イマジネーション・トレーニングの日記〜わたしの藝と稽古の記録

パターンやイメージを探求するために絵を画いています。

傾向と対策

2024-06-26 16:00:05 | 日記

 

 

おはようございます。
 
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
 
今回は「傾向と対策」というテーマで、
 
いつものように、
 
稽古について、またちょっと考えたいと思います。
 
どうなるかわかりませんが、よろしくお願いいたします。
 
 
この言葉には、「思い当たる」と感じた人もいるかもしれませんが、
 
わたしが大学受験の長い長い浪人時代にであったもので、
 
確か「蛍雪時代」という、大学受験生の雑誌で知った言葉です。
 
大学受験のやり方は、
 
たとえば、予備校の営業方針でもそうですが、要するに「蓋然性」の追求であり、
 
偏差値、などの「統計的相関法則」までは言えても、「因果法則」として、確実なものはなく、
 
そこにもし、「厳密な因果的法則性」があると、
 
おそらく受験生全員が合格してしまい、
 
大学としてはそれはちょっとまずいわけです。
 
いまは、少子化の傾向で、すこし事情も変わったのかもしれませんが、
 
ここでおおよそ「傾向と対策」という話になるわけです。
 
それはいわば「法則性の視野の拡大」といっていいいですが、
 
こういう人生へのアプローチは、
 
案外、受験以外の「人生のテーマ」にも、有効なことがあり、
 
かなり苦しい浪人時代を送ってきた間に身についた「傾向と対策」の
 
感覚と発想法は、のちの人生の問題へのアプローチとしても、
 
かなり役に立っていると感じます。
 
過剰に厳密な「因果律」を、現実に要求しない、
 
実際的な態度です。
 
 
 
 
画面の稽古というものは、
 
「出たとこ勝負」の連続なのは確かなことで、
 
かならず「できる」という保証が、いつもはなく、
 
また、できる「画面」についても、
 
「傾向」というものしかありません。
 
確かに、実力というものはだんだんついてきて、
 
稽古の「経験」が育ち、
 
それが自分を助けてくれるということはありますが、
 
いい仕事をしようとすればするほど「冒険」の要素が増え、
 
安易な稽古ばかりしていても、
 
自分の心の栄養にはならないわけです。
 
たとえば「洋紙」にチャレンジしたり、
 
新しい「アルゴリズム」に挑んだり、
 
また、水彩を再び採用したりと、
 
そういう「積極的努力」が時に必要です。
 
もうちょっと確かな保証が欲しいとはいつも思うのですが、
 
これは「創造行為」であり、厳密な計画性は望めません。
 
またそういう要素がないと、
 
画面としての「説得力」がないのではと思います。
 
 
 
 
 
そうなると、これはくよくよ悩んでも始まらず、
 
度胸を据えて、毎日努力するだけで、
 
また、そこに稽古の「面白み」があります。
 
わたしの場合、ブログはまず「タイトル」です。
 
このブログ記事の原稿では、
 
「大まかな傾向」を、ざっと大掴みにしていて
 
いくつか試作品を書いてから、
 
ひょいと「傾向と対策」という言葉を思いつき、
 
勘で「これでゆけそうだ」と感じたのですが、
 
具体的には、
 
考えながら、iPadのキーボードを、パタパタ叩いて、文章を書いては消しして、
 
よくよく考えている段階です。
 
それからiPhoneでもつづきを書き、
 
自宅に帰ってきて、パソコンでもそのつづきを考えています。
 
あれこれ書いては消しを繰り返し、
 
まあ、なんとかなりそうですが、
 
要するにさっぱりわからないことは無限にあり、
 
「わかってから行動する」というやり方では、
 
永遠に、何ごとも解決できないわけです。
 
これは要するに「真剣勝負をしている」
 
ということです。
 
つまりこれが、「試みて、育つ」ということの意味です。
 
 
 
 
 
 
そして、「心の安定や潤い」というものがここで大切になってきますが、
 
生活一般のある「クオリティ」は、かなり重要で、
 
あまりに荒れた、ひどい状態では、稽古に臨んでもいい結果がでません。
 
ある一定の「創造性や真理」を追究する人間としては、
 
「ある精神の平安や清浄を維持すること」が、
 
最重要な課題となっています。
 
机を片付けるとか、お勝手を綺麗にするとかの「心がけ」をして、
 
精神の平衡を保つ工夫がどうしても必要で、
 
画材や、紙をきちんと用意して、すぐに出せる必要はありますが、
 
そのほかの日常生活が、精神生活を含めて、あんまりひどい場合、
 
稽古全体が大きく狂ってくることもあり、実に恐ろしいものです。
 
最低限の心がけとして、
 
どういう世界や世間に暮らすにせよ、
 
いわゆる、「下衆」になっていいことはありません。
 
 
 
 
なんだか妙な話になってしまいましたが、
 
今回の話は「実践的にすぐに役にたつ」ものとは言えず、
 
大変申し訳ないと思っています。
 
こんなふうにして、
 
毎日稽古して、勉強しながら、
 
ああでもないこうでもない、と頭をひねり、
 
ちょっとした文章を、「わたしなり」に書き綴っています。
 
また、稽古の報告を書きます。
 
今日は、読んでくださり、本当にありがとうございました。
 
また次回お会いしましょう。
 
 
 
( つづく )

ものまなびのちから

2024-06-13 18:01:47 | 日記

 

みなさん、おはようございます。
 
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
 
ここのところで画面の稽古には大きな進展がありましたが、
 
今回は画面の稽古の話題からちょっと離れ、
 
「ものまなびのちから」と題して
 
また「考える方法」を考えてみたいと思います。
 
よろしくお願い致します。
 
考える方法と画面の稽古は親戚のようなもので、
 
画面の稽古に興味がある人にも参考になる部分があると感じています。
 
これをわたしは「メモワール法」と呼び、毎日実践しています。
 
主に「書きことば」での稽古が中心になってしまうのですが、
 
参考としては、わたしのブログの過去の記事
 
たとえば「メタ・ノーティングの「構造」と「メモワール」について」
 
などをご覧いただけると幸いです。
 
 
「メタ・ノートの技法」と「メディア」については、
 
考える道具として、
 
わたしは「情報カード」を毎日のように使っています。
 
「情報カード」と「iPad」を組み合わせた方法をしていて、
 
勉強しながら、情報カードにメモをとり、
 
iPadで「まとめる」作業をしています。
 
これは自分にしかわからない、即興的でくだけたことばですが、
 
ちょっとした単語がいくつかちらほら並ぶ段階から、
 
ちょっとしたことばのグループや短いフレーズ、傾向、を見つける作業で
 
これはすごく長い期間がかかります。
 
同じようなことばの繰り返しのような過程にも重要な意味があると感じていて、
 
画面の稽古と同じように、まったく試行錯誤の連続です。
 
ここでやっていることは、
 
勉強しながら、
 
自分なりの「きらっと光る言葉」をたくさん捜してゆくことです。
 
「これはいいな」「これでゆこう」という感覚や方向を探す作業ですが、
 
多分に感覚的、直観的なもので、
 
これは、「コピーライター」さんの仕事にかなり近いと思います。
 
ことばがちょっとずつまとまってゆくプロセスです。
 
 
 
 
考える営みをちょっとずつ続ける努力
 
書くことをやめないことと、学ぶ姿勢を維持すること、
 
そういう「充実したひととき」を生活に持つ工夫、
 
これが大切だと思います。
 
やっていることは、つまり、
 
ある「まとまったメディア」に「アイデアだし」をすることで、
 
「イマジネーション・トレーニング」に「イメージだし」と「アイデアデッサン・ノートブック」
 
があるように、
 
書いたアイデアを「コレクション」してゆき、
 
あとで見返すことができるようにすること、
 
これが「メモワール法」というものです。
 
 
ちょっとした「メモワール」の断片を、
 
まとまった「文章の形」に「昇華」してゆくプロセスを、
 
わたしはいまのところ、方法としては完全には把握していず、
 
正確で具体的な「アルゴリズム」の形で、きちんとはっきりとは表現できないのですが、
 
やはりここでも「まず具体的に書いてゆくこと」が大切で
 
それが「考えるうえのメチエ」だと思います。
 
忍耐がいる作業です。
 
そして、これも「一種の創造過程」で、
 
ある「イマージュ」や「視界」を育てるには、
 
漠然と思って感じているだけではなく
 
まず、現実的な形に表現することが大切だと思います。
 
 
また、文章のかたちにするなら、
 
これは、はっきり趣味や好き嫌いの問題ですが
 
わたしの場合には、コンピュータや、iPadが合っています。
 
いろいろ文章がいじれて、
 
こういうふうに画面写真まで添付できるのは
 
デジタルの強みでしょう。
 
これを「アナログメディア」でするのは
 
すごく大変だと思います。
 
わたしはEvernoteやBear、IAライターなど、
 
必要に応じて、
 
いくつかの「メモアプリ」を使いますが、
 
これはいわゆる「ノーティング」の作業になり、
 
とにかくたくさんやることが、大切なポイントになります。
 
音楽の作曲でも、
 
いい曲を書くコツは「とにかくたくさん書くこと」だそうです。
 
文章には「ある流れの必然性」があり、
 
それに乗って書いてゆくことが大切です。
 
またこの「流れ」に助けられるということがあり
 
文章はびとつのちいさな秩序です。
 
そのとき書きながら、ふっとひらめくことばもたくさんあり、
 
ちょっとずつ文章をいじる作業をしています。
 
これも、画面の稽古にすごく似ているなと感じます。
 
 
 
 
 
「ことばを持つこと」は「自分なりの考えや意見を持つこと」で、
 
ただの一般論や借り物ではない、はっきりした自分なりの意見をもつことには、
 
それなりの責任があり、
 
なかなか度胸がいることだと思います。
 
おおげさにいうと、
 
「自分なりの世界観」をもつことでしょう。
 
いつも、いいことばを持ちたいと願っています。
 
ある「人生の重要なタイミング」でないと、
 
そういう「考え」はなかなか成熟せず、いい文章は生まれません。
 
なかなか難しいことですが、
 
「ベクトルを内側に向け」て、「ある固定観念」を「意識化、相対化」してゆく必要があると思います。
 
こういうものを「ものまなびのちから」と呼んでいます。
 
 
社会の「人間関係」のうえで、「こころ」を課題にする場合には
 
問わず語らずの部分がたくさんあり、
 
厳密である必要はまったくなく、
 
曖昧で漠然としていることの価値も大きくあると思います。
 
そして、「よくわからない」ということにも大きな意味がありますが、
 
自分がしっかりしていなければならない場合、
 
大きな割り切りとして、
 
ある程度はっきりしていた方が
 
混乱も少なく、建設的な結果が出ると
 
わたしは経験からは感じています。
 
 
読んでいただき、ほんとうにありがとうございました。
 
いつも、こういう風にこつこつ勉強して、稽古しています。
 
今回も報告を見ていただき感謝しています。
 
稽古し学ぶ上での、
 
なにかささやかなヒントのようなものが表せるとよいと願っていつも書いています。
 
また次回お会いしましょう。
 
 
 
(   つづく )

稽古の「不思議」

2024-06-01 14:05:00 | 日記

 
 
みなさん、おはようございます。
 
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
 
よろしくお願い致します。
 
さて、ここのところ、「メチエとイマージュの稽古」から、
 
まったく新しい、「稽古シリーズ」が生まれてきていて、
 
少しずつ育っています。
 
つまり音楽に「展開」があるように
 
画面にも少しずつ「展開」がおきています。
 
これを今回紹介したいと思います。
 
「メチエ」を道具として「イマージュ」が育ち、
 
それは、わたしにもうまく説明できない、「新しいイマージュ」です。
 
最初は「洋紙」に画きはじめ、
 
この「シリーズ」の場合、
 
ここまでたくさんの画面ができるとは予想していなかったのですが、
 
毎日こつこつと画面に向かっていると、
 
こういうことが「稽古」には、ときどきおこり、
 
まずは、見ていただくのが妥当だと思います。
 
「稽古の不思議」です。
 
 
 
画材としては、
 
わたしのすごく好きな「ゴンドラ・パステル」のほかにも、
 
「ネオピコ」という色ペンの、「中間色」のシリーズも使いはじめ、
 
(これはすごく便利でお勧めです。)
 
必要があると感じたときは、
 
色鉛筆や、また水彩を使い、
 
好きな色は「サップ・グリーン」のほかに、
 
「プルシャン・ブルー」や、「ペインス・グレー」で、
 
「グリニッシュ・イエロー」という色も最近使いはじめました。
 
どうしてもここは水彩が必要だと判断される部分があり、
 
水彩での稽古が以前より増えました。
 
 
 
 
「稽古写真」については、
 
写真に詳しい友人から、
 
「照明器具」を教わり、
 
(Amazonで売っているものです。)
 
おそるおそる使っています。
 
自然な色味を出すのはかなり難しいのですが、
 
影は以前よりずいぶん減って、
 
簡単な「稽古写真」を撮る場合、重宝しています。
 
少しずつ「稽古写真」のクオリティを上げています。
 
 
 
 
さて、今回は「画像ギャラリー」
 
のようになってしまい、
 
文章としては、まとまりが悪いですが、
 
「ことば以前の世界」
 
「画面のイマージュ」
 
のようなものをこれからも大切にしてゆきます。
 
それが「イマジネーション・トレーニング」でしょう。
 
また、勉強して稽古してゆきます。
 
いつも報告を読んでくださり、ありがとうございます。
 
これからもぽつぽつ書いてゆきます。
 
また次回お会いしましょう。
 
 
 
(つづく)