MICHIKO KAKUTANI ミチコ・カクタニの名を知る日本人は、それほど多くはないかもしれない。いつもこのローマ字表記で記されているから、日系のアメリカ人二世であろうと思ってはいた。(漢字では角谷美智子と書くようだ)。
ブログ筆者がその名を知るようになったのは、正確には記憶していないが、『 ニューヨーク・タイムズ』The New York Times を読み始めてからのことであることは確かだ。 常時読んでいたわけではないが、そのうちに、彼女はジャーナリズムの世界に大きな影響力を持つ同紙の指折りの文芸評論家であることを知った。彼女が担当していたのは、主に書評であったが、政治や文化の領域にも広い視野で論評を展開していた。ピュリツアー賞(批評部門)の栄にも輝いている。いつも歯切れの良い鋭い論評で、目にするとその部分だけは必ず読んでいた。
その著名な評論家が刊行された自著(邦訳)を手にしてみると、ブログ筆者の好むシンプルで、好感の持てる装丁でもある。早速、読み始めた。
今回(1997年)、34年間にわたるニューヨーク・タイムズ紙上での書評担当の後、2017年に退任することを発表されたことで、彼女が歩んできた道を詳しく知ることになった。これだけの有名人でありながら、新聞紙上などの論評はともかく、自著としての書籍刊行は今回が初めてであることも知った。「ニューヨーク・タイムズ」紙の文芸批評で名を馳せた著名な文芸評論家が、同紙からの引退を機に、今日の世界を揺るがしている政治、そして文芸に関わる倫理上の問題に正面から対する書籍を著したのだ。
取り上げられている最も重要なテーマは、なんとロナルド・トランプ大統領が当選してからの世界の変化であった。確かに、この前代未聞の大統領が当選してから、世界は大きく変化した。最大の変化は、トランプ大統領が多用する、自説に反する報道は、すべてフェイク・ニュース fake news (捏造、偽造、でっち上げ)とされることで、真実ではない言説、ニュースが世界に流布され、氾濫したことから始まる。真実を主張するメディアがあっても、”フェイク”の名の下に埋没してしまう。その結果、真実が何かということを知ることが難しい時代となってしまった。そのこと自体は淵源を辿ると、ベルリンの壁崩壊当時から徐々に世界を蝕んできた潮流の現時点の状況ともいえる(Tony Judt, 2019)。
カクタニ氏はこうした一連の変化の根底には、ポスト・モダニズム(とりわけ脱構築主義)、ニヒリズム、インフォティンメント(infotainment, edutainment:特に小学生向けの教育効果と娯楽性を合わせ持つテレビ番組、映画、書籍など)の拡大、浸透が根底にあるとしている。日本についても同様な傾向を感じる人も多いだろう。インターネットの発達もあって(真実か虚偽か分らない)情報が氾濫し、一般の人々には何が真実であるか判別できなくなっている。
政治・外交の世界でも当事者のどちらが主張ししていることが正しいのか、善悪の判断も容易につきにくくなった。真実を主張していると思われる側の立場が、「フェイク!」の一言でいとも簡単に覆される。事実から遠く離れている者ほど、正否の判断ができなくなる。そして、この疫病ともいえる手法は、アメリカから世界へと拡大してしまった。結果として、民主主義の基盤が大きく揺らぎ、精神的な荒廃が人々の心を蝕んでいる。
文芸評論家としてミチコ・カクタニが活動してきた 「ニューヨーク・タイムズ」も、トランプ大統領から名指しで、フェイク・メディアとまでいわれるまでになる。いうまでもなく、トランプ大統領は、その手法を存分に使い、今にも崩れ落ちそうな自らの政治家イメージを、大方の予想に反して、思うがままに立て直してきた。大統領再選期を前に、民主党側にはこの奔放で何を考えているか分からない現職大統領に対抗しうる有力候補は未だ現れていない。
トランプ氏は、就任当時は大統領の任期をまっとうできるかとの危惧を、その強引とも横暴ともいえる対応で巻き返し、一時代前なら軽佻浮薄な時代のメディアにも思えたツイッターを駆使して世界を翻弄してきた。前言を覆すことなど、トランプ氏にとっては、なんの良心の呵責もないようだ。
著者の問題への切り込み方は、新聞評論の影響もあってか、いつも鋭く、問題の核心へと導く。しかし、なぜこのようなことが起き、しかも伝染病のように拡大するのか。世の中には真実を知る人もいるはずだ。なぜ、彼らはそのことをもっと力強く語らないのか。そのための手がかりを本書を手にする読者は得ることができるだろうか。民主主義の将来を含め、多くのことを考えさせる好著である。
Reference
トニー・ジャット『真実が揺らぐ時:ベルリンの壁崩壊から9.11まで』慶応義塾大学出版会、 2019 (Tony Judt, WHEN THE FACTS CHANGE CHANGE ESAYS 1995-2010)
『真実の終り』岡崎玲子訳 集英社 2019 (THE DEATH OF TRUTH: Notes on falsehood in Age of Trump)
本書目次:
第1章 理性の衰退と没落
第2章 新たな文化戦争
第3章「わたし}主義と主観性の隆盛
第5章 言語の乗っ取り
第6章 フィルター、地下室、派閥
第7章 注意力の欠如
第8章「消火用ホースから流れ出す嘘
プロパガンダとフェイクニュース
第9章 他人の不幸を喜ぶトロールたち