おはようございます。
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
今回は「傾向と対策」というテーマで、
いつものように、
稽古について、またちょっと考えたいと思います。
どうなるかわかりませんが、よろしくお願いいたします。
○
この言葉には、「思い当たる」と感じた人もいるかもしれませんが、
わたしが大学受験の長い長い浪人時代にであったもので、
確か「蛍雪時代」という、大学受験生の雑誌で知った言葉です。
大学受験のやり方は、
たとえば、予備校の営業方針でもそうですが、要するに「蓋然性」の追求であり、
偏差値、などの「統計的相関法則」までは言えても、「因果法則」として、確実なものはなく、
そこにもし、「厳密な因果的法則性」があると、
おそらく受験生全員が合格してしまい、
大学としてはそれはちょっとまずいわけです。
いまは、少子化の傾向で、すこし事情も変わったのかもしれませんが、
ここでおおよそ「傾向と対策」という話になるわけです。
それはいわば「法則性の視野の拡大」といっていいいですが、
こういう人生へのアプローチは、
案外、受験以外の「人生のテーマ」にも、有効なことがあり、
かなり苦しい浪人時代を送ってきた間に身についた「傾向と対策」の
感覚と発想法は、のちの人生の問題へのアプローチとしても、
かなり役に立っていると感じます。
過剰に厳密な「因果律」を、現実に要求しない、
実際的な態度です。
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画面の稽古というものは、
「出たとこ勝負」の連続なのは確かなことで、
かならず「できる」という保証が、いつもはなく、
また、できる「画面」についても、
「傾向」というものしかありません。
確かに、実力というものはだんだんついてきて、
稽古の「経験」が育ち、
それが自分を助けてくれるということはありますが、
いい仕事をしようとすればするほど「冒険」の要素が増え、
安易な稽古ばかりしていても、
自分の心の栄養にはならないわけです。
たとえば「洋紙」にチャレンジしたり、
新しい「アルゴリズム」に挑んだり、
また、水彩を再び採用したりと、
そういう「積極的努力」が時に必要です。
もうちょっと確かな保証が欲しいとはいつも思うのですが、
これは「創造行為」であり、厳密な計画性は望めません。
またそういう要素がないと、
画面としての「説得力」がないのではと思います。
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そうなると、これはくよくよ悩んでも始まらず、
度胸を据えて、毎日努力するだけで、
また、そこに稽古の「面白み」があります。
わたしの場合、ブログはまず「タイトル」です。
このブログ記事の原稿では、
「大まかな傾向」を、ざっと大掴みにしていて
いくつか試作品を書いてから、
ひょいと「傾向と対策」という言葉を思いつき、
勘で「これでゆけそうだ」と感じたのですが、
具体的には、
考えながら、iPadのキーボードを、パタパタ叩いて、文章を書いては消しして、
よくよく考えている段階です。
それからiPhoneでもつづきを書き、
自宅に帰ってきて、パソコンでもそのつづきを考えています。
あれこれ書いては消しを繰り返し、
まあ、なんとかなりそうですが、
要するにさっぱりわからないことは無限にあり、
「わかってから行動する」というやり方では、
永遠に、何ごとも解決できないわけです。
これは要するに「真剣勝負をしている」
ということです。
つまりこれが、「試みて、育つ」ということの意味です。
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そして、「心の安定や潤い」というものがここで大切になってきますが、
生活一般のある「クオリティ」は、かなり重要で、
あまりに荒れた、ひどい状態では、稽古に臨んでもいい結果がでません。
ある一定の「創造性や真理」を追究する人間としては、
「ある精神の平安や清浄を維持すること」が、
最重要な課題となっています。
机を片付けるとか、お勝手を綺麗にするとかの「心がけ」をして、
精神の平衡を保つ工夫がどうしても必要で、
画材や、紙をきちんと用意して、すぐに出せる必要はありますが、
そのほかの日常生活が、精神生活を含めて、あんまりひどい場合、
稽古全体が大きく狂ってくることもあり、実に恐ろしいものです。
最低限の心がけとして、
どういう世界や世間に暮らすにせよ、
いわゆる、「下衆」になっていいことはありません。
○
なんだか妙な話になってしまいましたが、
今回の話は「実践的にすぐに役にたつ」ものとは言えず、
大変申し訳ないと思っています。
こんなふうにして、
毎日稽古して、勉強しながら、
ああでもないこうでもない、と頭をひねり、
ちょっとした文章を、「わたしなり」に書き綴っています。
また、稽古の報告を書きます。
今日は、読んでくださり、本当にありがとうございました。
また次回お会いしましょう。
( つづく )