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おはようございます。
先日は、「即興性」ということについて、かなり詳しく書きましたが
それを徹底すると
「アドリブ」ということになるのは
すでにお話ししたとおりです。
こういう方向性を追求した稽古が
わたしなりには「絵のアドリブ」「リバティ・バランス・セッションズ」と呼んでいるものになります。
ここで目指しているのは
「自由」ないしは「ほんものの自由」です。
また「建設的な自由」でしょう。
自由というものはなかなか難しく
人間というものはあんがいいろいろなものに縛られているもので
社会というものもまず、個人を縛ろうとしますし、
よく観察すると
自分自身がいちばん自分を縛っているとも言えそうです。
わたしはこれを「パターン」というものを通して
具体的に観察してきました。
「まったく自由に画け」と言われて
そのとおりに自由にしようとしても
できてくるのは
わりあいと決まった「パターン」の繰り返しで
「ほんものの自由」というものとはずいぶんと違うようです。
むろんこれは一概に悪いとはいえず
人間の絵の稽古には
それぞれ「スタイル」というものや「個性」というものがあり
これはとくに否定するべきではないでしょう。
しかし「パターン展開」をしてゆくプロセスで
「これは改善した方がいいだろう」と判断することもあり
人間の心の中のしこりやわだかまりのようなものをとり除く必要があることもあります。
そうなると
人間の根本的なパターンを一回否定することも
藝の稽古の重要な課題になり
さまざまな稽古を通して、これを行なっています。
「ほんものの自分とは?」というものを目指しています。
また否定の方法だけではなく、
積極的な肯定の方法
「自由の肯定の方法論」
としては
「絵でするアドリブ」「リバティ・バランス・セッションズ」
という稽古群があります。
これは「アイデアスケッチ」での観察から生まれたもので
考えてみて、独立した稽古として実践する意味があると判断してときどき実施しています。
反省してみると
わたしの方法論、
「イマジネーション・トレーニング法」では
否定の方法がかなり不足しているとここで感じます。
わたしの性格かもしれませんが、
おおよそ「自由の肯定」の方法論が中心となっています。
たとえば「思考の自由」としては「メモワール法」があり
人にぶつけるべきではない自分のかなり勝手な本音も
言ったりしたりするのは問題かもしれませんが
メモワールする分にはまったく自由で
自分の本音と建前をそれぞれきちんと「現実的具体化」してよく考えて
両者の「折り合い」をつけるのが
常識的なところだと思います。
また事実と、自分の本音、建前
の三つを冷静に分析してわかってくることもあります。
これはやってみてかなり有効な方法で
たとえばわたしの「メモワール」はかなり赤裸々な本音の集まりで
ちょっと公開するべきではないと感じます。
そんなわけで
「リバティ・バランス」というものは
気がついた方もいるかもしれませんが、
むかしの映画の名前のパクリで
わたしはその映画を見ていず
詳しいことはよく知らないのですが
名前を聞いて
この稽古群には非常にピッタリの名前だと感じて
採用することにしました。
自由というものは「バランス」が非常に重要で
「自由なバランス」というものを求めてゆくこと
「建設的な自由」というものをここで求めています。
きちんとした現実的な裏付けのある自由というものをここでは追求しています。
(つづく)