イマジネーション・トレーニングの日記〜わたしの藝と稽古の記録

パターンやイメージを探求するために絵を画いています。

「メタ・ノーティングの構造と「メモワール」について」論文

2022-04-26 10:55:13 | 論文


「メタ・ノーティングの構造」と「メモワール」について

2022年4月26日(火)

〇外山滋比古「思考の整理学」より、

「メタ・ノート」を読んで、

〇手帖に書かれた、ただの「アイデア・メモ」から出発して

情報を書く媒体、つまり外山のいう「コンテクスト」をいろいろと変えながら

アイデアを発展させて、完成原稿に昇華させてゆくプロセスを

外山は「メタ・ノート」と呼んでいる。

わたしもまた、この「メタ・ノート」の作業をわたしなりにしていると感じる。

それについて少し書いてみたい。

わたしの場合は、「メモワール」という作業を毎日かなりたくさんしている。

それは「特有の文体での文章の作業」あるいは「不完全な文章体で書くことの実践」で

ここでわたしはさまざまな考えや思いを、とりあえず自分なりに「言語化」していて、

自問自答の「思考」のプロセスを、この「メモワール」という「コンテクスト」で行なっている。

生活の一環として日常的にしている行為だ。

こういう作業を日々、大量にしているが、

わたしはこれを「メモワール法」とよんでいる。

これはわたしの独自性だと思う。

道具はだいたい、iPadやスマホ、パソコンなどのデジタル媒体を使っているが

はっきり意識して、アナログの手書きの方法を使うこともある。

書く媒体の質感が内容に影響するからだ。





文章の場合には、なにはさておき「具体化」が重要で、

とりあえず一回、ある程度具体化しないと価値や意味が自分でもよくわからず

「具体化」の第一歩としての「メモワール」には大きな意義があると感じている。

そしてこういう「メモワール」は、わたしの場合、なかなか「原稿」としては、きちんとした文章の形にならなかったが、

ある時期、

「ブログ原稿」を書くようになってから、「完成化」、「原稿化」の技術がかなりすすんだ。

自分の考えをわかりやすい散文で書けるようになった。

状況によって

「メモワール」、「仮原稿」、「印刷原稿」と

「コンテクスト」をさまざまに替えながら、だんだん文章を整えてゆく。

完成したと判断した文章は「ブログ」などのメディアを使って「公開」している。

わたしは書簡などもこういう方法で書いている。

また、完成された文体でも、「公開」までは行かない文章、

つまり「社会的説得力」を充分に持たない文章もある。

これを「草稿、雑案」と呼んでいるが、なにかの欠陥や支障のある原稿群だ。

「メモワール」や「草稿、雑案」は原則非公開にするのが妥当だと思う。

また「わたし自身にとっての真実」を、

自分なりに、ある程度はっきりさせたい場合もある。

そういう時もわたしはこれを「メモワール」や「原稿」にするが、

そういう、いわば「プライベート・ノート」とでもいうべき文章もある。

当然そういうものも非公開原稿になる。

さまざまの複雑な「メタ・ノート」のプロセスを経て

一本の公開原稿が生まれる。

その周囲には、非常に多くの「捨て情報」があるのも事実だ。

ほとんど無駄であるように見えても、この「捨て情報」は、重要だと思う。

なぜならそれは、文章の形で現された、わたしの「現実認識」そのものだからだ。

大袈裟にいうと「わたしの思想の営みの生きた姿」がおそらくそこにはあるだろう。

そして、こういう作業全体を、外山の言葉から応用して「メタ・ノーティングの構造」と呼ぶのはごく自然な結論だろう。







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参考「思考の整理学」

外山滋比古、著

ちくま文庫、1986年

520円 プラス 税

「ブラックボックス」から

2022-04-20 13:23:14 | 日記


みなさん、おはようございます。

連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。

よろしくお願い致します。


今回は「ブラックボックスから」という視点で、

稽古をちょっと振り返ってみようと思います。

いままでの繰り返しになる部分もできますが

お許しいただきたいと思います。





稽古とは、まず「即興」のプロセスです。

作品を作るのは、「即興」ですし、

そのための「エクササイズ」や「実験」「研究」

また、文章の形での(このような)「考察」など、

みな、すべてが「即興」の一部分だと感じています。

そしてこれらは、「即興の円環」「稽古の円環」をなしています。

創造的な経験の構造です。

それはたとえてみて、

「稽古」という、一種の「ブラックボックス」に、ぽんぽん「具材」や「素材」をほうりこんでぐつぐつ煮ると、

なにかが「ブラックボックス」から、ほこほこと出てくるような感じなのですが、

なにが出てくるかは、具体的には、出てくるまえの時点ではよくわかりません。

楽しい部分もありますが、同時に不安も感じるところです。

画いているときは、半分意識で、半分無意識という

微妙な感覚です。







稽古のための「稽古法」や「具材づくり」のようなものは、わたしの場合には、たくさんあって

いままでいろいろ工夫してきたのですが、

わたしは「絵の形での稽古」を「イマジネーション・デッサン」と呼び、

「言葉(書きことば)での稽古」を「イマジネーション・メモワール」と呼んでいます。

これについてはいままでもずいぶん書いてきたと思います。






たとえば「イメージだし」という経験を、わたしは「絵画教室」では習いましたが、

日々、「アイデア・デッサン」に「イメージだし」をしつづけることは、

「ブラックボックス」への、いい「インプット」になっています。

「イメージだし」にもいろいろあって

いろいろ「インプット」した段階での、

稽古が進んでからの「イメージだし」もあり、

これは、けっこう高度な「イメージだし」になったりもします。

いろいろな稽古をすることによって

「イメージだし」の内容を豊かにしていっていて、

これはジャズのアドリブの練習と似ているかもしれません。



また、ここが面白い点ですが、

「アイデア・デッサン」や「イメージだし」は

同時に作品制作の具体的なプロセスでもあります。

言ってみると「アウトプット」でもあるわけです。

こういう二重性が、「イマジネーション・トレーニング」の稽古にはあります。

つまり「エクササイズ」と「制作」の方法論に、あまり違いがないのです。

「ルーティン・ワーク法」や「殴り画き法」は最近やっていませんが、

ああいう稽古の場でも

必然性があればいい「作品」ができたりもします。

曖昧で漠然としていると、なにも稽古ははじまらないわけで、

とりあえず、一回「イメージ」を「具体化」して、じっくり観察してみることは、

たしかにいい「エクササイズ」でもあるのですが、

さらに、エクササイズの結果が「作品」となるケースがあり、

これは、できあがってみないとよく判断できません。

音楽でいう「ジャム・セッション」のようなことを、ある程度時間をかけてひとりでしているわけです。





基本的には「アイデア・デッサン」は、「エクササイズ」として指導されたのですが、

だんだんと作品といえるレベルのものができてくるようになりました。

紙とか、画材の問題もあり、

どのくらい高度なものが生まれるかは疑問ですが、

エクササイズが「創造的」であることは

わたしにとって、非常に大きいと感じます。

また「作品」というほどの「完成度」のない「画面」も同時にけっこうできますが、

それはそれで別に大きな意味があります。





そういうときにわたしはなにを考えているかですが、

むろん、かなり考えてはいるわけです。

考えること自体が稽古の一部です。

たとえばここのところの稽古では「パステル」や「色」の扱いで、

「パステルの単独の練習稽古がいるかもなあ…」、

とか、

「しかし、具体的にはなにをしたらいいだろう?」、

などとくよくよ悩んでいます。

色について、

面について、

などが最近のテーマですが、

「メモワール」するほど、はっきりした言語化は考えられないまま、

しかし、とりあえずわたしはいまのところ、

「アイデア・デッサン」の制作の場でパステルを扱いながら、

だんだんに慣れてゆき、同時にこれを研究もしていています。

つまりこれは「イマジネーション・デッサン」という形での「非言語的思索」です。

画面を画いてゆくことで稽古が進んでゆきます。

制作の現場で、エクササイズも同時にするのが、

とりあえずの、いまのわたしなりのスタイルとなっています。



そういえば「宮大工の棟梁」の本で読みましたが、

職人さんの世界では「現場で教育するやり方」というものがあるそうで、

これとちょっと似ているかもしれません。





稽古の場、それはわたしの場合、台所のテーブルですが、

それはちょっとした「実験工房」のようなもので、

日々、画面に向かい、

ああでもない、こうでもないと、

自己を探求しつづけながら、

同時に作品を生産しつづける場です。

そしてまた、この「ブログ原稿」も「研究の場」と「生産の場」の両方の側面を持っていて、

日々の稽古のいろいろを考えつづけると同時に、

こうして具体的に文章の形で、

なるべくはっきりした、わかりやすい言葉で、

読者のみなさんにも見ていただくことに大きな意味があると思っています。

これもまたわたしの「即興」や「稽古」の一環です。



そういうわけで、

今回は「ブラックボックスから」という切り口から稽古を考えてみました。

けっこう難航して、いい経験でした。

またつぎの原稿でお会いしましょう。



( つづく )

「ミロ展」に思う

2022-04-11 16:46:57 | 日記




みなさん、おはようございます。

連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。

よろしくお願い致します。

わたしのしていることは、

「イメージやパターンの勉強」で、

厳密には画家さんのやっていることと同じ作業なのか、わたしにもよくわからず、

わたしはいつも繰り返しているように、

言葉、主に「書きことばのレッスン(メモワール法)」などもしていますし、

また、画面の訓練と言葉の訓練の独自の結合がわたしの稽古の特色です。


しかし、かなりたくさんの時間をつかって絵(画面)を画いているのも事実で、

絵の先生には二人ほど師事してきましたし、

美術の共助団体さんにも参加していて、

気になる画家さんもいます。

たとえばカンディンスキーやクレーです。






そこで今回、報告ですが、

渋谷の「Bunkamura」さんでやっている、

「ジュアン・ミロ展〜日本を夢みて」という展覧会にいってきました。

ミロの絵を見るのはわたしは初めてですが、

わくわくするほど愉快で、

すごくいい刺激をうけて、とても楽しかったという印象です。

「イマジネーション・トレーニング」の作業で、わたしの稽古にあらわれる

「イマジネーション・デッサン」と非常に似た作品もありました。

ミロは、「シュルレアリスム」などをしていた時期もあったそうで、

方法論的な類似性があるのかもしれません。

今回の展覧会は「日本とミロの関係」が大きなテーマとなっており、

ミロなりの「書」の試みもありました。

わたしも道楽で、「みやびふみ」という書をしており、

書には興味があります。

そういう条件もまた重なり、

非常に興味深い展覧会でした。

ここまでストレートに心に入る展覧会ははじめてです。

買ってきた「カタログ」を眺めながら、

この原稿を書いています。

ミロの人生もかなり波乱に満ちていたと知りました。






ここで、なぜわたしはここまでミロに共感するか?

という課題をちょっと考えます。

優れた芸術家の作品を眺めたり、また聴くことは

むろん、嬉しく、また楽しい体験だと思いますが、

辛く、苦しい、重い印象を与えるようなタイプの芸術もあります。

それはそれで必要なときもたくさんありますが、

わたしは根本的に

陽気で、愉快で、楽しい世界をどこかで探しているようだと気づきます。

ミロの作品からわたしが感じるものは、

やはりユーモアにあふれた、陽気で、面白く、楽しい世界でした。

希望の絵だと思います。

ミロにとっても絵を画くことはハッピーだったのではないかと思います。

こういうものが「受ける」のは、現在の社会情勢が、

「陽気で、面白く、楽しい世界」とはまったく正反対の事件に満ちているからだと思います。

陰気で、深刻な問題に満ちた、悲惨な時代です。

そうしてみると、

芸術も、またわたしの「藝の稽古」も、

ある程度は、「人間精神を正常にとり戻す」という

重要な機能があるのかもしれないと思いました。

こういう価値観は非常に大事だと思います。

むしろこういう時代だからそれが必要なのだと思います。

「面白く楽しい」稽古の価値観です。

読者のみなさんも、

わたしと同じように、辛く暗い気持ちになることも、ままある日常だと思います。

そんなとき、「ミロ展」をみにゆくのは、とてもよいことだと

心よりおすすめします。

4月17日(日)までの開催です。

チケットは、予約などになるそうで、

インターネットで確認のうえ、

お越しください。

また、今回の原稿の画像には、ミロの作品を掲げたかったのですが、

著作権の都合もおそらくあり、

いつもどおり、すべてがわたしの個人的な作品です。

悪しからず。

また今回は原稿をアップしてからが大変で

二転三転してようやく現在の形に落ち着きました。

びっくりした人もいたかもしれませんが、

お許しいただきたいと願います。

そういうわけで

またつぎの原稿でお会いしましょう。


( つづく )

「稽古」を考えること

2022-04-01 07:53:08 | 日記



みなさん、おはようございます。

連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。

よろしくお願いします。

今回は、表題にあげたように

「稽古を考える」という観点から

「稽古」そのものについて、わたしがここまでの稽古で編み出した、

わたしなりのやりかたを、ちょっと紹介してみたいと思います。

わたしなりの「稽古法」の紹介です。

今回はタイトルが二転三転して、

原稿を考えるのがすごく大変でした。

とても重要なポイントだと感じます。

藝事の稽古をされている方の参考になるとよいです。

わたしの稽古で一番重要なことは

「するべきことをして待つという基本姿勢」です。

これについては去年、ブログをはじめて数回書いた時点で、既に書きました。

つまり決め手となるのは

「やっていればいつかはなんとかなる」

と言えるだけのことをしてゆく努力です。

わたしもあれこれと「稽古を育てるレッスン」を試みましたが、

一番大事なこととしては、またかと思われるでしょうが、

「毎日の稽古」と「アイデア・デッサン」です。

やってみて、これはかなり難易度が高いハードルだと思います。

毎日というのは若干誇張があると思いますが、

規則的な稽古をすることは、前回書いたように

「日々を稽古とともに暮らす」ことです。

これをしないとなかなか稽古は進まないので、

日常の場で稽古する習慣をつけるような工夫が必要です。

画材をそろえて紙を用意し、

わたしは台所の机でこつこつ作業をしています。

そういう自然な積み重ねから拓けてゆく、「展開」については、既に書きました。

こういう風に努力すると同時に、また稽古プロセスを観察してゆくのですが

ああでもないこうでもないと、こうして経験を積んでゆくことが

いまのわたしのスタイルです。

また、わたしは作品の写真を毎回撮っていますが

わたしなりにこれを稽古の中で活用していて、

プレゼンという目的以外にも、

いろいろ使い道があります。

自分の作品の印象は、画いた直後はとても曖昧で、

しばらくしてから見ないと、

善し悪しがわからなかったりします。

それで「今日の稽古」というものを考えて、

日記風にiPadの「アプリ」のなかに画像を並べています。

簡単なコメント入れをして、わたしなりに「分析」したものをつくっていて、

これは記録としても有意義で、

あとから冷静に見返したりもできるので、

すごく勉強になります。

(これには、わたしはBearというノートアプリが便利でよく使います。)

「マチエール展開のレシピ」もこういう中で生まれた稽古法です。





また、もうちょっと本格的な「画像いりの原稿」(「仮原稿」です。)をつくることもあって、

これはなかなか「出せる」ものにはならないですが、

そういうやりかたでも、ちょっとずつ、稽古を前進させています。

つまり「イマジネーション・トレーニング法の「概要」」論文でも書いたように

稽古のプロセスとは、

「イマジネーション・デッサン」と「イマジネーション・メモワール」の

独特のコンビネーションだと言えると思います。

つまり、ある種の「共同作業」です。

そして「これだ」という手応えのあったタイミングで

こういうブログなどを書いています。

また、まったく人気はないですが

インスタグラムにもかなりの個数を出しました。

narufue

というアカウント名で、

興味があれば覗いてみてください。

ブログを書くことは

「はっきりした言葉で稽古を考える」

ことの役にたっていると思います。

わかりやすい言葉できちんと断言する試みで

いろいろなことを考えるいい機会になっていて

よく考えないとわからない発見などがあったりもします。

ときどきブログを、プリントアウトして、

熟読することもあります。

しかし、考えるといっても、

破壊的な「疑心暗鬼」がおきることもよくありますし、

また、自分の能力に悲観的になることもあります。

わたしはいまやっている「パターンとイメージの稽古」は無意味ではないと感じて稽古していますが

真剣に別の可能性を考えようとすることもむろんあります。

これは「具体的にそれをどうしたらいいか」と、きちんと考えるならば、建設的な意味もあるのかもしれません。

しかし、「イマジネーション・トレーニング法」の考えかたは、わたしの中ではかなり重要な位置を占めていて、

いまと全然違うような絵を画くとしても、

まったく別の「稽古体系」を考えるのは

いまのところかなり難しいと感じています。

そういう点ではある程度自信をもってもいいのかもしれません。


さて、

今回は稽古の中で考えつづけることをかなり書きました。

また「稽古法」にも触れました。

ジャズ・ハーモニカの巨匠、トゥーツ・シールマンスがインタビュー記事で、

「ハーモニカを考えつづけることがわたしのプラクティスだ。」

と述べていたのが昔、とても印象に残りましたが、

そういう「育てる努力の積み重ね」が

やっぱりわたしの「藝の稽古」にも必要だと、いまは感じています。



( つづく )