イマジネーション・トレーニングの日記〜わたしの藝と稽古の記録

パターンやイメージを探求するために絵を画いています。

アンソロジーからシリーズへ

2021-07-31 12:28:00 | 日記



みなさん、おはようございます。

「イマジネーション・トレーニング法」連載のひとときです。

よろしくお願いします。

今回は「アンソロジーからシリーズへ」というタイトルで書いてみたいと思います。

そもそも「アンソロジー」というものは、

水彩和紙でのイマジネーショントレーニングが、ばらばらなので、

仮にダイソーの「クリアブック」にしまったもので、

作った順番にできるものです。

これをいちおう「アンソロジー」と呼んできました。

現在これはざっと30冊程度です。

内容は、種類もばらばらで、完成度もいろいろです。

ようするに稽古の記録をざっと簡単に保管しているものです。

ここで、個展となり、

そのバラバラな「アンソロジー」の中で

今回、「天下大道」と呼ぶ「モティーフ(動機)」から、

「シリーズ」という冊子を、三冊ほど用意しました。

作業としては、

「アンソロジー」の冊子から、

「天下大道」の作品群をピックアップして、

それを、別の「シリーズ」用のクリアファイルに移しています。

また個展の展示では、

「シリーズ」からさらに選んで

凝縮した表現、あるいは展示できるもの、を厳選するという作業をしてみました。

そうしてみると、稽古のプロセスとは、

ある意味で、この「シリーズ」を「厳選凝縮」してゆくものだという風に、

見る方法があると気が付きます。

毎日の稽古では、毎回、必ずある特定のモティーフが出るわけでもなく、

またそうそうレベルの高い作品ばかりできるものでもないのは、

すでにお話したとおりですが、

こういう風に「シリーズ」というものを考えてゆくという視点ができて

いろいろと書きながら考えさせられます。



こういう視点では、

一枚ずつの「イマジネーション・デッサン」「アイデアスケッチ」を、

「エスキース(下絵)」と呼びたいと思います。

そうなると「シリーズ」というものは、

ある意味で稽古の理想像に近いものとなると

言えるのではないかと思います。

しかしながら、

「アンソロジー」という「現実」と、

「シリーズ」という「理想化」は、はっきりと大きなギャップがあります。

ここをどう考えるかは今後の課題にしたいと思います。

(つづく)

「ほんものの自由」と「リバティ・バランス・セッションズ」について

2021-07-18 11:25:57 | 日記



おはようございます。

先日は、「即興性」ということについて、かなり詳しく書きましたが

それを徹底すると

「アドリブ」ということになるのは

すでにお話ししたとおりです。

こういう方向性を追求した稽古が

わたしなりには「絵のアドリブ」「リバティ・バランス・セッションズ」と呼んでいるものになります。

ここで目指しているのは

「自由」ないしは「ほんものの自由」です。

また「建設的な自由」でしょう。

自由というものはなかなか難しく

人間というものはあんがいいろいろなものに縛られているもので

社会というものもまず、個人を縛ろうとしますし、

よく観察すると

自分自身がいちばん自分を縛っているとも言えそうです。

わたしはこれを「パターン」というものを通して

具体的に観察してきました。

「まったく自由に画け」と言われて

そのとおりに自由にしようとしても

できてくるのは

わりあいと決まった「パターン」の繰り返しで

「ほんものの自由」というものとはずいぶんと違うようです。

むろんこれは一概に悪いとはいえず

人間の絵の稽古には

それぞれ「スタイル」というものや「個性」というものがあり

これはとくに否定するべきではないでしょう。

しかし「パターン展開」をしてゆくプロセスで

「これは改善した方がいいだろう」と判断することもあり

人間の心の中のしこりやわだかまりのようなものをとり除く必要があることもあります。

そうなると

人間の根本的なパターンを一回否定することも

藝の稽古の重要な課題になり

さまざまな稽古を通して、これを行なっています。

「ほんものの自分とは?」というものを目指しています。

また否定の方法だけではなく、

積極的な肯定の方法

「自由の肯定の方法論」

としては

「絵でするアドリブ」「リバティ・バランス・セッションズ」

という稽古群があります。

これは「アイデアスケッチ」での観察から生まれたもので

考えてみて、独立した稽古として実践する意味があると判断してときどき実施しています。

反省してみると

わたしの方法論、

「イマジネーション・トレーニング法」では

否定の方法がかなり不足しているとここで感じます。

わたしの性格かもしれませんが、

おおよそ「自由の肯定」の方法論が中心となっています。

たとえば「思考の自由」としては「メモワール法」があり

人にぶつけるべきではない自分のかなり勝手な本音も

言ったりしたりするのは問題かもしれませんが

メモワールする分にはまったく自由で

自分の本音と建前をそれぞれきちんと「現実的具体化」してよく考えて

両者の「折り合い」をつけるのが

常識的なところだと思います。

また事実と、自分の本音、建前

の三つを冷静に分析してわかってくることもあります。

これはやってみてかなり有効な方法で

たとえばわたしの「メモワール」はかなり赤裸々な本音の集まりで

ちょっと公開するべきではないと感じます。

そんなわけで

「リバティ・バランス」というものは

気がついた方もいるかもしれませんが、

むかしの映画の名前のパクリで

わたしはその映画を見ていず

詳しいことはよく知らないのですが

名前を聞いて

この稽古群には非常にピッタリの名前だと感じて

採用することにしました。

自由というものは「バランス」が非常に重要で

「自由なバランス」というものを求めてゆくこと

「建設的な自由」というものをここで求めています。

きちんとした現実的な裏付けのある自由というものをここでは追求しています。


(つづく)

個展の報告、2021年6月

2021-07-06 11:04:14 | 日記
 


みなさまご無沙汰しております。

お変わりないでしょうか?

かなり久しぶりの更新になります。

6月いっぱいは

とあるギャラリーカフェで

ずっと個展をしていました。

この場でお知らせをするべきところでしたが、

わたしの中で

こういう不特定多数のみなさんと

個展の相談をすることは

かなりの迷いがあり

今回はこのブログでのお知らせはご遠慮させていただくことにしました。

大変申し訳なく思っています。

個展はそういうわけで無事終了しましたが

御報告も兼ねて

ここの紙上での

ギャラリーの再現を行おうと思います。

どんな個展だったか

おおよそわかるように

写真を構成することにして

解説もはさみつつ、

今回はかなりの枚数の写真を掲載することにしました。

しばしお楽しみいただけると幸いに思います。







作品「予兆」





作品「蠢動」





作品「回旋」





作品「森の光景」





作品「CAR`S AND CDR`S」




作品「明鏡止水」




作品「天下大道」


この七作品は「天下大道」という「シリーズ」から「抽出」したもので、

一連の「運動大系」となっています。

わたしの稽古で、ここのところ、

もっともアクティブなシリーズで、

この系統の作品はほかにもたくさんあります。


サンプルをあげると

    

   


などです。





全体像を大まかに撮ってみました。

新型コロナの影響で、透明なプラスチック盤が視野に入っています。



   


解説冊子や、「アンソロジー」をも、3,4冊展示して、

あまり読んでくれる人もいなかったですが、

かなりの準備をしました。

この内容は、現在PDFになっていて、

JPEGに変換するなどして、

機会があれば、公開したいところです。


***


また、別の壁面に移ると、







作品「龍神〜水の迦微」





作品「ぷくぷく子の夢」





作品「こるるの一日」







これらはiPadで画いたものを、

友人に印刷してもらい、

額装したシリーズで、

「龍神」と「ぷくぷく子の夢」は、

「プロクリエイト」での製作、

「こるるの一日」は、

「メモアプリ」に、アップルペンシルで、画いた

「ルーティンワーク法」から生まれた作品です。


「ルーティンワーク法」というと、

丸や四角を延々と画く稽古です、としか紹介していませんでしたが、


こういう作品がふっと生まれる「ことも」あります。









会場に机があり、「芳名帳」を置き

花を飾ってみました。

たくさん花をいただきましたが、

期間が一か月と長かったので、

慌てて買い足したりもしました。







カフェの外観です。

***



ざっと「インターネット・ギャラリー」をしましたが、

今回は、二月から準備にはいり、

かなり時間を贅沢に使え

また、友人の援助をかなり大きく受けて

120パーセントのできの個展になりました。

いい個展ができました。

さてこれからの活動ですが、

今回、「一稽古人」という、

藝の道の教えをここで改めて確認しました。

まあなにで喰ってゆくかは頭の痛い問題で、

悩みはつきませんが、

藝の道での一稽古人という立場を、

なんとか守れると、

おおよそいいのではないかと、

漠然と考えています。

また、學というものが、

ここで大きく欠けていると感じています。

それではみなさん、いつも見てくださってありがとうございます。

また次のブログでお会いしましょう。


(つづく)