2011年3月卒業予定の大学生の就職内定率が68.8%と、これまでで最低水準とメディアが伝えている。高齢化が社会の活力低下など、厳しい状況を生みつつある日本で、創造性の発揮の担い手など、最も期待されるべき人材となりうる大学生の仕事の機会が十分保証されないという問題は、国家にとってもきわめて憂慮すべきことだ。
3月20日の『朝日新聞』「声」の欄に、ひとりの大学生の観点から「入社時期を(卒業後の)秋にずらしては」という投書が掲載されていた。投書の主旨は、就活の負担を減らし、大学生として4年間十分な学業の研鑽を積んできたという成果を身につけ、採用者側の期待に応えるためにも、新卒の入社を4月ではなく、卒業後の9月ごろにすることが望ましいという内容だ。
今日の大学生、大学、そして企業など採用側が抱える問題を中長期的観点から大きく改善する至極適切な提案ではないかと思う。もちろん、実施には関係者の十分な理解、調整が必要なことはいうまでもない。実は、同様な主旨の提案はすでに10年以上前からなされており、比較的最近にもこのブログでも紹介したことがある(『朝日新聞』2008年12月2日朝刊「声」欄に、「卒業待っての採用できぬか」との投書が掲載されていた。)
この時期になると、ほぼ毎年同じことを議論していながら、その場かぎりの妥協ですましている大学側、経営者側の責任はきわめて大きいと思う。前者の社会的無関心・無気力、後者のエゴイズムなどが、大学と企業社会という異なった二つの次元のつなぎ方を根本的に考えることなく、成り行きにまかせてきた。
日本の大学教育は、一部の上位の大学を別にすると、すでにはるか以前から、その国際競争力のなさが問われてきた。海外から日本の優秀な大学を目指して留学したいという状況は生まれていない。働きながら、楽に卒業できる大学が多い国という受け取り方までされている。現実に、この列島に溢れかえる「大学」という名のついた奇妙で不思議な存在。皆さんは日本の大学名をいくつご存じでしょうか(300書けたら、おそらくかなりの大学通?です。4年制大学だけでも700を越えています)。
大学で学業を十分身につけた証である「卒業証書」を手にしてはじめて、真の就職活動が可能になるという社会的枠組みを設定することは、学生、大学、企業のいずれにとっても、望ましいはずである。それが不可能であるということは、当事者とりわけ力関係で優位な地位にある大企業の社会的責任感の欠如といえるだろう。「就活」という現象で、大学生活の1年近くはほとんど形骸化している。さらに、入学の時から就職しやすい大学というPRなどもあって、学生の勉学の方向が揺れ動いてしまう。大学は就職の準備をする場ではないはずだ。
「就活」という形で、大学の教育過程を著しく脅かすまでに、企業の浸食を認めることは、大学教育の劣化につながるばかりか、十分な教育を受けた優れた人的資産を確保できなくするという意味で、中長期的に企業にとっても決して得策ではない。「就活」をめぐる世の中の議論は、「会社研究」と称する情報収集、面接方法など、テクニック次元のものが非常に多い。結果として、大学生に同じ行動を強いて、不安を煽るようなことになる。
前掲の投書の主旨のように、就活を大学卒業後に移行することは、短期的視野からはためらう関係者も多いだろう。大学、企業のそれぞれに思惑があり、現状から離れることを恐れてもいる。しかし、すでに企業は人材についても、必要な時に必要なだけ採用するというジャスト・イン・タイム形の雇用システムに移行している。高度な人材の養成と活動に大きな期待をかけねばならない日本の今後にとって、大学教育と企業の関係のあるべき出発点に立ち戻り、問題を検討しなおすことが焦眉の急務になっている。移行過程における対応は別として、重要なことは「就活」が内在する本質的問題にある。毎年、個性を奪うようなリクルートスーツを着て、不安な面持ちで全国を走り回る若者の姿を目にするのは、なんともつらいことだ。ひとつの投書が持つ重みを改めて考えたい。
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再掲になるが、すでに十数年前から、同様な提案は行われていた。たとえば、
『学生の職業観の確立に向けて:就職をめぐる学生と大学と社会』日本私立大学連盟・就職部会就職問題研究分科会、1997年6月。筆者も研究分科会の一員であったが、提案について大学側の認識もきわめて低かったことを痛感していた。