新型肺炎の流行で世界が大きく揺れ動いている中で、かつて縁あって毎年のように訪れていた中国の世界がまた近くに思えてきた。たまたま、芥川竜之介の作品のいくつかを読み直していた。この鬼才と言われた大正の大作家は中国文学、漢籍への造詣が非常に深かった。併せて、中国への旅への憧憬が年を追って強まっていった。
今日、芥川の作品を読み返すと、中国への旅を前にした29歳前後でこれだけの知的蓄積を達成していることに、その非凡さに改めて感嘆する。もちろん、作家は中国への旅に憧れ、多大な努力を積み重ねてもいた。しかし、今日の大学教育を前提とした上で、この年齢でこれだけ博識で透徹した論理で文章を展開できる人は想定し難い。芥川は中国へ旅する前に『杜子春』『南京の基督』『アグニの神』など、中国を舞台とする作品を書いていた。35歳という短い人生で、どうしてこれほどの作品が書けたのだろうと思うほど、作品数もきわめて多い。
芥川の大学の専攻は英文学であり、中国に関する知識は、この作家の努力の成果であった。さらに、英語、ドイツ語についても努力をしており、暇を持て余した折などにはドイツ語動詞の活用などを思い起こしている(『江南遊記』「杭州の一夜」)。
天才と努力
芥川の小説はこれまで折に触れ、かなり読んできた。しかし、短篇、紀行文などの中には未読の作品もある。『上海遊記』を再読した折に、関連する『江南遊記』を読み直してみた。1921年、29歳の芥川龍之介は大阪毎日新聞の依頼で海外特派員の資格で上海を皮切りに4ヶ月間中国各地を旅行し、その紀行を新聞に連載した。
ブログ筆者は、芥川に限らず紀行文を好んで読んできた。紀行文は小説より完成度は低いが、それだけに作者の自由でアドホックな発想、思考が感じられて興味深い。自分の行ったことのない土地には憧憬を、行ったことのある土地には回想と比較して読むことができる。
流行作家の心の内
小説ほどの作品完成度は紀行文には求められていないとしても、作者としては、新聞掲載ということを前提とし、時間に追われながら執筆に専念していた。さらに、芥川はこの旅に出る前から健康を損ない、旅の途上で入院をしたりしていた。この点は、芥川自身が『江南遊記』の中で記している。作家の心境の一端を知る上で興味深いので、下記に引用しておこう。
(前略)――こんな事を書いていると、至極天下泰平だが、私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる。頭も勿論、ふらふらすれば、喉も痛んで仕方がない。が、私の枕もとには、二通の電報がひろげてある。文面はどちらも大差はない。要するに原稿の催促である。醫者は安靜に寢てゐろと云ふ。友だちは壯(さかん)だなぞと冷かしもする。しかし前後の行きがかり上、愈(いよいよ)高熱にでもならない限り、兎に角紀行を續けなければならぬ。以下何囘かの江南游記は、かう云ふ事情の下に書かれるのである。芥川龍之介と云ひさへすれば、閑人のやうに思つてゐる讀者は、速に謬見(べうけん)を改めるが好(よ)い。(後略)[『江南遊記』十 西湖(五)]
なんとも強烈なアイロニーで終わっているが、芥川は慣れぬ旅の途上で体調を崩していた。当時は大変死亡率の高かった肺炎に罹患することを最も恐れていたようだ。ブログ筆者は、この芥川の辿った経路とほぼ同じ道を旅したことがあるが、その旅路の各所で、読者を惹きつける論稿を準備することがいかに大変なことであるかを身にしみて体験した。上海の豫園、杭州の西湖、蘇州の庭園や寒山寺などは芥川が訪れた当時、すでに世界中の観光客が集まっていた。日本人の間にもこうした観光地の状況はかなり伝わっていた。そこで、すでに著名な作家として知られていた芥川が、海外特派員として作家の目で彼の地の実情を報道することに白羽の矢が立ったのだろう。
芥川が旅した1921年といえば、北洋軍閥政権の時代で、中国は軍閥割拠と帝国主義の侵略にあえぐ暗黒時代にあった。しかし、芥川が描く中国はそうしたことを感じさせない。作家が見た庶民、知識人などの日常生活は、危機を背景に雑然とながらも、しっかりと地に根付いていた。芥川はだいたいどの観光地もくだらないと書き、風景は良くても、必ず何かで興ざめすると記している。さらに、作家の言辞は、今日の環境でみれば、しばしばかなり差別的、侮蔑的である。当時であっても、新聞社の担当者はさぞかし困ったのではないか。しかし、作家の見方も旅路を重ねるにつれて、次第に落ち着き、この欧米、日本などの列強に支配されている大国の精神世界の深み、とりわけ長い歴史を誇る北京の文化環境への傾倒の念が深まっていくことが興味深い。
典拠:『芥川龍之介紀行文集』(山田俊治編)岩波文庫、2017年