イマジネーション・トレーニングの日記〜わたしの藝と稽古の記録

パターンやイメージを探求するために絵を画いています。

手応え

2024-10-12 11:27:38 | 日記

 

みなさん、おはようございます。
 
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
 
ずいぶんご無沙汰していました。
 
よろしくお願いいたします。
 
さて、今日は「手応え」
 
というものから、稽古、画面の稽古や、
 
このいま書いている「ブログ原稿」を、ちょっと考えてみたいと思います。
 
 
 
 
「手応え」という言葉は、釣りで魚がかかったときにもよく使います。
 
ではその「手応え」とはなにか?
 
ということになりますが
 
かなりはっきりした感覚なのはたしかです。
 
わたしの文章の場合には、
 
「はっきりした感覚」と「しっかりした画面」と「具体的な言葉」です。
 
因果関係はわたしもかなり考えますが
 
「画面を拵える」とか「ブログ記事を書く」
 
という作業はまったく因果関係ではなく、
 
いわば「相関関係」に属し、
 
「創造」、「表現」に関係します。
 
「ここで勝負を決めよう」、という感じです。
 
 
 
 
「創造」ということでは、先日も書いたように、
 
わたしはベルクソンの「創造的進化」を読み、
 
この内容はいまいちはっきりわかりませんでしたが
 
そこから言葉をいただくと、
 
「生の躍動(エラン・ヴィタール)」に関係します。
 
つまり簡単に言えば「元気に生き生きと生きる」ということでしょう。
 
そこから生まれる「知的努力」です。
 
これについては東洋の教えでも、
 
「道学」という中国の思想に、「生生」というものがあり
 
また、禅の教えにも「活潑撥地」(かっぱつぱっち)、というものがあり、
 
ベルクソン哲学はあんがい東洋的なのかもしれません。
 
つまり「よい画面を拵える」ことや「よいブログ記事を書く」
 
ことでは「わたしがまず元気を出す」ことが重要です。
 
活力のある状態を目指すことです。
 
お金持ちでも活力を失うことはよくありますが、
 
いくら財産があっても、
 
元気でないとだめなわけです。
 
 
 
 
 
そして画面の「手応え」などというものは
 
長く画いてゆくとだんだんに掴めるものですが
 
画面の「展開」に先立って、まず「手応え」があります。
 
「この方向でゆける」とか「この方向でゆこう」
 
という、「ある感じ」です。
 
この感覚は、稽古して覚えるしかなく
 
「イメージだし」とは
 
この「手応え」を掴むための方法、と言えるかもしれません。
 
ああでもない、こうでもない、
 
と考え続けた挙句にやってくる、
 
「突然の覚醒」で
 
まるで「あかりがともる」ような経験です。
 
この「あかり」は神秘的なものではなく、
 
ある「パースペクティブ」(展望)の「直観」です。
 
一気に「これでゆこう」ということがわかり、
 
そういう経験はみなさんもおありではないかと思います。
 
それは、ある種の「成熟」で、
 
こういう「ささやかな覚醒」を、迷い、困りながらいくつもだんだん積み重ねてゆくのが
 
稽古というものかもしれません。
 
 
 
 
さて今日わたしはなんとか「手応え」を得て、
 
この記事を書いています。
 
まったく毎回ヒヤヒヤものです。
 
「アートフェスタ」が終わり
 
雑用に追われていて、なかなか稽古が難しい状態でした。
 
また勉強をしながら稽古をして行きます。
 
もしよろしければ、このブログをまた覗いてみてください。
 
不定期更新ではあるのですが、
 
毎回頭を捻ってあれこれ真剣に考えながら原稿を書いています。
 
作品もちらほらでき始め
 
ほっとしています。
 
それでは次回またお会いしましょう。
 
 
 
( つづく)