イマジネーション・トレーニングの日記〜わたしの藝と稽古の記録

パターンやイメージを探求するために絵を画いています。

一日の稽古と「稽古の序破急」について

2021-12-27 13:23:55 | 日記



おはようございます。

連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。

よろしくお願いします。

イマジネーション・トレーニング法においては、

だいたいの

一日の稽古の流れというものがあります。

これを今回は紹介したいと思います。

学校でならったスポーツの時間であれば

軽くジョギングして

ラジオ体操と柔軟体操

サーブなどの玉のやりとり、

技の分解訓練

それから、簡単な練習試合に集注して

最後に「整理体操」をしておしまい。

というような一連の「稽古メニュー」があったと思うのですが、

絵の稽古でも

一日の稽古には簡単なメニューがあり

絵はクリエイションのプロセスなので、

日によって稽古はがらっと変わってしまうこともありますが、

だいたいの基本的な「流れ」をいちおう想定していて、

これをむかしからのことばで「序破急」

と呼んでいます。

スポーツや楽器の練習と同じように

はじめから難しい課題をがんがん稽古するのはちょっと無理で

「イマジネーション・トレーニング」としては

「アイデア・デッサン」を軽くして

ここで見つけた「モティーフ」で

いくつか「ルーティン・ワーク」をしてみて

「展開」というものを観察し、

「クロッキー」や「水彩和紙」でのやや真剣な稽古をして、

だいたい気に入った作品ができたら

スマホで写真を撮って

記録をとって

おしまいにしています。

「水彩和紙」の稽古は「やりすぎないこと」をいまは考えています。

ものすごくたくさん「水彩和紙」をしていたこともあるのですが、

いろいろ実験して、いまは

しない日もありますし、

するときでも

だいたい一日、3〜4枚の範囲内でやっています。

そのほうがいい結果になるようです。

どういう「マチエール」にするかという問題もありますが

いい作品はそうそうできません。

またなにかしらひょいと思いついて「イマジネーション・メモワール」(文章の形での稽古)

をすることもかなり多くあり

そうなると稽古の内容もかなり変化します。

たとえばいま、わたしはふと思いついて

iPhoneの「Bear」というアプリで

机に向かって

この原稿をぽちぽち打っています。

こういう風な毎日の稽古にどういう意味があるのかは

もちろん非常に難しい問題ですが

クリエイションに近い状態で

日々稽古していることは

よい作品を生み出す原動力になっていると感じ

毎日そういう時間をちょっとずつとることは

創作では重要なのではないかと感じています。

さて、

今年の連載「イマジネーション・トレーニング法」は

今日で「仕事おさめ」です。

いつも暖かく見守ってくださって感謝しています。

ありがとうございます。

来年もまたよろしくお願い致します。

また次回お会いしましょう。


よいお年を。



( つづく)

「ルーティン・ワーク法」と「画面の束縛」をめぐって

2021-12-15 19:32:34 | 日記



おはようございます。

連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。

よろしくお願いします。

さて前回から「画面の自由」というテーマで、

話しを進めているところでした。

いちばん最初はわたしも

「殴り画き法」で自由を追求して

「ルーティン・ワーク法」で「自由の束縛」を学ぶ

という風に相当シンプルに方法論を考えていたのですが、

具体的にやってみて事態はそう単純ではないことに気づきます。

わたしは以前に、

「ベーシック・パターン」と言って

自分の描画に現れた「パターン」を整理して

自分なりに5〜6箇ほどに分類してみたことがあり、

これは人によってかなり違うと思うので

興味がある方はされるといいですが、

「ルーティン・ワーク法」ではだいたい「ベーシック・パターン」のどれかを意識します。

要するに、丸なら丸ばかりをたくさん描くのですが、

いろいろやってみて、

まあ、単に「丸を画く」、あるいは「四角を画く」、また「点を打つ」といっても、

いろいろなバリエーションを考えられるし、

「マチエール」もまた、いろいろ考えられるだろうということがだんだんわかってきます。

つまり、「ベーシック・パターン」は、さまざまなバラエティの可能性を内包しています。

つまり、それだけである種の「モティーフ群」と呼んでいい部分があると言っても過言ではありません。

「ベーシック・パターン」には

そういう、曖昧な要素があり

また、そういう曖昧さがどうしても必要だろうと思います。

つまり「ルーティン・ワーク法」は、

完全に「自由の束縛」の方法かというと

必ずしもそうとも言い切れない部分があるとわかります。

まったく不思議なことですが、

「なぐり描き法」が必ずしも「自由の方法」でないのと対称的に

「ルーティン・ワーク法」も必ずしも「自由の束縛、拘束」とは言えないと言えそうです。

これは「画面の自由」というものを考えるうえでは

非常に大きな意味合いを持っていると感じました。

前回から「なぐり描き法」や

今回では「ルーティン・ワーク法」についても

細かく説明してみましたが

そうして見ると

なにを以て「画面の自由」と指すのか

わたしにはだんだんわからなくなってきたというのが、

率直な実感です。

(  つづく )

なぐり描き法とルーティン・ワーク法〜「画面の自由」について

2021-12-07 18:39:23 | 日記



おはようございます。

連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。

よろしくお願いします。

さて、

「イマジネーション・トレーニング法」には

以前紹介した、

「リバティ・バランス・セッションズ」のほかにも

「画面の自由」をめぐる2つのレッスンがあります。

今回はこれを考えてみます。

まずそのひとつは

今回はじめて紹介しますが、

徹底した「自由の探究」である「なぐり描き法」で、

なんでもいいので

思いついたものを、ばーっと「なぐり描き」してゆくレッスンです。

またもう一つのレッスンは

逆に、完全に「画面の自由」を規制する方法で

これまでときどき紹介してきた

「ルーティン・ワーク法」です。

これは丸なり四角なり決まったものを

延々と画いてゆくレッスンで

これまでわたしが「イメージの筋トレ」とよんできた方法です。

この二つはまったくの正反対のレッスンで

完全な「両極端」と言えるでしょう。

これをときどき行ったり来たりしながら、

現れるもの(イメージ)をいろいろと勉強しています。

わたしは「なぐり描き法」をしていて、現れてくるものに

だいたい一定の形や「パターン」があることに気づいて

これを「プリミティヴ・パターン」とよんでいます。

人間というものは

いくら100%の自由を与えられても

ほんとうに「自由自在」に振る舞うかは

かなり疑問で

なにを「自由」というかというと、

だいたいこの「プリミティヴ・パターン」に従って

行動しているようです。

これをはっきりと「意識化」するということが

「なぐり描き法」のレッスンの重要なポイントとなります。

さて

つぎに「ルーティン・ワーク法」についても書いてみたいのですが

原稿がかなり長くなり

ここから先は

また次回ということにした方が

きりが良さそうだと感じます。

みなさんも

ご自身でときどき、

「なぐり描き法」や「ルーティン・ワーク法」をしてみて

「画面の自由」というものを

それぞれプラクティスしてみてください。

それによって

ふだん画く絵もまた新しい眼で見られるようになるのではないでしょうか?



( つづく)