忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

湖畔に春のたより

2017年02月05日 | 琵琶湖の旅
太古、琵琶湖は現在の場所よりずっと南東に位置する三重県の伊賀市のあたりにあった古琵琶湖が、地殻変動により長い時間をかけて徐々に西北へと移動し、約500万年前に比良山系の山々に押し止められるよいにして現在の位置に落ち着いたといわれている。





滋賀県の約5/1の面積を占める琵琶湖は南北に長く、春のおとづれは北陸性の気候が入り込む北湖と太平洋性の気候が支配する南湖周辺とではかなりのづれがある。





南湖一帯で草木が芽吹きはじめても北湖周辺ではかなりの地域はまだ雪に閉ざされ、峰々は雪をかぶったままである。





北湖の巾着部にかかる琵琶湖大橋の東詰に近いここ滋賀県守山市のなぎさ公園も、その渚に立つと対岸の湖西地方はまだ所々雪に閉ざされ、雪をかぶった比良山系の山々が屏風のように連なっており、沖島の背後には遠く厚い雪を纏った伊吹山を望むことができる。





でも、琵琶湖の東岸にあるここなぎさ公園はもう春といわんばかりに菜の花が満開している。





ベンチにかけるとあちらこちらから菜の花独特の春の香りが漂っている。





ここのところ寒気がたびたび居座って雪や寒風に悩まされる日本列島も、合間合間に春を感じさせる暖か日がやってくる。





立春を迎え、このあたり一帯には春の便りが日々届きつつある。





三井の晩鐘

2014年08月31日 | 琵琶湖の旅
長等山園城寺
三井寺の名でよく知られている。




比叡山延暦寺の三代円珍の時代に宗旨の対立から山を下り、この地に門を構えた。
以来、天台宗は山門(延暦寺)と寺門(園城寺)に二分され、山門寺門の争いとして歴史を賑わせてきた。
平家興亡の時代に山門と寺門が果たした複雑な関係はよく知られたところである。



花の寺として知られており、春には桜をはじめとする様々な花が開花し、広い境内は参詣する善男、善女人らで埋めつくされる。
秋の紅葉の時期になると、その境内は花の三井寺とはまたひと味違う落ちついた風情を見せ、境内は人で賑わう。


金堂は入母屋造り檜皮葺きで、桃山建築の代表的な建物といわれ、国宝指定を受けている。



秀吉の死後、その遺志を受けて高台院が慶長4年(1599)に建てた。



鐘楼の鐘は、天下の三銘鐘(形の平等院、銘の神護寺、音の園城寺)の一つで、「三井の晩鐘」としても知られている。



三井の晩鐘は近江八景一つとされ、安藤広重の浮世絵で江戸時代に広く世間に知れわたった。
今では大津市のみならず、滋賀県の大きな観光資源の一つとなっている。
平等院や神護寺の鐘は撞くことが叶わないが、三井の晩鐘は定めらた志納金さえ納めれば誰でもこれを撞くことができる。
私もその音色を確かめたくて撞いてみた。
そしてつくづくと思った。
 …鐘の音色というものは、撞いて味わうものではなく、やはり遠くで聞いて初めてその値うちがわかるの だ…、
というごく当たり前のことを、である。


この鐘は弁慶の引きづり鐘を模して慶長7年に鋳造されたといわれ、形も重さもほぼ等しい。

その弁慶の引きづり鐘は、割れ目が入り、現在は撞かれることはなく、別の堂に保存されている。



晩鐘で知られる三井寺であるが、この寺は西国十四番札所の観音霊場でもある。
観音堂は霊場巡りをする参詣人で年中そ賑わいを見せている。



観音堂の境内から見下ろす琵琶湖の景観は見事である。




晩鐘の音色は、やはりこの観音堂の見事な景観の中で弁慶の力餅を味いつつ耳を傾けるものなのであろう。

    いで入るや波間の月を三井寺の
            鐘のひびきにあくるみずうみ

                 (観音御詠歌)



わすれられた港町-海津港

2014年07月15日 | 琵琶湖の旅

海津港の歴史は古く、平安時代の末期にはすでに港として使われていたといわれている。



物の輸送を人の背や船に頼っていた時代、若狭や北陸から京都へ上る物資の中継点として、ここ海津港はなくてはならない存在であった。



西近江路で若狭や北陸を往還する旅人の宿場町としても海津は繁盛した歴史をもつ。



海津の浜の高い石積みは、元禄年間に、甲府藩高島郡の代官として赴任した西与一左右衛門が、この地域の民家がたびたび風浪の被害に見舞われるのを見て、東浜の代官金丸又右衛門と協力して幕府の許可を取ってこれを築いた。



鉄道の発達により、人や物資の大量輸送が可能になると、琵琶湖経由の丸子船による輸送はその需要が減っていき、それに伴い海津港はかつて輸送の担い手であった丸子船と共に時代の表舞台から退いていった。


現在の海津は、桜の季節に海津大崎の桜を見るためにやってくる観光客によって一時的な賑わいを見せるほかは、町はいつもひっそりと静まりかえり、



かつての賑わいは、今も残る海津浜の石積みによって、



これを偲ぶ外はない。


琵琶湖の旅-西の湖

2014年03月01日 | 琵琶湖の旅

              西   の   湖

近江八幡市と安土町にかけて広がる琵琶湖の内湖である。
現存する琵琶湖の内湖の中で最大のものである。
近江平野の豊かな田野に静にその湖水を湛える。
その静けさのゆえか、周りをヨシ原に囲まれるその独特の景観のせいか、
その眺めは道ゆく人の心を捕らえて放そうとしない。

   

ここにはかつて近江八幡市、神崎郡竜王町、蒲生郡安土町の一市二町にまた
がる大中の湖と小中の湖(伊庭内湖、弁天内湖、西の湖)があった。
このうち伊庭内湖、弁天内湖、そして大中の湖はいずれも干拓によって消滅し、
西の湖だけが今に残る。

  

水鳥の生息する湿地として2008年10月にラムサール条約の琵琶湖エリアに
追加登録された。

  

釣人にとっての天国であると共にそのヨシ原はチュウヒの飛来地としても知られ、
遠くからバードウオッチャー達が集まる。

  

琵琶湖のヨシ原の六割以上がこの西の湖に集中している。
ヨシはスダレや衝立などの生活資材の材料として昔から重宝されてきたが、
最近では湖の水質浄化のため、また水鳥の棲息する貴重な湿地として、
地域の人達のたゆまぬ努力によってその保護がはかられている。

  

刈り取ったヨシは庭先で乾燥に付され、

  

ヨシ原はヨシ焼きによって雑草やヨシ株が焼かれる。
ヨシ焼きをしないと春の芽吹きが揃わないといわれる。

  

ヨシ原の中は縦横にクリークが広がる。

  


       胡 蝶 の 夢 の 人 の 身 を
        旅 と い う こ そ う れ し け れ
        常 世 に 長 き 天 地( あ め つ ち )を
        宿 と い う こ そ お か し け れ

        青 き 山 辺 は わ が 枕
        花 咲 く 野 辺 は 吾 が し と ね
        星 縫 う 空 は 吾 が と ば り
        さ か ま く 海 は 吾 が 緒 琴

                                   (島 崎 藤 村)


琵琶湖の旅-琵琶湖大橋

2014年02月19日 | 琵琶湖の旅

        琵 琶 湖 大 橋

この大きな鳰の海に架け橋があったなら、
近江路を行き来する昔の旅人は誰しもそう思ったに違いない。
しかし、それは叶うことのない夢でしかなかった。
その夢を現実のものとしたのが琵琶湖大橋の完成であった。
開通したのは日本が本格的な高度成長期に差しかかりつつあった昭和39年9
月のことである。

   

大津市の堅田と対岸の守山市とを結ぶ1350メートルの鋼鉄製のアーチである。
琵琶湖の東岸と西岸の行き来の所用時間がこれで一挙に短縮された。

   

かつて旅人は都から若狭路で八瀬、大原を抜け、竜華越えで堅田に至り、
ここから船で対岸の守山宿へと渡った。
今では日々数万台の車がこの橋をあっという間に駆け抜ける。

   

南湖と北湖を行き来する船の通行を妨げないためアーチの高さは湖面から約
26メートルとかなり高く造られている。
完成当時、橋の下を行き来する最大の船は観光船の玻璃丸であった。
今ではその下をミシガンやビアンカといった大型観光船が行き来する。
欄干に立つと広々と北湖が見わたされ、その左手には比良の山並みが右手に
は遠くに沖島と伊吹山が望める。

  


古代人の夢の架け橋をうつつ世の姿として見せるかのようにその曲線は
なだらかで美しい。

   

  
     日が歩むかの弓形(ゆみなり)の蒼空の
                    青ひとすぢのみち高きかな

                                             (若山牧水)


琵琶湖の旅-白鬚神社

2014年02月14日 | 琵琶湖の旅

           白   鬚   神   社

西近江路が三尾崎の東端にまさに差しかかろうとするとき、突如、湖上に
浮かぶ朱の鳥居が現れる。

白鬚神社の一の鳥居である。

   

近江国最古の神社で、創建は垂仁天皇の時代に遡るとされている。
古くから長寿延命の神として知られ、謡曲「白鬚」の舞台ともなった。
「白鬚さん」「明神さん」などと呼ばれて多くの人に親しまれてきた。

   

磯馴松の林に立つ二の鳥居をくぐると山の斜面に境内が広がる。

   

三尾の地は山海の幸に恵まれ、北陸道の要を占めるその地理的条件もあって
古来多くの戦いで戦場とされた。
壬申の乱では大友軍と大海人軍の最後の激戦がこの三尾の地で行われ、近く
の乙女ゲ池は両軍の将士が流す血で朱に染まったといわれる。
また藤原仲麻呂の乱で仲麻呂が敗れたのもこの地である。

  

遠く沖島をのぞむ境内からの眺めはまさに絶景である。
境内には多くの歌碑、句碑が立つ。

   

湖中の鳥居は、湖上交通に多く頼っていた古代、船で参拝する人のための貴重な
澪標となった。

  

         みおの海に 網引く民の てまもなく
                      たちゐにつけて 都恋しも

                (境内の歌碑に刻まれた紫式部の和歌である)


琵琶湖の旅-瀬田の唐橋

2014年01月25日 | 琵琶湖の旅

                 瀬 田 の 唐 橋

日本三古橋の一つに数えられる橋である。
名のとおり瀬田川にかかる橋で、その起源は景行天皇の時代にまで遡るといわ
れる。

   

瀬田川は118もの一級河川が流入する琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。
現在はコンクリート橋であるが、1979年(昭和47年)にかけ替えられるまでは木
橋であった。
現在の橋も昔の姿が生かされており、欄干の擬宝珠はそのまま使われている。
唐橋の名はその擬宝珠の形に因む。

日本三名橋の一つともされており姿はなかな優美である。

  

瀬田川は淀川の滋賀県域での呼び名で、京都府域に入ると宇治川、そして鴨川、
桂川との合流地点から本来の名である淀川と呼称される。
淀川水系の要となる水の供給源である。

大橋、小橋にわかれていて合わせるとかなり長い。

   

大橋の欄干に立ち上流側を見ると北方に比良の峰を望む。

  

京の七口の一つである粟田口と東海道、東山道を結ぶ要の橋で、古くから数々
の合戦の舞台となった。
源平の争乱の時の合戦が良く知られているが、古くは壬申の乱で大伴の皇子と
大海人皇子の戦いの最後の舞台となったのもこの橋であるし、奈良時代の藤原
仲麻呂(恵美押勝)の乱では、近江へ逃れようとする仲麻呂を孝謙天皇軍が先回
りをし、この橋を焼き払ってこれを阻んだ。

  

やむなく仲麻呂は愛発関越えで越前を目ざすが、天皇軍に阻止され、高島郡の
三尾崎に陣をはった。
しかし、衆寡敵せずして敗れ去り、一族もろ共に首を打たれた。

立身栄華を絵で描いたような仲麻呂の59年の生涯は、また「策士策に溺れ、
才子才に倒れる」の喩えどおりの生涯でもあった。

三尾崎は琵琶湖北湖の静かな御崎である。

   


      にほの海や霞みてくるる春の日に
                  渡るも遠し瀬田の唐橋

                                 (藤原為家 新後撰和歌集)


琵琶湖の旅-堅田内湖

2014年01月12日 | 琵琶湖の旅

          堅  田  内  湖

堅田内湖は琵琶湖に残る23の内湖の一つである。

    

見かけはただの池のように見えるが、歴とした琵琶湖の内湖で、琵琶湖とは今も水路
で繋がっている。

     

琵琶湖に棲息する固有種の宝庫とされているが、ここでも外来種の繁殖は著しく、棲息
する固有種は次第にその数を減らしてきている。
現在は淡水真珠の養殖も行われている。

   

レンズを向けると、肉眼では捉えられない内湖独特の幽玄な世界がファインダーの
中に広がる。


    

内湖のすぐ近くに勾当内侍を祀った神社がある。

勾当内侍は後醍醐天皇に女官として仕えていた女性で、後に新田義貞の妻となった。
後宮一番の美貌だったといわれる。

新田義貞は鎌倉幕府を滅亡に導き、後醍醐天皇に重く任じられたが、やがて足利尊氏
と反目し、転戦の後、越前の藤島で敗死。

   

義貞敗死後の勾当内侍については諸説あるが、土地の言い伝えによると、内侍は転戦
する夫のあとを追って堅田まで来たが、夫の敗死を知り、悲しんで堅田の琴ヶ浜に入水、
その亡骸は村人の手によってこの地に葬られた。その御霊を祀るため後に建立されたの
がこの野神神社で、今もその命日には村人によってお祭りがおこなわれている。

源平の争乱によってその幕を切った中世の時代は、武士と武士が互いに覇権を巡って
相い争い、そこで流される血によって歴史が動いた。そして、勝者の驕りの陰に、多くの
敗者の悲話が残された。


          人は利剣(つるぎ)を 振るへども
        げにかぞふれば かぎりあり
        舌は時世(ときよ)を のゝのしるも
        声はたちまち 滅ぶめり

                   (島 崎 藤 村   秋風の歌)
           
           


琵琶湖の旅-長命寺

2013年12月29日 | 琵琶湖の旅

 

          長   命   寺

長命寺は近江八幡市の湖岸に半島のように山裾を延ばす長命寺山の山腹に
建つ観音霊場の古刹である。

  

第12代景行天皇の時代に武内宿禰がこの地の柳の樹に「寿命長遠所願
成就」と刻み、長寿をを祈願したことに始まり、後に聖徳太子がここに堂宇を
建立したと伝えられる。
参拝すれば長生きすると言い伝えられ、古くから長寿祈願の観音さんとして
衆庶に親しまれてきた。

  

平安の昔から西国札所詣りの巡礼は、竹生島の宝厳寺に詣で、その船で
長命寺へと参拝したと伝えられる。
本堂へは湖岸から808段の石段を登る。

  

境内には観音霊場に相応しい古色蒼然とした檜皮葺の堂宇が建ちならぶ。

  


境内から見下ろす琵琶湖は静寂で、遙か補陀落世界を眺めるように美しい。

  


      西国十番 長命寺
      汚れの現世(うつしよ)遠く去りて
      黄金の波に いざ漕がん
         語れ我が友 熱き心

                            (琵琶湖周航の歌)


琵琶湖の旅-その時々の表情

2013年06月01日 | 琵琶湖の旅

        そ の 時 々 の 表 情

笑顔の美しい女性は幸せになる。
泣き顔の美しい女性はほんとうの美人である。
などと、人は他人の貌を色々と取りざたするが、
琵琶湖もまた、季節により、天候により、そして時の移ろいととともに
様々にその表情を変える。
それはまた、見る人によって違って見えたりもする。

いつもは穏やかな琵琶湖も、

  

時にはやや不機嫌さを見せたり、

  

淋しさを浮かべたりするし、

  

悲しみを湖面に湛えたり、

  

逆に取り澄まして見せるともある。

  

そして、時には白露の涙を見せたりもする。

   

      やよ和め
       吹くな寄するな
            鳰の海
                   汝(なれ)が磯辺を
                 いま発ちぬれば