デル・モンテ枢機卿の肖像画
Ottavio Leoni(Italian, 1578-1630)
Portrait of Cardinal Francesco del Monte, 1616.
Black chalk with white heightening on blue paper,
9 x 6 1/2 in.(22.9 x 16.5cm).
Collection of The John and Mable ringling Museum of
Art, the State Art Museum of Florida, Sarasota,
Museum purchase, 1967.
source: Helen Langdon, Caravaggio's Cardsharps: Trickery
and Illusion.
ギャンブル好きな枢機卿
話の口火を切る意味もあって, リシュリューの政治家・外交家としての性格を現代の観点から見直してみるという試みを行ってみた。リシュリューについては、実は興味深い問題は多々あるのだが、ここではさらに少し視点を変えて、リシュリューが活躍していた17世紀という時代におけるギャンブルと絵画の関連について記してみたい。言い換えると、カード(トランプ)ゲームという遊戯が、絵画の主題としてどのように描かれていたかという点を通して、この時代の社会環境について少し新しい視点を加えてみたい。現代社会におけるさまざまなギャンブルの根底にある問題にも関わっている。
現在につながるカード(トランプ)ゲームの起源は、ドミノカードなどを含んで数多く、正確には分からない。しかし、いずれのゲームでも、最初のうちはゲーム自体の面白さに魅せられ、せいぜい紙の上での勝ったり負けたりの点数争いでも十分楽しかったのだろう。しかし、ある時点からそれだけでは面白くなくなり、ギャンブル(賭博、博打)の誘惑が忍び込んでくる。 最初はパブ(居酒屋)で負けた者が1杯おごる程度であったのかもしれない。しかし、いつの間にかギャンブルの額は大きくなり、多額の現金などを賭けたりするようになる。最近、マカオのカジノでのギャンブルに全財産をつぎ込み、それでも抜けきれないギャンブル依存症ともいうべき精神状態になった男の話をBSが報じていた。
実際、ヨーロッパにおいてはルネサンスの時代は、ギャンブルがすでに社会のあらゆる分野に浸透していた。とりわけ、娯楽の少ない下層社会では盛んであった。16-17世紀、戦争の多かった時代、兵隊たちは暇さえあれば、兵舎の片隅などで金を賭けてのダイスやカード遊びに夢中だった。ペストなどの疫病が,軍隊の移動とともにヨーロッパ各地に蔓延したように、ギャンブルも軍隊の移動とともに、各地へ拡大・浸透していった。ラ・トゥールの『聖ペテロの否認』 なども、画面の半分はダイスゲームに入れ込んでいる兵隊たちの姿が描かれている。
そして、カードゲームなどのギャンブルは、ほどなく貴族から聖職者まで含めた上層社会へと浸透する。かれらは有閑階級であり、富裕階級であったがために、ギャンブルにはすぐにのめり込んでいた。
そして時代は下って、現代社会ではトランプ、花札、ダイスなどのギャンブルのウエイトはインターネットの発達とともに、急速にウエイトを低めた。目に付くのは(預貯金)カード詐欺やインターネット上でのギャンブルの話であり、これは枚挙にいとまがない。
今回は17世紀におけるカード(日本でのトランプ)ゲームを主題として描いた美術作品について、少し掘り下げてみたい。すでにこのブログでも部分的には何度か、取り上げているのだが、少し系統立てて新しい視点で見てみたい。
カラヴァッジョのカードいかさま師
16-17世紀におけるカードゲームをする人たちの情景を描いた作品は数多い。その中で、最も著名な作品はカラヴァッジョ、そしてラ・トゥールの手になるものといえる。まず、カラヴァッジョの作品をもう一度見直してみたい。
ローマに出てきたカラヴァッジョは、絵描きとして身を立てるため、精力的に作品を制作し、それらを売って生計に当てていた。しかし、その生活は荒れており、安定した芸術活動を維持するにはほど遠いものだった。
ある美術商がこの画家の手になる『カード詐欺師』Cardsharps と後に呼ばれる作品を、1672年にローマきっての美術品の収集家であるデル・モンテ枢機卿 Cardinal Francesco del Monteに売却した。デル・モンテ枢機卿は、このカラヴァッジョなる抜群の技能を持った若い画家に目をつけ、自邸に住み込ませ、生活を支え、修業させた。この時代にはローマでパトロン探しをする芸術家は数多く、このこと自体はさほど珍しいことではなかった。カロもプッサンも、ほとんど同じような形で、自分の才能を認め、財政的な援助をしてくれるパトロンを捜し求めた。ただ、カラヴァッジョの無頼ぶりは当時のローマではかなり知られており、作品を次々と描き、その金で毎夜のごとく酒を飲み歩き、帯剣して狼藉を働くことに費やしていた。
Caravvagio, The Cardsharps, c.1594
Kimbell Art Museum, Fort Worth
この甚だしく素行の悪い、しかし天才的な画家の素質に目をつけた枢機卿が、画家のパトロンとなったのだ。もの好きと言えばそうなのだが、この聖職者にはその才能を見通す眼力があったのだろう。1594年ころのことと思われる。『いかさま師』なる作品は長らくデル・モンテ枢機卿の宮殿の壁に架けられていた。デル・モンテ枢機卿はカード・ゲームが大好きで、毎夜のごとく、カード遊び、それも金を賭けてのゲームをしていたようだ。聖職者といっても、多分に俗人的であったのだろう。
ギャンブルにふけった聖職者たち
すでに16世紀から、カードゲームはローマでも中下層ばかりでなく、上流の階級でも好まれていた。デル・モンテ卿もそのひとりだった。1597年8月、「教皇の甥であるピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿とオドアルド枢機卿と、デル・モンテ卿の3人はディナーの後にカードをした。デル・モンテ卿はこのことを友人宛に次のように記している:「われわれは、大きな戦いをした。そしてアルドブランディと私が負けた。私の負けのほうが彼より大きかった。」ギャンブル好きな枢機卿たちはデルモンテ卿の宮殿でゲームをしたのかもしれない。ローマの聖職者たちの間で、こうした情景が繰り広げられていたのだから、パリのリシュリュー枢機卿もカードゲームくらいはしただろう。
そして、なにごとでもフランスやイタリア流を取り込んでいたロレーヌ宮殿では、ラ・トゥールが描いたようないかがわしい者たちが出入りする情景が現実にあったのだろう。徹底したリアリストであったラ・トゥールには、必ずモデルがあったはずだ。
ロレーヌではラ・トゥールの作品の熱心な収集家であった地方長官ラ・フェルテ Marechal de La Ferte もギャンブル好きだった。戦争などがない折には、仲間とカードをしていたようだ。もし、ラ・トゥールのこれも斬新な『いかさま師』が架けられた自室の壁の前でカードをしていたのであれば、デル・モンテ卿とは違った楽しみだったに違いない。
そして、こうしたカードゲームの世界に、さまざまないかさまな手口が入り込んで行き、ゲームの世界を変えていった。そうした変化には、当時の社会環境、倫理観の変化なども忍び込んでおり、画家たちは巧みにそれらを作品化していた。
続く