時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

貴族の処世術(9):ロレーヌ公国の下層貴族(続く)

2012年02月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

落日のロレーヌ公国

 ロレーヌ公国の終幕の経緯について、備忘録代わりにもう少し記しておきたいことがある。この時代、この小国をめぐる動きは複雑なので、史実の輪郭を掌握しておく必要がある。

17世紀後半になると、口レースは、すでに無力で光彩を欠いた存在になっていた。レオポルド公(1690-1729)の時代に国家財政の負債は累積し、破綻の状態にあった。そのレオポルド公(レオポルドⅠ世)は1729327日に死去。公国の君主の座を継ぐ順位にあったフランソワⅢ世は、公都ナンシーを離れて、ヴィエナに身を置いていた。

フランソワⅢ世はロレーヌへ来ることに気が進まなかったのか、やっと1729年の年末近くになって、公国のリュネヴィル城宮殿へ向かった。そして、翌1730年になってはじめて、公都ナンシー入りをした。その後パリへおもむき、ルイ1 5世に忠誠を誓う。そして、ロレーヌ公国の経済問題の解消を引き受けることになる。

フランソワⅢ世は、この問題への実務的対応のために、あの肖像画の主であるシャルル・イグナス・ド・マウエを、バール・ドゥク Bar-le-Duc(バール公国首都、パリとストラスブルグの中間点)へ改革の執行担当者として送りこんだ。幸い、その努力は実って問題はなんとか解決の目途がついた。



 しかし、フランソワは口レースには執着せず、公国を明け渡すことになる。そして、ハンガリー帝国の総督に任命された後、結局口レーヌに戻ることはなかった。フランソワは、後に神聖ローマ帝国皇帝フランツⅠ世となる。


ロレーヌを余生の地として

フランソワⅢ世が継承しないことになったロレーヌ公国は、ブルボン朝フランスへ統合されるまで、しばしの間、フランス王ルイ15世の義父(王妃マリー・レクザンスカの父)にあたるスタニスワ・レシチニスキに与えられる。スタニスワ・レシチニスキは、ポーランドの王(スエーデンに支えられた傀儡の王)であり、一度退位し、その後王位請求をしたが果たせなかった貴族だった。娘がルイ15世の妃になったことを大変喜んでいたようだ。


 スタニスワ・レシチニスキは、王座や政治家には似合わなかったが、潔白な人物で哲学や科学にも深い関心を抱き、晩年にはリュネヴィルにアカデミー・ド・スタニスラスと名づけた研究所を設け、学術の研究に晩年を過ごした。彼がたどった生涯はきわめて興味深いのだが、他の機会に譲りたい。彼の名は、ナンシーにスタニスラス広場(世界遺産登録)として、残っている。

 

ナンシー、スタニスラス広場(世界遺産)

 ルイ15世は、ハプスブルグ家相続人として、マリア・テレジアとの結婚を認めることの補償として、ロレーヌ公フランソワ3世(神聖ローマ皇帝フランツ1世)から譲渡されたロレーヌ公国を、1代限りの条件付きでスタニスワに与えた。そして、スタニスワが世を去った段階で、ロレーヌ公国はブルホン朝へ移行する手はずが出来上がった。その結果、およそ2世紀にわたり、曲がりなりにも独立の国であり、独自の文化が栄えたロレーヌ公国は、1739年フランスに併合された。


マウエ家の決算
 
他方、ロレーヌ公国の短くも波乱多い歴史の中で、あのマウエ家の家系は、ジャック・マウエの貴族入り以来、ほぼ5世代にわたり、貴族階級としてのステイタスの維持に成功した。フランスへの併合後も、軍隊への協力などでステイタスの維持に成功した。

16世紀末、ジャック・マウエが貴族として得た領地を子孫たちは次第に拡大し、人的つながりにおいても、ロレーヌの政治的中心でもあるナンシーの宮廷世界へ近づいた。他方、婚姻政策で下層貴族の間でのつながりを強めた。

  ロレーヌが最も繁栄していた時、公国の政治権力はロレーヌ公および少数の公爵領の名門貴族層が握っていた。彼らは自分たちの権力や権威がマウエのような新貴族によって侵食されることを望まなかった。この小国では、名門貴族と下層貴族の間の溝は埋められなかった。そのため、下層貴族は彼らの間でその地位の維持を図っていた。

17世紀中頃、ロレーヌの政治が不安定化した頃から、ロレーヌの貴族たちは、上層・下層を問わず、ロレーヌ公とフランス王の間で板挟みとなり、しばしば矛盾する要求を充足させる困難に直面していた。この状況で、とりわけ下層貴族たちは自己防衛的に領地の獲得・拡大に執着し、他の貴族たちと子女の結婚をさせ、苦難の時を乗り越えようとしていた。

ロレーヌにもフランスにも

彼らが最も力を入れたことのひとつは、ロレーヌをめぐる抗争の両当事者側に、家族のメンバーを入れることだった。それによって、いずれの側がロレーヌの為政者の座についても、家系として大きな没落などの破綻を来さないよう安全弁の役割を持たせようとしていた。当時の出生数は1夫婦で10人近いことが多く、こうしたことも可能だった。しかし、死亡率も高く、10人の子供が生まれたと思われるラ・トゥール家の場合も、ほとんどが成人前に死亡し、わずかに残った次男エティエンヌが貴族となっている。しかし、その後は途絶えてしまった。その点、マウエ家の事例をみるかぎり、処世術はかなり功を奏したようだ。

 こうした処世の戦略が実って、18世紀初めの公国再建の期間に、マウエ家はロレーヌ貴族の頂点までに浮上した。レオポルド公は主君亡命中の奉仕など、マウエ家の忠誠を高く評価し、一族に多くの上級の地位や領地を与えた。しかしながら、これらの成功はひとえにロレーヌ公の恩恵によるものだった。しかし、レオポルド公のように主権を強く発揮した君主の場合は、それに従わない人物は逆境の憂き目を見た。

ロレーヌ公国の貴族たち

 ロレーヌ公国の貴族の総体的評価をすることはかなり難しい。とりわけ17世紀は、この小国は大きく揺れ動き、政治的にも無政府状態の混乱の中にあった。信頼しうる統計の類もあまりない。その中で貴族といわれる特権階級は、どのくらいいたのだろうか。このシリーズ記事で主要レフェレンスとしているLipp(2011, Appendix)によると、1360-1739年の期間に、累計で1,402人の貴族が任命されたという。1600年から1739年の公国併合まで、ほぼ10年ごとに区切ってみると、それぞれの10年間に0から数十人の貴族が生まれている。人口統計も定かでない時代だが、17世紀初頭のロレーヌの人口は約30万人、地域は東京都と10倍くらいかとの推定もあり、その社会的存在の重みはある程度類推できる。

興味深いのは、各10年間に0から数名の貴族や子孫から、その時点でも貴族の称号が授与されており、諸権利が継承されているかを確認する請求があったことである。言い換えると、この公国の貴族制度は、特定のロレーヌ公への忠誠とそれに対する君主からの特権付与という形で、個人的忠誠・奉仕ともいえる関係の上に成立していたことがうかがえる。したがって、君主との関係が途切れると、貴族の称号も一代かぎりで途切れてしまうことも多かった。そのため、貴族という称号にまつわるさまざまな封建的特権の継続の確認は、本人のみならず次の世代への継承という点でも大問題だった。

 現代社会で大きな問題となっている年金についても、当時はロレーヌ公などの君主が、貴族の忠誠や奉仕への報奨として与えるのが通常であった。一種の恩給であった。ジャック・ステラやジョルジュ・ド・ラ・トゥールが年金を授与されていたか否かの確認も、この点にかかわっている。ロレーヌ公国という小国における君主と貴族のあり方は、その他の点においてもさまざまな興味深い問題を提示している(続く)。

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