「赤字夫人 マリー・アントワネット」
(1755〜1793)フランス
オーストリアの女帝マリア・テレジアの娘で政略結婚でフランスのルイ16世に嫁いだ。ルイ14世時代からの財政悪化を受け継いでいたフランスでは民衆の反発が強かった。ルイ16世は改革を進めるが、貴族からの反発があり一向に進まない。やがてマリーも「国の金を浪費する王妃」と言われ、フランス革命で処刑されることになった。
*https://www.chickennoneta.com/entry/%E7%95%B0%E5%90%8D%E3%81%A8%E8%8B%B1%E9%9B%84#%E8%B5%A4%E5%AD%97%E5%A4%AB%E4%BA%BA%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88 より
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ(フランス語: Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)またはマリー=アントワネット・ドートリッシュ(フランス語: Marie-Antoinette d'Autriche)は、フランス国王ルイ16世の王妃(王后・王太后)。オーストリアとフランスの政治的同盟のためルイ16世へ嫁ぎ、フランス革命で処刑された。
*Wikipedia より
「マリー・アントワネットとフランス」10 「赤字夫人」「オーストリア女」
マリー・アントワネットは長男ルイ・ジョセフ(1781年10月22日)に続いて、次男ルイ・シャルル(1785年3月27日)、次女マリー・ソフィー(1786年7月9日)を出産。フランス王妃としての役割を果たしていくが、人気は落ちる一方。次男が誕生した時には、父親が誰かを疑う人たちもいた。「フェルセンの子ではないか」と。パリを公式訪問した際は、人びとの態度は非常に冷たかった。ヴェルサイユ宮殿に帰った後でマリー・アントワネットは泣き崩れ、「いったい、私があの人たちに何をしたというのでしょう?」と悲痛な呻きをもらしている。結婚3年目の1773年6月8日に初めてパリを訪れた時の熱狂的歓迎とはなんと大きく変わってしまったことか。
「妃殿下、ここには妃殿下の恋人が20万人もいるのでございます!」(ド・ブリサック元帥)
1787年夏ごろから、マリー・アントワネットは″Madame Déficit ″「赤字夫人」と呼ばれるようになる。確かに、その生活ぶりは派手で贅沢だった。衣装代だけで年間10億円、年平均170着の衣装を新調した。女性ファッション・デザイナーの草分けローズ・ベルタンを重用(「王妃のファッション大臣」と呼ばれた)したが、肉体労働者の平均日給が1リーブルの時代に、年間の支払額は10万リーブルにも達した。ダンスや賭け事にも熱中したが、1776年の彼女の個人負債(賭けトランプの負けなど)は40万リーブルだった。またお気に入りの取り巻きポリニャック夫人には8万リーブルの年金を支給(一族全体で50万リーブル)していた。最大の浪費は「プチ・トリアノン」。建設費用165万リーブル。そこに庭園も、劇場も作った(アントワネット自身も舞台に立った)。それでも飽き足らないアントワネットは1783年、村落アモーを作らせる(完成は1887年)。池を掘らせ、その周りに「女王の家」と呼ばれたノルマンディー風田舎家や納屋、鳩・鶏小屋、風車小屋、塔、東屋を建てた。農夫も住まわせ、アントワネットも時おり農夫の格好をして農作業の真似事をした。もちろんその農村は、現実とはかけ離れたもので、表面的な美しさで彩られた仮想農家。おままごとの世界だったが。
このようにマリー・アントワネットは贅沢放題したのは確かだが、それが原因でフランスの国家財政が破綻したわけではない。宮廷費用が年間予算に占める割合は6パーセント程度に過ぎず、アントワネットが使った金など、国家の財政規模から見れば高が知れていた。それでも、宮廷の出費は注目の的になりやすく、軍事や行政の支出よりも、無駄な出費だと一般の人々にもわかりやすい。
「赤字夫人」とともにマリー・アントワネットを非難するあだ名として有名なのが″L'Autrichienne″「オーストリア女」。これは発音が似ている「ダチョウ」(Autruche オートリシュ)とイメージを重ねている。翼を持ちながら飛べない鳥ダチョウは、偽善だの言行不一致、神に見捨てられた者といった負のイメージがつきまとっているからだ。そして、「オーストリア女」と吐き捨てるように呼ばれるようになる原因は、マリア・テレジアにもその責任の一端がある。どういうことか?
マリア・テレジアが書簡を通して、マリー・アントワネットに求めたのは出産だけではない。1778年、バイエルン継承問題に端を発し、オーストリアとプロイセンの一触即発の危機が起こった時には、女帝はなりふり構わず娘に、フランスが力を貸すよう国王に働きかけることを求めた。アントワネットは、国王にバイエルンの問題、プロイセン国王の策謀、同盟関係の冷却化の危険についてきっぱりとした口調で話す。しかし、ルイ16世はこう答えた。
「あなたのお身内の野心がすべてをひっくり返してしまうことでしょう。最初がポーランド、今度は第二幕でバイエルンというわけです。あなたのために、わたしは残念に思います。」(1778年2月18日 メルシーのマリア・テレジア宛書簡)
オーストリアの目論見は期待外れに終わったが、こうしてオーストリアがマリー・アントワネットを自国の外交的利益に奉仕させようとしたことは、彼女の評判を悪くする結果となった。「あれは、フランス王妃というよりは、オーストリア皇女だ」と人々は思ったのである。
*https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/21334576/ より
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