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イマジネーショントレーニングが多くを即興に負っている以上は
失敗ということもむろん大いにありえます。
では失敗とは具体的に言っていったいどういうものでしょうか?
そしてこれにどう対処すれば良いでしょうか?
今回はこれを切り口にして、ちょっと稽古を考えてみたいと思います。
たとえば技術的な訓練、
形をとったりする技術が内容の中心となるジャンルでは、
成功と失敗はかなりはっきりと別れると思います。
その場合にはかなりの技術力がないとそもそも成立しないでしょう。
つまり技術力というものの度合いが強く、
またその分単純だとも言えるかもしれません。
ですがその場合でも一定の技術プラスアルファが非常に重要だと思います。
技術力だけでは藝術の仕事として弱いのではないでしょうか?
わたしの画いているようなもの、イマジネーショントレーニングの稽古においてはどうでしょうか?
いろいろな技術を使って、
画面が極端にめちゃくちゃにならないようにはむろんできるのですが
そうなると稽古がだんだんマンネリ化してくる傾向があり、
無難な画面ばかりでは、やっていてぜんぜん面白くないのも事実です。
いい画面を作ろうとすればするほど冒険というものに大きく依存する傾向があり
創造と失敗は非常に親しい関係にあります。
稽古では、偶然の試みをちょっとずつ積み重ねる必要があり、
これは失敗したなあと思うことはざらにあります。
では失敗したらどうするかですが
失敗したときというのはある意味で真剣勝負で、
そこからどうすればいい方向にもってゆけるかという工夫が大事です。
失敗を発展させてもっと大きな成功に導くことはよくあります。
これをわたしは「パターン展開」と呼んでいて、
考えもしない新しいアイデアやパターンが生まれるいいきっかけになったりもします。
そういう風に、
冷静に考えてみると失敗がそんなにひどい失敗ではない場合がかなり多くあります。
だいたい初心者は極端に失敗を恐れる傾向があり、
経験を積んでゆくとだんだん大胆になる傾向があります。
しかし、それにしてもさすがにこれはちょっとひどいというものもあり、
そうであっても、
それはそれで、そういうものばかり集めてみて面白い、勉強になる、という場合もまたあります。
わたしは「イマジネーション・エクササイズ」という形で、これに取り組んでいます。
これがつまり「失敗の研究」です。
また、いい「藝」とまではいえなくても「稽古」として面白い、いい稽古だ、というものもかなり多くあります。
そうしてみると、なにをもって失敗というかはとても難しい問題で、
失敗を恐れて実験というものはありません。
しかしそうしてみて、その逆に「駄目な稽古とは?」ときちんと考えることも非常に重要です。
無難なようでいて、袋小路や行き詰まりに入り込む場合があります。
これはなかなか難しい判断で、いまのところわたしにもよくはわからないのですが、
わたしは「展開」という概念でこれを考えていて
そこから発展する見込み、将来性で、だいたいを考えています。
また「雑な稽古」というものはやはり駄目で、
稽古は丁寧にする必要があります。
またこれははっきり駄目だと判断するケースもむろんあります。
しかし、いろいろの程度や個性のニュアンスの集合が、稽古というものです。
それはまるで音楽の協和関係と同じで、
「失敗」とはようするに音楽の「不協和音」のようなものです。
音楽の発展には、不協和音の研究が多く貢献していますが、
それとよく似ていると感じます。
稽古の玄人は、簡単に失敗と成功を決めません。
そういう失敗を克服して、
いいものを作ってゆけるという技術力こそ重要です。
しかしここで
大きくたしかな手応えをはっきり稽古で感じるときがあり、
そういうときはわたしは迷わずにこれを表に出すようにしています。
そうなると成功か失敗かは重要な問題の中心ではないでしょう。
つねにそれをどう稽古してゆくかです。
これは体験しないとよくわからないかもしれません。
つまり感動というものが大切です。
これを「上達」と呼ぶと藝の道で教えられたことがありますが、
ほんのわずかずつのささやかな「上達」を求めて、
画面の中の「藝」と「稽古」を、さまざまに探求しつづける試みが、
ある意味で「イマジネーショントレーニングの「精神」」といえると思います。
(つづく)