は、そのレコードへのオマージュだ。

 

稽古しながらレコードを聴くことはよくあって、

 

古いレコードを、安価に中古レコード屋で買ってきて、コレクションしている。

 

 

 

また、昨年拵えた「本」を二冊、展示し、

 

贈呈してきました。

 

 

今回の報告は、以上になります。

 

ざっと早足で紹介しました。

 

いまは、雑用がたくさん貯まっていて、それを片づけるので精一杯ですが、

 

ずいぶんすずしくなってきて、

 

また、稽古や勉強をがんばりたいと思っています。

 

「楮の10匁」という和紙を使ってみたいと思っていて、

 

数枚、買ってきたところです。

 

どんな「展開」になるか、楽しみにしています。

 

それでは、次回また、お会いしましょう。

 

読んでくださりありがとうございました。

 

(つづく)