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高校生による富田林 平古墳群の保存運動~大阪大谷大学特別展「部活で発掘!部活で考古」から

2024年12月03日 | 博物館・資料館

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2024年9月20日~11月16日 大阪大谷大学博物館の秋季特別展「部活で発掘!部活で考古!」が開催されました。

 

今回は高校生のクラブ活動による文化財の保全と研究、そして高校生らによる署名による古墳保存運動についても展示がありました。

ここでは展示・解説されていた喜志 平古墳群の保全をめぐる河南高校・富田林高校の署名活動とその結果について、特に感銘を受けましたのでご紹介させていただきたいと思います。

 

〈画面をクリックすると拡大します〉 河南高校の紹介

 

〈画面をクリックすると拡大します〉 富田林高校の紹介

 

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昭和45年(1970)富田林市平古墳保存陳情書 富田林市平古墳を守る会(下書き) 

河南 考古学クラブ 富高 考古学クラブ 個人蔵

 

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保存運動が掲載された新聞の切り抜き

 

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昭和45年(1970)11月12日 朝日新聞

「河南高校考古学クが保存へ署名運動を起す」の記事。

 

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昭和45年(1970)11月12日 毎日新聞

『「平古墳」を守ろう』「宅建業者の言いなり許せぬ」の記事

 

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昭和45年(1970)11月11日 朝日新聞

「宅造許可・試掘に この無責任行政 造成地の2古墳」の記事。

 

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平古墳保存の署名嘆願書「平古墳保存の問題をめぐって、皆さんに訴えます!

昭和45年11月24日 富田林高校・河南高校 考古学クラブ員一同」

 

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平古墳保存の署名嘆願書「平遺跡の完全保存を!」

河南高校考古学クラブ、富田林高校考古学クラブ

「平遺跡を完全保存するための署名を!」と書かれています。

 

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平遺跡の署名運動は近鉄 富田林駅などで行なわれました。その結果8492名の署名を集めるところとなりました。

 

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保存運動の経過。しかし、部員の努力もむなしく、遺跡は残念ながら大阪府教育委員会の調査の後、消滅してしまいました。

 

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「大阪府教育委員会による平古墳群発掘調査概要」

昭和47年(1972)1月20日~2月25日に宅地開発業者から依頼を受けて大阪府教育委員会が平古墳群発掘調査をしました。

 

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結果2基の古墳が確認され、府下では珍しい5世紀後半(古墳後期)の45mの前方後方墳と6世紀(古墳後期)の約20mの円墳(平2号墳)が確認されました。

 

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そして現状保存されるよう会社側に指導し協議を重ねましたが、保存には至りませんでした。富田林市では弥生中期から古墳時時代、飛鳥時代への流れをつかむことのできる貴重な古墳が数多く存在しました。

 

〈画面をクリックすると拡大します〉 平2号墳 円墳 20m 6世紀(古墳後期)

ところが宅地開発の名のもと、宮町3丁目(鍋塚古墳)、南旭ヶ丘(真名井古墳、宮前山1~3号墳)、山手町・寿美ケ丘(板持古墳群)、梅の里(平1号墳、2号墳)、美山台(小金平古墳群、一部移築して保存)、かがり台(山中田古墳群)が破壊されました。宅地開発は古墳破壊との歴史です。

そこだけ保存することはできなかったんでしょうか?

 

これは藤井寺市藤ケ丘2丁目の住宅街の中にある蕃所山(ばんしょやま)古墳で、モッコ塚とも呼ばれています。この古墳は、周辺の住宅街ができるときに現在のような形で墳丘が保存されました。22mの円墳。

うまく古墳のもとある位置を活かして周りを宅地化していますね。

 

藤井寺市は開発から古墳を守るために、番所山古墳や赤面山古墳などの小古墳なども、かなり早い段階で史跡として指定し保存をしようとしているようです。
 古墳を住宅建設のため破壊するのではなく、住宅街と調和するような形で保存しようする意思のようなものが感じられます。これはすごいこと。続く未来まで永劫にこうして古墳は生き続けます。
 

西名阪の高架下にポツンとたたずむ赤面山古墳 22m 方墳 5世紀初頭(古墳中期)

この方墳は実は重要な古墳で、河岸段丘面に形成された古市古墳群の南より応神陵、大鳥塚古墳、赤面山古墳、古室山古墳、中津姫陵、允恭陵と続くラインあり、古墳群の築造場所の意図を検証するにあたり意味を持っています。

かつて開発が進む中で、どうしてもここに高速道路を通す必要がありました。古墳を取り壊す以外の選択肢はない状況でしたが、古墳を守るため赤面山古墳の上に道路を通しました。高架の脚が1本飛んで、道路の天井や側道をカーブ状にするなど、古墳を守るための工夫を随所に見ることができます。

高架の下に保全された赤面山古墳、古墳全体が高速道路に覆われているので、恥ずかしがって「赤面」しているように見えるので「赤面山古墳」と名付けられたとか。名前の付け方もうまいですね。

特に消滅した南旭ヶ丘の真名井古墳は特に重要な存在でした。表の通り真名井古墳はなんと4世紀前半の60m級の前方後円墳です。この古墳は石川流域の前期古墳の中では最も古く、中国製三角縁三神三獣獣帯鏡銅鏃が出土しています。しかも前方後円墳ですからヤマト王権に協力・連合していたことがわかります。

4世紀前半はまだ古市古墳群も百舌鳥古墳群もない時代。ヤマト王権が大王陵を奈良の大和(おおやまと)古墳群などに造っていた時代です。その頃からこの富田林市の喜志を本貫地としていた有力な地方豪族がいたことがわかります。それはおそらく弥生中期の喜志遺跡・喜志西遺跡のサヌカイト石器を加工し販売(物々交換)していた有力な弥生人の流れをくむ人たちであったと思われます。

百舌鳥古墳が造られ始めた4世紀後半、津堂城山古墳以降、農閑期にはここの有力な豪族が古市古墳群の築造に大いに協力したと思われます。

いま真名井古墳が保存されていたらすごいことになっていたと思われるので残念でなりません。この当時は民間の宅地開発では古墳がそのままの形で保存される例はあまりなかったのでしかたがないかもしれませんが...

 

〈画面をクリックすると拡大します〉作成 林 保夫

 

〈画面をクリックすると拡大します〉作成 林 保夫

 

〈画面をクリックすると拡大します〉 平1号墳 前方後方墳 45m 5世紀後半(古墳後期)

このことに対して、私たちは学ぶべきことがあるのではないでしょうか。

〈おまけ〉

消滅した貴重な前方後円墳が多いです。

宅地開発で古墳が保存された例。楠風台 彼方丸山古墳 40m級円墳 5世紀前半(古墳中期)できたら中に入り見学できるようにしてもらいたいです。

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写真撮影:2024年11月13日

2024年12月3日 アブラコウモリH

 


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