「羽州の狐/鮭様 最上義光」
最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。
南羽州に勢力を広げ、縁戚である伊達輝宗・政宗と争う。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、慶長出羽合戦にて上杉家の直江兼続を退け、57万石の版図を築いた(『徳川実紀』)。
同時代及び後世の評価
義光について、軍記物においてであるが、以下のような評価が存在し、英雄視されていたことが分かる。
「義光公は智仁勇の三徳を兼ね、その誉れ世に高し。近隣従ひつかずといふことなし」(『最上義光物語』)
「およそ出羽十二郡の内、秋田城介の所領よりほかは、みな此の人の進退に任せけるは、且つ義光智勇の祖より超越したる故なり。」(『会津四家合考』)
「武勇は人にすぐれ、就中慈悲深くして諸士を深く労はり、たとえば親の子をあはれむ様にこそなし給へ。」(『会津四家合考』)
「其ノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ。誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ。」(『奥羽永慶軍記』)
また、「羽州の狐」、「奥羽の驍将」、「虎将」(官位・近衛少将の漢名である「虎賁郎将」からとった)と称されることがある。
*Wikipedia より
「出羽の狐」、調略を駆使して出羽統一
出羽国内では大きな力を持っていた最上家でしたが、まだ従わない国人もいました。その中には、義光を出し抜いて「私を出羽守(でわのかみ)にしてください!」と時の権力者・織田信長に願い出た輩もいたんですよ。
これには、かつていちおう室町幕府から「羽州探題(うしゅうたんだい/奥羽地方を統括する役職)」に任ぜられた最上家のプライドが黙っちゃいません。義光がここで「出羽の狐」と呼ばれた本領を発揮します。
まず、信長に弁の立つ家臣を送って自分がいかに正当な羽州探題であるかを説明させ、ついでに贈り物攻撃もして、信長に自身を出羽守と認めさせます。
そして、自分を出し抜いて信長に願い出た国人に対し、「自分が重病になってしまったから後を頼みたい、だから城まで来てくれ」と頼み、やってきた相手を殺してしまったんですよ。
こんな風に策を用いて相手を制圧していったので、義光にはいつしか「危険な奴=出羽の狐」なんてイメージがついてしまったようです。
ただ、前述の暗殺劇に至るまでには、義光も相手を懐柔しようといろいろ手は尽くしていたんですよ。自分の嫡男・義康(よしやす)と相手の娘を縁組させようと提案したんですが、拒否されたので、もうこれは殺すしかないということになったんです。
直接武力に訴える前に、義光はまず調略を用いました。心理戦や懐柔策(時々は陰謀ですが)によって相手を降伏させるか味方に引き入れるかして、着実に自分の兵力を増やしていったわけですね。これって頭いいですよね。戦をすれば多かれ少なかれ負傷者や死者が出るわけですから、そのダメージを最小限に抑えていたということになります。
食えない甥っ子でも鮭を贈る:「鮭様」誕生
さて、伊達家に嫁いだ義光の妹・義姫が生んだ政宗は、義光の甥っ子に当たるわけですが、決して可愛いだけの存在ではありませんでした。時には敵と味方に分かれ、争うこともあったんです。そうでない時でも、笑って握手をしながらもう片手には刃を潜ませている…という関係でした。
天正14(1586)年の大崎合戦では敵対し、慶長3(1598)年の慶長出羽合戦では、苦戦する義光を支援する姿勢を見せつつも政宗が密かに領地拡大を画策するという(未遂ですが)こともあったんですよ。でもまあ、結局は激突することはなかったんですけれどね。お互い、食えないヤツだと思っていたんじゃないでしょうか。でも、親戚は大事にした方がいいと思います。
そんな関係でしたが、義光と政宗は手紙のやり取りもしていますし、義光は鮭を贈ったりしています。
義光の大好物は鮭だったといいます。自分で食べるだけでなく、家臣にも甥っ子にも、仲良しの徳川家康にも贈っているんですよ。どれだけ鮭を広めたいのか…!
しかも「鮭」が付く家臣もいましたし(鮭延秀綱/さけのべひでつな)、これはもう、「鮭様」と呼ぶしかないでしょう! ということで、「鮭様」と呼ばれるに至ったのです。たぶん。
ちなみに、鮭延の家臣が義光の侍女と密かに恋仲になると、激怒した義光は2人に死罪を申し付けます。しかし鮭延の取り成しにより渋々それを引っ込めました。すると後に、鮭延の家臣は鮭延のために戦で戦死し、侍女はその後を追って自害してしまったんです。
それを聞いた義光は男泣きし、2人を手厚く弔ったとか。まあ、鮭延がデキたお人だったという話になっちゃいますが、義光にも人情があったということで。
*歴史じっくり紀行公式ブログ より
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