ジャック・ステラ
『タイタスの寛大(気前のよさ)』
(ルイXIII世とリシリューの気前のよさ)
Jaques Stella (Lyon 1596-Paris 1617)
The Liberality of Titus
(The Liberality of Louis XIII and Richelieu)
About 1638
Oil on canvas, 174 x 146.2cm
Harvard Univerisy Art Museum, Cambridge
リシュリューという17世紀を代表する政治家について、その実像を把握することは現代のフランス人にとってもかなり難しいようだ。身近かにいるフランス人の知人に尋ねても、もちろん名前は良く知っているけれども、内容のある議論はできないという。それでも少し切り込んで聞いてみると、革命以前の歴史はあまりよく分からないとの答が戻ってきた。大学教師などの間でも意外にこうした答が多い。
他方、リシュリューのことは現代においても、さまざまな場面で目にする。何度か映画化もされたし、フランスは自国の戦艦にリシュリューの名をつけたこともあった。この記事を書き始めた動機もたまたま 著名な雑誌であるJournal of Foreign Affairs に最近漫画付きでリシュリュー再評価の論文が掲載されていたことにヒントを得たものだった。最近ではフランス革命の悪名高いロベスピエールも、一貫して「人民の擁護者」であったという評価になっているという*。
これまで長い間、外交や政治の専門家たちが抱いていた印象は、リシュリューが考え、実行していた政策は古典的で、現代には合わないという考えのようだ。今日でも多くの人は彼の政治を古典的として却下する。しかし、JFAの筆者が指摘するように、現代の世界における政治や外交の実態は、考えてみるとポーカーゲームに近いという。そこにおいて、彼らが行っていることは、リシュリューのそれとあまり変わりはないとされる。
リシュリューの政治技術は、自らの政治生命を危うくする可能性があった。1618年には30年戦争が勃発した。ヨーロッパ宗教戦争の最後の痙攣ともいうべきものだった。プロテスタント諸国とハプスブルク家とそのカトリックの同盟諸国が大陸を引き裂いて戦った。その中で、本来カトリック国であるフランスはプロテスタント側として参入した。オーストリアとスペインのハプスブルグ家がヨーロッパの最強力勢力となることを防ぎたいフランスがとった苦肉の戦略だった。
フランス王国は、リシュリューの指揮下で、1617年プロテスタントの要害ラ・ロシェル包囲。兵糧攻めで陥落させた。その後イタリアに侵攻して勝利し、さらにオランダ、スエーデンを部分的に支持する戦略をとった。
1636年にはスペインの軍隊がフランスを侵攻し、パリに迫った。パリの群集はリシュリューを弾劾。枢機卿は深く失望したという。リシュリューはポン=ヌフへ行き、演説をして民衆の支持を取り付けた。リシュリュー最後の6年間のフランスは、新しい地域を獲得し、ヨーロッパ外交において主導国となった。
リシュリューのとった戦略が、フランスのその後の長期的発展にいかなる効果をもたらしたかという点については必ずしも明らかでない点もある。最大のライヴァルであるハプスブルグ、オーストリアとスペインに勝って、フランスに勝利をもたらした。しかし、これらの地域を統合することはできなかった。国内政策では、彼は税収入を何倍にも増加し、その資金力で30年戦争を効率的に勝利できた。しかし、その過程で農民、地方の領主、エリートを著しく搾取した結果、一連の反乱を引き起こすことになった。新しい力を備えた地方監督を設置したリはしたが、恒久的な新たな行政システムをデザインすることはできなかった。
それには次の君主と別の首相、ルイ14世とジャン–バプティスト-コルベールが引継ぎ推進することが必要だった。彼らはフランスの近代の国境を確定した。地方都市と協力し、反対も少なくより多くの税収をあげた。リシュリューの創設した地方長官を、中央政府から伸びた確たる腕とした。簡単にいえばリシュリューは近代のフランスを創ることはなかっし、それをヨーロッパの指導的国にすることもできなかった。しかし彼の行ったことは、後継者にそれを実現させたことであり、それ自体が評価されるべきことなのだ。やはり、時々はタイムマシンを駆動させ、二つの時代を行き交うことが欠かせないようだ。
*
「ロベスピエール」『朝日新聞』2015年3月2日