Henri II(1563-1624), Duke of Lorrain
17世紀ロレーヌの下層貴族の生き方に関する、この一連の記事に接した方は、なぜこんな些細に見えることを記しているのだと思われるでしょう。実はその通りなのですが(笑)。しかし、本ブログの主要なトピックスのひとつであるジョルジュ・ド・ラ・トゥールという希有な画家、あるいは彼らが生きた17世紀、近世初期といわれる時代の社会環境を少し立ち入って理解するには、かなり重要な問題と考えています。さらに踏み込めば、現代以上に人智を超えた「危機の時代」における、人間の生き方の根源に関わる問題を内在しているとも思えます。
日本では比較的知られているレンブラントやフェルメールが生きた社会環境とはきわめて異なった状況が、ほぼ同時代である17世紀ヨーロッパの中心部に存在したのです。そして、フランスや神聖ローマ帝国のような大国については比較的よく研究されてきたにもかかわらず、ロレーヌのような小国の実態には未解明な点がかなり残されています。美術作品の画面だけを眺めていても、伝わってこない時代の空気をできるかぎり「同時代人」 contemporains に近づいて知りたいというのが、ブログを支える考えでもあります。
「高貴」とはなにを意味するか
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが結婚したのは、1617年、画家が24歳の時でした。新婦ディアンヌの生まれたル・ネール家はリュネヴィルの町のかなり富裕な貴族でした。父親ジャン・ル・ネールJean Le Nerf は、ロレーヌ公の財務官でしたが、それほど高い地位の貴族ではなかったようです。しかし、1595年には、リュネヴィルの町に最も貢献した人物の一人として顕彰もされています。娘の配偶者として、普通ならばほぼ同じ社会階層の中で、結婚相手を求めたと考えられます。当時のロレーヌでは高い地位の貴族層と低い地位の貴族層の間での結婚は少なかったとされており、下層の貴族は彼らなりの階層の間で社会関係を構成していました。
この時代のロレーヌ公国の社会環境として、平民の画家と貴族の娘の結婚はかなり好奇な目でみられたことは間違いありません。画家としてすでに実績を高く評価されるまでにいたっていたラ・トゥールでしたが、出自をたどればヴィックのパン屋の次男で、身分が大きく異なる結婚とされていました。
こうした状況で、「貴さ、貴族性」 noble, nobility という概念が、当時の社会でいかに形成され、イメージされていたかはきわめて興味深い問題です。貴族とはいかなる条件を備えるべきか。さらに、ラ・トゥールがリュネヴィル移住に際して、ロレーヌ公アンリII世に送った請願書に、画業がそれ自体「高貴」であることを記していることも思い浮かびます。
この時代、現実は大変複雑なのですが、社会階級をあえて大別すると、次の3つに分かれていました。第一身分は司教、司祭などの聖職者などから成る階層、第二身分は貴族ですが、宮廷貴族、法服貴族、地方貴族など複雑な区分がありました。この二つは概して、「特権階級」と称されていた階級です。第三身分は大多数を占める平民であり、商工業などを営む市民、農民などでした。これらの身分は、その内部においてもきわめて複雑な内容からなる階層を構成していました。この小さなブログで、こうした階級制度の詳細に立ち入るつもりはないのですが、管理人の興味を惹いたことは、ロレーヌ公国という小国(そして、当時のヨーロッパには多数の小国が存在していた)における下層貴族の出自や生き方でした。言い換えると、彼らの社会的移動の実態を知りたいと思ったのが、ここまで立ち入った背景です。
下層貴族の生きる道
ロレーヌ公国はフランスと神聖ローマ帝国というふたつの巨大勢力の間にあって、双方からの影響を受けていました。社会を構成する階級制度としては、フランス王国(ブルボン朝)に近かったが、ロレーヌ独自の特徴もありました。昔からの旧貴族と新貴族の間にはさまざまな障壁も残っていました。このブログでも紹介した『30年戦争史』研究で知られる Peter H. Wilson によると、封建領地が広大で、諸侯の領邦が多数存在していた神聖ローマ帝国では、異なった階層、領域もあり、社会的上昇を妨げる障壁は比較的低かったようです。他方、フランスには神聖ローマ帝国のような領邦乱立の状況に無かったこともあって、貴族にも地域差は少なかったとされます。さらに、フランスで問題とされた法服貴族と帯剣貴族の差異は、ロレーヌでは少なかったとみられます。ロレーヌの新貴族たちは、彼らの社会的地位にふさわしい形で行動していました。しかし、この小国には複線的な社会的上昇の道は、ほとんどなかったようです。そうした中で、宮廷貴族あるいはその候補たちが抱く処世術は、注目に値いします。
これまで記したように、貴族に任じられる際にはロレーヌ公からの勅許状 letter patentが下されるのが例でした。勅許状には貴族としてのさまざまな義務と特権が付帯していました。実は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールにいかなる条件の下で貴族に任じられたのかについては、確かな記録資料がほとんど存在しません。したがって、ロレーヌ公がラ・トゥールを貴族に任じた理由もジャック・マウエの場合ほど明らかではありません。
貴族は継承されるのか
ジャック・マウエの場合、幸いそうした理由・背景に関するかなり詳細な史料が保存・継承されていた。興味深いことのひとつは、こうした勅許の継続性にありました。貴族の称号に関わる特権は、いつまで継続するのか、必ずしも判然としていません。わずかに残るジョルジュ・ド・ラ・トゥールに関わる史料において、ラ・トゥールはいくつかの身辺の出来事の度に、時には裁判にまで訴え、自らの特権を確認することを行っています。
この事実は、貴族の免許がそれを付与した君主にかなり固有なものであり、次の君主の代になってもそうした特権・義務がそのままの形で継承されるとは保証されていないことにあります。さらに激動期には、論拠も不分明になりがちです。それを示す一つの例が、ジャック・マウエの息子のひとりが、父親がシャルルIII世から貴族の勅許状付与を受けた1599年から21年後に、家族の一員が旧貴族の勅許を受けていることを発見し、時のロレーヌ公アンリII世(1608-24)に改めて確認を要請し、1620年に認可されたという事実が記されています。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯にみられる、貴族や王室付き画家などの肩書きや権利をめぐる一見執拗な要請や確認の行為は、こうした状況の下では当然の行動であったと考えられます。
さらに、これらの事実が示すことは、下層貴族たちは貴族層の中で限られた可能性をめぐって地位向上を図り、宮廷での政治力を高めるなどの戦術を展開していたことです。公国の中での領地の取得と拡大、同等の家系の間での結婚によるつながりの強化なども、重要な手段でした。
ラ・トゥールはこの結婚で、確かにロレーヌ宮廷の貴族サークルにも近づいたことになり、社会的にも父親より上方の階級移動にも成功します。そして、後年自らも貴族や王室付き画家などの肩書きを積極的に名乗ることになりました。さらに1670年には、息子であるエティエンヌが、ロレーヌ公シャルルIV世から貴族の称号を与えられるまでになります。
ロレーヌ下層貴族の生き方から浮かんでくるのは、「危機の時代」といわれた17世紀を彼らなりに切り抜けようとした生き様のしたたかさです。ひとたび、貴族の地位を確保したからには、それをいかに自らの家族や子孫に継承してゆくかという戦術を彼らは常に考えていたように思われます。しかし、それがいかなる結果をもたらしたか。さらに考えるべきことは多いようです(続く)。