第222回 2019年4月30日 「ふだん使いを美しく なつかしモダン~岡山の焼き物~」リサーチャー: 生方ななえ
番組内容
岡山県では倉敷を中心に、普段使いの焼き物が作られ、その素朴さとモダンな雰囲気が人気を集めている。陶器の表面に入るひび、「貫入」にこだわり、細かくくっきりとした「貫入」を出すことに成功した岡山の職人。民芸の巨匠バーナード・リーチの指導を受け、才能を開花させた倉敷の職人たちがいた。いま、その後継者が現代の暮らしにあわせて作る「なつかしモダン」な器の数々。独自の技法を、モデルの生方ななえさんが探る。
*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201904301930001301000 より
岡山県と言えば「備前焼」が有名ですが、毎日食卓で使う「普段使いの焼き物」もいろいろあります。
これらの「普段使いの焼き物」は、素朴な味わいとモダンが融合して、今、人気を集めています。
手のひらサイズの「豆皿」には多種多様な模様があって、チーズにミニトマトなどを載せて、オシャレに使うことが出来ます。
縁に模様があり、真ん中が無地のお皿に料理を載せれば、食べ物の彩りを引き立たててもくれます。
今回のイッピンは、ドコか懐かしく、モダンな「岡山の普段使いの焼き物」の魅力に迫ります。
1.「貫入」(陶芸家・林拓児さん)
陶器の表面に出来たヒビ「貫入」に、栃渋を染み込ませて模様とする林拓児(はやしたくじ)さんの作品には、時を経た骨董のような佇まい、詫びた風情が感じられます。
岡山市の陶芸家・林拓児(はやしたくじ)さんは、愛知県瀬戸市の製陶所の四代目として生まれ、倉敷芸術科学大学で学び、平成28(2016)年に岡山県に築窯・移住しました。
林さんのわざとヒビが入った皿はカタチもユニークで器の縁が緩やかにうねっています。
古くから「貫入」の入ったお皿は作られてきましたが、林さんの「貫入」は細かくはっきりしています。
また、縁の緩やかうねりも林さん独特のものです。
林さんはまず、板状にスライスした土を自作の型に被せて手で叩いてはめていきます。
30分乾かしたら型を外し始めましたが、土はまだ柔らかいままです。
それを成形して、形を整えていきました。
すると縁に、緩やかなうねりが生まれていきました。
ここから「貫入」を入れていきます。
陶器は、素地の上に釉薬を施釉してから、高温で焼成して作ります。
焼成すると、釉薬は溶けてガラスのような層となって陶器の上を覆います。
焼成後、陶器自体の温度が下がっていきますが、その時の収縮度が、陶器本体の素地と釉薬との間で違うので、この差が大きいと釉薬がヒビのような状態になって固まります。
これを「貫入」と言います。
林さんは細かい「貫入」を入れるために、成分を変えて試行錯誤を繰り返したそうです。
窯出しすると、「ピンピン・・・」と風鈴が鳴るような美しい音がします。
これは「貫入」が生まれている音だそうです。
その後、どんぐりのかさを入れて2週間程経った「栃渋」(とちしぶ)と呼ばれる染液にお皿を入れ、「貫入」の部分に栃渋を染み込ませ、模様を美しく際立たせます。
この方法は、織部焼の色を出すために使われていたのだそうです。
一日つけたら水洗い。
タオルでしっかり拭いて完成です。
温かみのある緩やかなうねりのある皿が生まれました。
2.スリップウェア(羽島焼・小河原常美さん)
岡山県の倉敷では、普段遣いのお皿が作られてきました。
その代表的なお皿は「スリップウェア」です。
この技法はイギリスから伝わったもので、イギリスではかつて広く使われていた皿でした。
「スリップウェア」を倉敷に伝えたのは、柳宗悦、濱田庄司らとともに民芸運動に参加した英国人工芸作家のバーナード・リーチ(1887-1979)です。
リーチは香港で生まれましたが、生後まもなく母を亡くし、幼少期の4年間を京都で育ったことから、日本に愛着を持っていました。
21歳の時、ロンドン美術学校で、詩人で彫刻家の高村光太郎と交友を結んだことが縁で、明治42(1909)年、22歳の時に再び来日。
以来13回に渡り、来日しました。
昭和9(1934)年、後に「大原美術館」を開館した実業家・大原孫三郎の民芸運動を支援するために4回目の来日で初めて倉敷を訪れました。
その後も戦前・戦後と、度々倉敷を訪れて、大原美術館で講演や展覧会を開催したり、若手を指導しました。
大原美術館 岡山県倉敷市中央1丁目1−15
倉敷の陶工・小河原虎吉(おがわらとらきち)もリーチに指導を受けた1人です。
虎吉は14歳の頃よりロクロ職人として陶芸の道を歩みましたが、「ロクロの名人」として知られ、その腕前は早くから民芸運動家の間でも一目置かれていました。
昭和21(1946)年、戦後の復員してくると、大原総一郎を始め、当時、倉敷の民芸普及に力を注いでいた文化人達が力添えにより、羽島の地で「羽島焼」を開窯。
ひたすらに作陶活動を続け、昭和32(1957)年のブリュッセル万国博覧会でグランプリを受賞したり、天皇家に花瓶を献上したりするなど、その実績もどんどん積み上げていきました。
虎吉が亡くなった後は、三女の和子さんとその夫・勝康さん、そして四女の常美さんの三人が窯を引き継ぎ、自ら採取し精製した倉敷の土を用い、登り窯で焼き上げて作陶を続けてきました。
しかし5年前に勝康さんが、そして今年3月に和子さんが亡くなり、後継者もいないことから、令和4(2022)年11月をもって、倉敷「羽島窯」76年の歴史に幕を下しました。
番組では、常美さんの作った「スリップ豆皿」が紹介されました。
素朴な模様ですが、どこか西洋を感じさせるハイカラさのある豆皿でした。
3.押紋(倉敷堤窯・武内真木さん)
倉敷にはもう一人、リーチが認めた職人がいました。
武内晴二郎です。
武内晴二郎は、大原美術館の初代館長・武内潔真の次男として生まれ、日本民藝運動を起こした河井寛次郎や濱田庄司、柳宗悦らから教訓を受けました。
戦争で左腕を失うものの、昭和35(1960)年に倉敷市の西郊を流れる高梁川の旧い堤の跡に「倉敷堤窯」(くらしきつつみがま)を築窯し、積極的に作品を作り続けました。
型物を中心に、スリップ・型押・象嵌などの技法を駆使した作品は、重厚で力強いもので、片手では極めて難しいと思われる陶芸活動へのチャレンジ精神に周囲の人達も敬服し、感嘆させました。
陶芸家・濱田庄司氏は「武内晴二郎君の陶器は手で作ったというより眼で作ったと言いたい気がします」と評する程でした。
武内晴二郎君の陶器は手で作ったというより目で作ったといいたい気がします。
見て見て見た結果です。
陶工として手の修行は久しいとは云えませんが、一家中が大した目と心とを持ったなかで暮らして来て、積もり積もった拠りどころが仕事の芯になっています。
昨秋私はちょうど初窯の窯出しに立ち会えて、こくの籠った数々の大鉢を無類だと思いました。
君が手の不自由だということも余計に思いを深めているかと思います。
形が歪んでも傷が出来ても気になりません。
これ程多くの陶工達がいろいろの試みをしている中で、立派に新しい道を見せてくれました。
現在は、ご子息の武内真木(たけうち まき)さんが倉敷北部で採れる粘土を使って作陶されています。
縁につけられた「押紋」と呼ばれる力強い連続模様が印象的です。
これは石陶器と石膏で出来た丸い「型」でつけていくのですが、真木さんによると、先代の晴二郎さんが作ったものも合わせると、「型」は全部で160種はあるそうです。
まず、スライスした土を石膏の型枠にのせて押し付けていきます。
縁の部分は折り返して厚みを出して強度をつけていきます。
縁を削って表面を滑らかにしたら、湿った土に「押紋の型」がくっつかないように粉を乗せていきます。
「押紋の型」は縁に指を使って這わせていきます。
その力加減は絶妙です。
くっきりと模様が浮かび上がってきました。
乾燥させたら型枠から外し、素焼きをします。
釉薬をかけて本焼きしたら、完成です。
繰り返し使っても飽きが来ず、使い続けることで味わいが出るのを目指したお皿です。
倉敷堤窯 岡山県倉敷市酒津1660-65
*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/Okayama/Yakimono より
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