イマジネーション・トレーニングの日記〜わたしの藝と稽古の記録

パターンやイメージを探求するために絵を画いています。

補論、「イマジネーション・サイエンス序説」

2024-12-01 14:51:26 | 論文

 

2024年12月1日(日)

 

●かなり長期間悩みましたが、

 

今回、この原稿を公開することに決めました。

 

宜しくお願い致します。

 

 

 

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ここでわたしはデカルトの「方法序説」を読むが、

 

 

 

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ここでの引用は、

 

岩波文庫版「方法序説」、ルネ・デカルト著、

 

谷川多佳子、訳 (1997)による。

 

______

 

 

非常に有名な本だが

 

この本でのデカルトの主張は

 

いわゆる「近代合理主義」から逸脱する要素をたくさん持っていて、

 

「近代科学思想」の源流としてはなかなかユニークだと思う。

 

こういう部分を現場の科学者はいったいどういう風に解釈しているのだろうか?

 

とくに興味を惹かれるのは

 

「第五部」の項目で

 

「動物生気」、(p.73 )

 

「理性的魂」、(p.78 )

 

などのアイデアを含み

 

はっきり北宋道学や、朱子学などの「道学」の

 

「気」概念や「理」概念との類似性を示す。

 

 

また、よく知られているようにこの本は、

 

強く「神への直観」を扱っていて、

 

いままでの「近代科学」は

 

デカルトのこの本のアイデアを十分に吸収していないと感じる。

 

科学の問題として神や信仰の問題をどう解釈するかだ。

 

わたしはここで

 

わたしがずっとやってきた、「イマジネーション・トレーニング法」とは

 

つまり「イメージについての科学」だと理解し、

 

「生きた人間の生きたイメージ」を扱うことが

 

「わたしなりの方法論」だと理解する。

 

 

そのためには、

 

いろいろなアプローチがあるとは思うが

 

わたしは「瞑想」とか「カウンセリング」にはまったく向いていず、

 

「藝の稽古」をしていて、

 

何度もくどくいうように、

 

わたしは「イメージ」や「イマジネーション」を扱う上で、「絵画イメージ」に問題を限定し、

 

(

 

 

わたしにはそれをするゆとりはないが、

 

音データ、音イメージなどを使った方法もあると思う。

 

)

 

 

はっきりした「方法論的根拠」として、「記録メディア」を扱い、

 

「イマジネーション・デッサン」という形で

 

「イメージだし」を実験してゆき、

 

「イマジネーション・メモワール」

 

というやり方で

 

帰納的に、「考察、理論化、法則化」を行う。

 

これはつまり「二重メモワール法」で、

 

必要なだけ「デッサン」と「メモワール」

 

を繰り返して

 

「イメージ」というものを探求してゆくというやり方だ。

 

つまりこれはわたしが、

 

「イマジネーション・トレーニング法の概要」論文で呈示した方法論だ。

 

まあ目的はいろいろあっていいとは思うが

 

いまのところわたしは「いい画面をつくる」

 

目的が妥当だと感じる。

 

漠然としているが、こうとしか言いようがない。

 

わたしはいちおう画家で、「画面」をつくる専門家だが、

 

できる人にはおそらく「セラピー」や「求道」、「娯楽」、「タブレットを使った教育」や「自己啓発」、

 

などの目的にも使えると思う。

 

ここで多様な可能性を示唆したい。

 

そういう視野に立ってみると

 

わたしの「イマジネーション・トレーニング法」

 

は「イマジネーション・サイエンス」と呼んでよい、

 

大きな「理論的ひろがり」

 

を持つことも、はっきりしているのではないか?

 

よって、ここに「イマジネーション・サイエンス序説」として、補論としたい。

 

 

これは「新しい科学」

 

「イメージの科学」の探求の、新しい、方法論、理論で、

 

かなりの達成だと感じる。

 

数式や演繹法を使わない、「芸術的科学」で、

 

「量」の科学ではなく、「質」に関係する科学だ。

 

 

この「科学」をつかってわたしは

 

「おもしろい」とか「たのしい」とか「嬉しい」、

 

というようなポジティブで建設的なことを

 

「質的厳密」、「質的普遍」 の課題として、

 

わたしなりに研究できそうだと、漠然と感じている。

 

そういう学問も、これからの世の中には

 

あったほうがいいのではないかと思う。

 

「合理と非合理の調和」

 

つまりそれが「イメージの世界」、「心の平和」

 

というものだろう。

 

 

 

(つづく)