
これは横浜居留地の故老アーサー・ブラントが1918年11月27日付ロンドン・アンド・チャイナ・エクスプレス紙に寄稿した記事を和訳したものである。初出は1902年1月23日付ジャパン・デイリー・メール紙と記されている。
§
1875(明治8)年のある春の早朝、正確には4月19日の月曜日、私は翌月に行われるレースのトレーニングの様子を見に友人とともに競馬場に行った。
パドックからコースを回ったところで海が見えてきた。
§
遠く青い海の向こうに、小さなスクーナー型の帆船が湾内を走っているのが目に入った。
その時、船は灯台船と浦賀の間のあたりにいるように見えた。
友人は私に何の船だろうと尋ねた。
§
最近台湾から砂糖を運んできたアイリス号だと思うと私は答え、確かヘイゼルが買ったと聞いたけど、と付け加えた。
ヘイゼルはあまり評判のよくない男で、私はいったいどこからそんな金を工面したのだろうといぶかしく思っていた。(彼は馬を貸す商売をしていたが、その頃はグランド・ホテルのビリヤードの採点係をはじめていた。これはまだ小規模なものだったが発案者にとっては後に非常に頭の痛い結果となった。)
§
とはいえ家に帰って風呂に入り、朝食をとるとそのことは頭からすっかり消えて、アイリス号のことも、ましてや日没前に起こる悲劇のことも思いやることはなかった。
§
10時頃、あるブローカー(当時も今も、あらゆるニュースやゴシップに通暁する大御所として知られる人物)がとても興奮した様子で事務所にやってきて、「おい、ニュースを聞いたか」と私に尋ねた。
§
「いったい何のニュースだ?」ときくと、その頃、本町の57番地にあったコントワー・デコント・ド・パリ銀行を、会計係のスタインフォースと出納係のトルネリが襲い、二人は大金を奪ってアイリス号でどこかに向かって逃げ出したという。
江の島に行っていた支配人が帰ってきてこの事件に気づき、イギリスとイタリアの領事館に令状を申請すると、ロック・カペル商会という有名な会社が所有している小型蒸気船シーガル号をチャーターして、逃亡者の追跡に向かおうとしているというのである。
§
私はその朝アイリス号を見たことを思い出し、風は非常に弱い逆風なので、すぐに追いつかれてしまうだろうと友人に言った。
§
やがて居留地ではさまざまな噂が流れ、略奪品の額は数十万ドルに上ると言われた。
実はその後、67,000ドルほどだったことが判明し、最終的に約47,000ドルが銀行に回収されたが、残りは使われてしまって取り戻せなかったように記憶している。
§
午前中、クラブ(現クラブホテル)に大勢の人が足を運び、正午頃にはシーガル号が蒸気を発するのが見えた。
まもなく青いジャケットに身を包んだ英国船タリア号の船員6名から成る一団と副官1人が、黒服の英国領事館警察官とともにシーガル号に乗り込み、2時頃、英国軍艦旗を掲げて港を出た。
§
この時点で事件に関してかなり多くの事実がわかってきた。
後に法廷で明らかになったことを補足すると、およそ次のようなものだ。
§
スタインフォースは、すさんだ生活をおくっているという評判で、賭け事やギャンブルで身の丈以上の生活をしていた。
力に勝るスタインフォースがトルネリを誘って銀行強盗に手を染めた。
銀行には支配人のほかにヨーロッパ人は二人しかいなかったし、スタインフォースひとりでは強盗を実行することはできなかったからだ。
§
この邪悪な計画を実行し、高跳びする手段を得るために、彼らはまずヘイゼルの名義で小額を預金し、銀行に口座を開設した。
そして折々に払込票を操作して、アイリス号の代金にあたる11,000ドルを引き出せるだけの額まで増やしていった。
§
裁判では、2年近く前から帳簿を改ざんし、小口の金を横領していたと述べられているが、犯人たちは横領が発覚する時期が来たと悟り、一大決心の上、アイリス号が出港したマニラへ逃げようと考えたに違いない。
§
アイリス号がヘイゼルのものになったのは、出発を予定していた土曜日の1日か2日前だった。
銀行の支配人は午後から江ノ島に向かうことになっていたので、その日の午後に出発すれば、彼らが逃げたことが判明するまでに36時間程度は間があると計算したのだろう。
スタインフォースはたまっていた請求書のうちいくらかを支払ったが、それはつまりあり余るほど金があったからだったということが後からわかった。
§
しかし、アイリス号の片付けに時間がかかり到着が遅れたため、出発は月曜日の早朝となり、風は弱い逆風だった。
犯人の心境は想像に難くない。
すでに略奪品は船内に積み込まれているというのに、日曜日じゅうじりじりとして待ちながら過ごさなければならなかったのだ。
1時間遅れるごとに犯行の発覚が近づいてくるというのに。
§
二人はその日の夜遅くに乗船したようだ。
ヘイゼルは船長に乗客二人分の準備をするよう伝えていた。
§
トルネリは誰に聞いても堅実な生活を送っていたようで、終始スタインフォースのいいなりになっていたことは間違いない。
しかしイタリア領事館で行われたトルネリの裁判は非公開だったので、そこで何が行われたかはほとんど知られていない。
§
アイリス号とシーガル号に話を戻そう。
大騒動が起こった月曜日の午後2時ごろにシーガル号は出航し、1時間ほどでアイリス号を発見した。
地元のボート数隻で金田湾に引かれていくところだった。
やはりそれほど遠くには行っていなかったのだ。
§
近づいてみると、船長、ヘイゼル、スタインフォースの3人が双眼鏡でこちらを見ているのが副官の目に入った。
もう少しで声が届くほどの距離にシーガル号が迫ったとき、スタインフォースは船室に姿を消した。
§
汽船が帆船に横付けする前に、2、3発の銃声が聞こえた。
目撃者たちは正確に何発だったかは覚えていないという。
§
ラドフォード船長(共犯者として英国領事館で起訴されたが、一点の疑いもなく晴れて無罪となった人物。
強盗について何も知らなかったことは明らかであった)は、シーガル号が自分たちの方へ向かってくるのを見て、置き忘れたものか何かを届けに来たのかと思ったと証言している。
しかし英国軍の旗がなびいているのを見るや不吉なものを感じ、ヘイゼルとスタインフォースに向かってどういうことかと問いただし、自分が何も知らなかったことを証言するよう頼んだ。
するとスタインフォースは、罵声を浴びせながら双眼鏡を投げ捨て、下に駆け下りていった。
§
副官が部下を従えてアイリス号に乗り込んでくると、ラドフォード船長は彼らに、銃声が聞こえたからすぐに下にいってくれ、乗船者たちが自殺したかもしれないというようなことを言った。
§
船室に入ると、そこには衝撃的な悲劇が繰り広げられていた。
スタインフォースは心臓を弾丸で貫かれて死んでいた。
リボルバーの弾倉の二つの薬室が空になっており、左手の指が黒く焼けているのを見れば、彼が銃を撃ったことは明らかだった。
トルネリの銃の薬室は一つだけが空の状態で、頭を銃弾で貫かれていたがまだ生きていた。
§
午後11時頃、シーガル号がアイリス号を曳航して港に戻るまで、トルネリはそのままの状態にされていた。
§
あの数分間、船室で何が起こったのか、それは誰にもわからない。
前にも述べたようにトルネリに関する調査の結果は公表されなかった。
二人の逃亡者が、逃げ切れないとわかった時点で自殺することで合意していたのは確かである。
スタインフォースは、トルネリのもとに駆けつけ、そのときが来たことを告げた。
二人のうち、より強い意志を持っていた彼は、トルネリがどうするかを見届けるまで発砲しなかった。
おそらくトルネリが結局のところ「臆病者」になるのではと危惧したのだ。
§
トルネリが空に向かって撃ったのは間違いないようだ。
私はずっとそう思っている。
後にアイリス号の天井から弾丸が発見されたが、二人のピストルは同じ口径で、どちらが撃ったのかは定かでない。
§
弾が空に放たれたのを見たスタインフォースがトルネリの頭を撃ち、次に自分に銃を向けて致命傷を与えたのだろう。
§
翌日、領事館でスタインフォースの審議が行われ、自殺と断定された。
その夜、数人の友人に付き添われて最後の憩いの場に埋葬された。
当時の英国領事が、彼の墓前で二言三言述べたと思う。
同じ日、トルネリは墓地のカトリック信者の墓がある区画に埋葬された。
§
数日前、私は彼らの墓を訪ねてみた。
スタインフォースの墓石にはイニシャルしか書かれていなかったが、トルネリの墓には氏名と没年月日が刻まれていた。
§
その後まもなく、ヘイゼルとラドフォード船長が共犯者として裁判にかけられた。
ラドフォード船長はすぐに無罪となったが、ヘイゼルは禁固2年という非常に軽い刑を言い渡され、服役後、日本から姿を消した。
§
これが横浜の外国人コミュニティがそれまでに経験したことのない恐ろしい悲劇のおおよそのところである。
当時外国人の数は現在の半分より少ないくらいだったので、どんなに人々が興奮したかは想像に難くないだろう。
しかし27年という年月が去った今、もうほとんど覚えている人はいないと思う。
とはいえ、若い人たちも少しは興味を抱くかもしれないし、年寄りの中にはその時のことを思い出す人もいるだろう。
§
このことは日本人の間でも大きな話題となり、彼らはこの悲劇的な結末がとても気に入ったようで、その登場人物たちの最後の瞬間のようすを描いた極彩色の風俗画がしばらくのあいだ出回ったものだ。
§
ここで断っておくが、私はこの物語の登場人物の名を架空の呼び名に置き換えている。
理由は明白だろう。
§
シーガル号がアイリス号に乗り込んだ直後に順風が吹き始めた。
つまりシーガル号の出航が30分遅かったら、犯罪者とその戦利品を乗せた帆船は、少なくとも当面は逃げ切れたと思う。
§
この悲劇が起こる少し前に、スタインフォースは「悪くない判事」という素人芝居(68番地の現在では倉庫になっているところで行われた)に出演して敵役を演じた。
「俺のことを嘘つきとでも悪党とでも呼ぶがいい、だが臆病者とは決していわせないぞ」というような台詞があったが、彼がその後も時々そう言っていたのを覚えている。
§
その台詞通りの思い込みが、彼にああした行動をとらせたのではないかということが、当時ちょっとした論議のネタになった。
このことについては私個人として非常に強固な意見を持っているが、判断は読者に委ねるとしよう。
図版
・競馬場(根岸)手彩色絵葉書(筆者蔵)
参考資料
・London and China Express, Nov. 27, 1918