このたびの国立西洋美術館の展示に合わせて、いくつかの美術雑誌などがラ・トゥール特集を組んでいる。そして、いずれもラ・トゥールの出生の地であるロレーヌ地方、ヴィック=シュル=セイユの現在の写真などを掲載している。70年代初めに私が最初に訪れた時もそうであったが、今日でもさびれた小さな町である。
しかし、ラ・トゥールの両親たちが住み、画家ジョルジュが生まれた当時、16世紀から17世紀初めにかけては、今よりはるかに隆盛であったようだ。モーゼル川の重要な支流セイユ川に沿ったこの町には、中世以来、鍛冶屋、金工職人、織物職人、なめし革職人、大工、樽職人、染め物屋、石工などがいたに違いない。現在も町の周囲にはブドウ畑が広がるが、ワインも醸造されていた。水車がまわり、人々はそれぞれの職に日々を過ごしていた。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはそうした環境の下で、1593年3月14日、パン屋の息子としてこの世に生を受けた。しかし、その後、しばらくジョルジュは歴史的な記録から姿を消す。比較的新しい発見では、1616年ヴィックで洗礼の代父となったらしいこと、1613年にはパリにいたらしいことが判明している。いずれにしても、画家としての修業時代であったとみられる。
ジョルジュの存在が再び確認されるのは、1617年の結婚記録である。それによると、新婦はロレーヌ公の会計係であったジャン・ル・ネールの娘ディアーヌ・ル・ネルフであった。父親はリュネヴィルの下級貴族ではあったが、社会階層としてはジョルジュの家よりは上に位置していた。
こうした結婚が成立した背景には、ジョルジュがこの地方ですでに画家としての実績を築いていたことがあったと思われる。記録に残る結婚式の参列者などから推察されるのは、新婦側に圧倒的に著名人が多いことから、ジョルジュにとっては有利な結婚であったとみられている。
画家としての実績があったとはいえ、上層階級への参入が認められたのである。とりわけ、新婦側の賓客の中に、メッス司教区の代官ともいうべき地位にあったアルフォンス・ランべルヴィエが含まれていた。ジョルジュはその後、画家でもあり、詩人でもあったといわれるこの高官のさまざまな庇護を受けたようだ。ロレーヌの支配階層でもあり、文化人でもあるサークルに、ラ・トゥールは最初の一歩を踏み入れたといえようか。
もちろん、後年のラ・トゥールの名声は、本人の画家としての才能が支えていたことが最大の理由だが、パトロンを含めての環境が大きな寄与をしたことはいうまでもない。その点、彼が2年後1620年に27歳で居を移した妻の生地リュネヴィルは、画家としての才能を発揮するに好適な町であったようだ。
さて、こうして画家としての生涯を歩み出したラ・トゥールの初期の著作がどれであったのかについては、ほとんど分かっていない。なにしろ、散逸、現存しない作品の方がはるかに多いのだから。美術史家の間でも、現存作品の前後関係は必ずしも定着していない。これからラ・トゥールのいくつかの作品を鑑賞してみたい。 「ばらまかれた金」 「ばらまかれた金」「税の支払い」などの画題がつけられたこの作品は、コニスビーによると画家の初期の段階、1620年前に製作されたのではないかと推定されている。
税あるいは借金などなんらかの負債支払いをめぐる状況が描かれている。年配の実直そうな顔の男が、税あるいは借金を支払っている状況である。一見して緊張した、緊迫した光景である。一人のまともな男ときつい顔つきをした男たちが狭い空間で厳しく対立をしている。限られた空間にいっさい無駄なく、描き込まれているが、アマチュアの目でみても、構図がややぎこちなく、男たちの姿勢にも無理が感じられる。これだけの登場人物を書き込まねばならなかったという背景には、見る人になにかを思わせる暗喩があったのかもしれない。
オランダ絵画では16世紀に確立されたテーマといわれるが、ラ・トゥールは同じテーマであっても全く異なった取り扱いをしており、特に対象への集中度が素晴らしい。主題に徹底的にのめり込み、見る者の視線を散漫にさせるものはいっさい描かれていない。装飾らしきものは極力排除され、フォルムは基本的なところまで削り取られている。作品でも債権・債務関係が書かれていると思われるノートに光が当たり、視線を集中させる。この作品にかぎらず、他の画家に見られる室内の調度の状況や外部の景色などを多少なりとも想像させる要素が意識して排除されている。
テーマは革新的、珍しいものではないが、伝統的あるいは時代のファッショナブルな主題であっても、そこにラ・トゥールの独自な画風を確立しているのが素晴らしい。光と陰の中に彼のスタイルが貫かれている。それにしても、ラ・トゥールは屋外の風景とか、室内を描くことになぜ関心を抱かなかったのだろうか。これも大きな謎である。