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式典に続く昼食会は新校舎最上階の端から端までを占める広大な部屋で行われ、後援者と有志ら約75名に食事がふるまわれた。
ここでも神奈川県知事、グレイトハウス米国総領事、J. H. バラ師の3名から手短ながら祝賀の挨拶があり、バラ師は1859年5月13日J. T. ブラウン、シモンズ医師、フルベッキ師の3人の先達者がこの地に到着して以来の改革派ミッションによる教育活動を手短に紹介するとともに、当時の県知事がミッションへの共感を示し、用地の調達に関して手を貸していただいたくれたことが役立ち、それは現在も同様であると述べた。
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沖守固知事の挨拶の大意は次の通りである。
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今日私が目にしたのは、学校の後援者と支持者が日本の女性教育に深い関心を抱いていることを証明して有り余るものであり、自分はその働きを大いに評価するばかりでなく、その取り組みに深く感謝したい。
この学校が社会における女性の地位向上に取り組んできたこと、またこの学校で学んだ女性たちがその後、妻としてまた母としての役割を極めて見事に果たしていることはすばらしい。
学校が将来にわたって繁栄することを心から望むと共に、自分の力の及ぶ範囲であれば、いつでも何であれ学校に力を貸す用意がある。
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バラ師が知事への感謝を述べたのに続いてブース校長が立ち上がり、短いスピーチを行った。
そのなかで彼は、臨席している多くの日本人出席者による建設基金への多大な貢献に対して心からの感謝を表明し、そして申し出のあった金額2,200ドルのうち1,200ドルがすでに払い込まれていると報告した。
この事業全般において、日本の人々が示した援助と信頼ほど彼を感動させたものはない。
神奈川県の、ひいては国の婦女の利益と福祉に貢献するために、しっかりと根を下ろして学校を持続させようというミッションの意志を日本人はしっかりと理解してくれている。
学校は現在アメリカの資金で経営されているが、理事らは、近い将来日本人が自ら資金を提供して、学校に寄付する日が来ることを望んでいる。
彼は日本人がその力を得、そうする意志を持てば遠からず実現すると信じている。
「神がその日を早く来たらしめんことを」そう述べてブース氏は挨拶を締めくくった。
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午後は、外国人を中心とした多くの聴衆が立派なホールに集い、生徒その他によるスピーチや朗読、体操演技を鑑賞した。
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このお楽しみ会は “感謝の心で”(“Oh, give thanks unto the Lord”)の歌声で幕をあけた。
これは午前中に披露されたものだったが、好評により再演されたのである。
ローウェルの美しい詩“ロンファル卿”を4人の生徒が朗読し、50名を超える少女たちがグノーの“ナザレのイエス”を合唱、そして生徒代表による祝辞、更に“ハーレックの男たち”の二重奏が続いた。
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中島俊子、島田かしこ、松田道子の3名の日本人女性が、それぞれ教員・卒業生・在校生を代表して祝いの言葉と所感を述べた。
なかでも特筆すべきは、第一回の卒業生で現在は英語講師を務め、開校当時から現在に至るまでセミナリーに関わってきた唯一の出席者、島田かしこ女史による英語での“昨日と明日”と題したスピーチで、これは学校の繁栄を願うすべての者にとって極めて興味深く、賞賛に値するものであった。
その内容はおおよそ次の通りである。
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それ自体なんでもないような事柄や場所も、そこにまつわる歴史や出来事に思いを馳せることによって、すばらしいものに思われてくることがある。
自分は取るに足らない者であるが、本日この場において唯一フェリス女学校の始まりの日を見た者であるということで、何らかの興味をいだいていただけるかも知れない。
この学校で計り知れない恩恵を被った者として今日のこの日を祝う言葉を述べさせて頂きたいと思う。
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日本の女子教育の先駆けである「女子師範学校」に続き、フェリスは明治8年(1875年)6月1日に教育機関として一般に門戸を開いた。
新島襄氏が同志社の基礎を築いたのも同じ年のことであった。
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当初30名の女生徒は、私共の家庭の母であるかのようなE・R・ミラー夫人のもと、富士山を望む恵まれた環境で、試験や風紀取り締まりといった学校の干渉も受けることなく寮生活をおくっていた。
日本女性の地位の低さにも、地位向上を願う周囲の期待にも気づかずにいた。
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やがて「婦人問題」の重要性が日本社会において認識され始めると、学校内外からの要望に応えるべく、ブース校長は1882年、学科課程を定めて広く公表し、教育水準の向上と教育設備の拡充を図られた。
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翌年ブース校長の要請により伝道本部より資金提供を受けて校舎が増築された。
しかし生徒の増加はなおも続き、校長夫妻は帰国して校舎拡張の資金を募り、それを得て日本に戻られた。
学校の昨日までの姿は簡単に申せば以上の通りである。
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私たちは過去に感謝しつつもそれにとらわれることなく、現在にあって、明日が輝かしいものであるよう、未来を自らの手で作るべく働かなくてはならない。
フェリスの基礎を築いたのは米国の友人達であるが、フェリスの未来は日本人自らが自立して作らねばならない。
幸いフェリスの卒業生は増え続け、このホールの建築資金の一部は日本人の寄付によるものである。
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学校で享けた恩恵に報いるために在校生に望むことは、フェリスの生徒一人一人がフェリス女学校の果実としてその手に学校の名誉を担っていることを自覚し、卒業後、学校で得た知識にふさわしい役目を果たせるよう、今、一生懸命に学ぶことである。
そして次には、責任を立派に受けとめて、私共に与えられたと同じように今度は与えるために前進しようではないか。
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教員を代表して祝辞を述べた中島俊子女史は、元神奈川県知事中島信行の夫人にして、自身自由党の紅一点として活躍した才媛であったが、この頃はフェリスの漢文の教諭を務めていた。
その内容はおおよそ次の通りである。
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私ども教師は、西洋の事柄を無批判に受け入れているのではない。
たとえそれ自体が完全無欠のものであっても、その国特有の状況に合わせて用いなければ得るところは少ない。
女子教育についてもしかりである。
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ミッションスクールの教育方針は自国のことをなおざりにして外国のものをそのまま取り入れるという批判があることは承知しているが、本校がその批判にあたるものではないことを願っている。
宗教が生徒に及ぼす倫理的影響が大きいとはいえ、本校の目的は宗教教育のみではなく、広く社会に有用な婦人を作るに必要な教育を施すことである。
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教育の成果を得るためには数年の歳月を要するが、父兄によって中途退学させられるものがある。
教育の完成を見ずに退学したこれらの子女を標準として、本校の生徒は生意気であるなどと批判を受けるのは、甚だ遺憾であり、私どもにとっても大変な失望である。
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中島女史の演説は、ミッションスクールに対する世間の無理解への忸怩たる思いがにじむものであった。
当時、知識階級や文部省役人らにおいてすらこうした無理解が広がっており、ミッションスクールへの逆風となっていたが、その中にあってフェリスはこの年も50名の新入生を迎えており、比較的順調な歩みを続けていた。
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この日、喜びの式典の最後を飾ったのはブース校長のスピーチであった。
それは今日までの学校の歴史を手短な紹介であったが、そこには将来への熱い願いと、生徒に向けた真摯な言葉が溢れていたのである。
図版:
・布恵利須英和女学校(『女学雑誌』183号 1889年5月)
参考資料:
・The Japan Weekly Mail, July 9, 1887
・The Japan Weekly Mail, June 8, 1889
・『RCA伝道局報告書に見るフェリス』(フェリス女学院、2015)
・『フェリス和英女学校六十年史』(フェリス和英女学校、1931)
・『フェリス女学院100年史』(フェリス女学院、1970)
・フェリス女学院150年史編纂委員会編『近代女子教育新学制までの軌跡』(フェリス女学院、2012)
・メアリー・P.プライン 安部純子訳著『ヨコハマの女性宣教師 : メアリー・P.プラインと「グランドママの手紙」』(EXP、2000)