このところ、インドネシア・スマトラ沖の大地震、津波の後には北九州の地震と、災害が続発している。「災害は忘れた頃にやってくる」とは、寺田寅彦の有名な言葉だが、この頃は忘れないうちにやってくるようだ。
寺田寅彦は、「津波と人間」という随筆で、次のような興味深い言葉も残している。 「しかし困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼払われたのである。」(昭和八年五月『鉄塔』)
残念なことにわれわれ人間は災害から逃れることはできないようだ。どこかで必ずやってくる。あの地下鉄サリン事件の時も、私はひとつ前の地下鉄に乗っていて危うく運を逃れた。もっとも、これは天災ではなく、人災であったが。
たまたまTVを見ていると、カンボジアの首都のホテル街で火災が起き、20名を超える人々が犠牲になったと報じていた。ホテルの火災は意外に多い。20年ほど前、私もたまたま滞在したロンドンのストランド・ホテルで夜間に火災に遭遇し、煙の立ちこめる廊下を何も持たずに文字通り這うようにして、逃げ出た経験がある。一寸先も見えなくなるという状況を実体験した。幸い、この時は犠牲者が出なかったが、このホテルと契約している近くのサヴォイ・ホテルが避難場所になり、思いがけないことでロンドン最高級ホテルの一時的な客となった。ストランド・ホテルの方は何の変哲もない普通のホテルだが、この騒ぎのしばらく前に中曽根康弘元首相が議員時代に宿泊したということを後で知った。
歴史に残る悲劇
ホテルや工場の火災の記事を読むと、しばしば思い出すのが1911年3月25日にニューヨークのトライアングル・シャツ会社(Triangle Shirtwaist Company)で発生した悲劇的な火災事件である。現代アメリカ史には必ず登場する著名な事件である。 悲劇の発端の火災は、ビルの最上階にあるトライアングル社の終業時間近くに起きた。火の手は瞬く間に広がり、500人の従業員のうち146人が焼死するという悲惨な事故となった。煙に巻かれ、苦しさのあまりビルの9階から飛び降りた人もいた。
この事件については、かつてGHQ 時代に日本での教育向けに作成されたアメリカ労働運動の記録フィルムを見ていた時、その中でこの火災事件が大きく紹介されていたことも記憶に残っている。
現代に残る苦汗労働
2001年はこの火災が発生して90年目に当たるために、ニューヨーク市では、3月27日に追悼行事が行われ、そのひとつとして「トライアングル火災事件の今日;苦汗労働とグローバル経済」と題したフォーラムも開催された。
この悲劇が今もなお多くのアメリカ人の心に刻み込まれているのは、この火災をめぐってさまざまな出来事が展開したことによる。トライアングル社は当時のニューヨーク市イーストサイドでの典型的な苦汗労働工場 (sweatshop)であった。苦汗労働というのは、低賃金 できわめて長時間、不衛生な環境の中で労働者を働かせることである。非人間的な労働条件の下での過酷な労働といってもよい。この工場では、ビルの持ち主がビルの各階を個人に賃貸しをして、雇い主はそれぞれお針子と呼ばれる女子労働者をきわめて低い賃金で、シャ ツやブラウスの縫製のためほとんど拘束状態で働かせていた。劣悪な状況で管理もないに等しく、この事件が起きても、いったい何人がビルの中で働いていたか見当がつかなかったといわれる。
苦汗労働は今日でも消滅せず、世界中に見いだされる。アメリカ労働省の最近の調査でも、ニューヨーク市の衣服縫製工場の63%は、連邦最低賃金を下回る賃金しか支払っていず、労働時間も過長で違反していた。グローバル化の進展は、労賃の低さだけで生き残ろうとするこうした苦汗工場を開発途上国ばかりでなく、先進国にも存在させている。 火災発生以前の1909年には、劣悪な労働条件に耐えかねた若い女子労働者たちの職場放棄などが起き、女性労働組合連盟 (The Women's Trade Union League) などが、争議を支援するなどの前触れが起きていた。なにかがなされねばならないと良識ある人々が感じ始めて いた矢先の悲劇であった。
この火災で犠牲になったのは、ほとんどが当時アメリカに移民してきたばかりの若いイタリア人、ヨーロッパ系ユダヤ人労働者であった。犠牲者はほとんど女性であり、中には11歳の少女まで含まれていた。貧困のどん底生活を送り、想像を絶する環境の下で働いていた 。火災発生時、避難階段への道はほとんど閉ざされており、逃げる労働者の重みで階段自体が折れてしまった。消防車のはしごも短く届かなかった。
しかし、事件の責任追及は不十分に終わった。火災発生後8ヵ月して陪審員は工場の所有者を無罪放免した。陪審員団のしたことは火災発生時に外部に通ずるドアに鍵がかけられていたか否かを確認しただけだった。生存者は異口同音に外部のはしごに通じる唯一のドアは開くことができなかったと証言した。しかし、被告弁護士の巧みな弁舌によって、証言は陪審員を動かすにいたらなかった。「正義はどこにあるのだ」という非難が高まった。
工場安全衛生法の成立に
事件の悲惨な内容が次第に判明するにつれて、国際婦人服労働組合(International Ladies' Garment Workers' Union: ILGWU) を初めとして、市民たちの救援活動や労働条件改善要求の運動が盛り上がった。そして、この事件の責任を追及する社会的運動へと広がった。 ニューヨーク州知事は、工場査察委員会を設置し、5年間にわたる公聴会その他を経た後、アメリカ労働立法史上、きわめて重要な工場安全衛生法の制定が行われた。
後にニューディール政策を実行したフランクリン・ D. ルーズヴェルト大統領の下で、労働長官を務めたフランセス・パーキンス女史は、現場を視察し、その後の人生で労働者の地位改善の主唱者となることを決意したといわれる。そして、ニューヨーク市安全委員会事務局長の立場で工場査察を支援した。 この悲惨な事件は、上記の労働立法への道を開いたばかりでなく、過酷な労働条件で働く労働者への関心の喚起、そして救済のための立法への契機となったものとして、絶えず思い起こされ、多くのアメリカ市民の心に今に残るものである。後に労働長官となったパーキ ンス女史は、ニューディールはトライアングル事件の日から始まったと述べている(関連記事:本ブログ「芸術と政治の戦い:「クレイドル・ウィル・ロック」」)。
事件発生後、90年の年に当たる2001年3月、コーネル大学キール労使関係アーカイブセンター (Kheel Center for Labor-Management Documentation and Archives, Cornell University/ILR) は、この歴史的な事件に関わる詳細を記録・再現する素晴らしいHP(注)を開設した。
このHPには当時を知る関係者の記録がオーディオ・ヴィジュアルな手段を駆使して蓄積されており、きわめて印象的なHPとなっている。この分野に関心を持つ学生が資料を発掘し、研究に利用する場合の注意など、細かな配慮もされている。日本人は過去の出来事を大変忘れやすい民族ではないかと私は思っているが、災害についても確実に後世の人に伝える努力が必要であろう。
注:トライアングル・ファイア事件を記録するHP http://www .ilr.cornell.edu/trianglefire/
画像:トライアングル事件を記憶するため国際婦人衣服労働組合が Ernest Feeney に依頼、制作した壁画「縫製産業の歴史」 (1938), Courtesy of New Deal Network