忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

飛鳥の里に秋の訪れを告げる季節の花々

2017年09月27日 | 大和路散歩
起伏が多い飛鳥の里は何処を歩いても目の前に広がるのは棚田の景色である。





この季節、飛鳥の棚田はどの田面も秋の稔りで稲は黄金色の穂をたれ、畦には彼岸花が季節の彩りを添える。






胸を突くような急な棚田もあれば、緩やかな斜面に広がる棚田もある。
比較的なだらかな平地にある飛鳥寺周辺も、





季節の花々が田の稔りに秋の彩りを添える。






小高い岡に建つ橘寺周辺も、





そして、川原寺周辺の田も





飛鳥の里は何処も、





秋は今正にたけなわである。

花の古都-春の藤原京跡

2017年04月21日 | 大和路散歩
春4月が訪れると藤原京蹟がぐっと華やいでくる。





国の特別史跡となっている藤原宮跡の北に位置する醍醐池の北一帯、かつての藤原京の北部に桜と菜の花が満開となるのである。





4月の10日前後が見頃である。





醍醐池の池塘の桜が満開するのと時季を同じくし、菜種畑の菜の花も満開し、夢の世界を繰り広げる。





国の特別史跡に指定されているかつての藤原京の中心部は、季節季節にいろいろな花が開花するが、こんなカラフルな時季はこの春を置いてない。






西には畝傍山が、





北には耳成山が、菜種の花の中に浮かんで見える。





藤原京は持統、文武、元明三代の都がおかれた地で、





香具山、畝傍、耳成の大和三山をその都域に含み、平城京、平安京を凌ぐ規模があったといわれるこの都で、白鳳文化は花開いたのである。


大和の古刹-當麻寺

2017年02月18日 | 大和路散歩
平城京の南西、奈良県葛城市当麻の二上山は古代の人々から特別の思い眺められてきた。
人々は三輪山から昇る日輪の恵みをうけて日々を営み、日没の頃、二上山の雄岳、雌岳の谷間に沈みゆく日輪に手を合わせることでその日の営みを終えた。
沈みゆく夕陽の先には西方浄土があると信じられいたのである。





「ふたかみやま」の名で万葉にも詠まれた二上山はその浄土の入り口にある神聖な山で、その二上山を背にして建つ當麻寺もまた浄土へ祈りの寺であった。





創建は古く、伝によると推古天皇二十年(612年)に用明天皇の皇子麻呂子親王が河内の国に建てた萬法蔵院禅林寺を、天武天皇の白鳳十一年(681)に麻呂子王の孫の當麻国見が当麻の地に移し、當麻氏の氏寺としたのがその起こりだされており、白鳳・天平様式の伽藍を有し、白鳳美術を今に伝える奈良でも有数の古刹である。





境内の南の高みに奈良末期の東塔と平安初期の西塔の三重塔(いづれも国宝)を、その北に本堂、金堂、講堂、などの諸伽藍が独自の配列で建てられている。





當麻氏の氏寺として創建された當麻寺は中世以降は中将姫伝説と當麻曼荼羅で広く知られるようになった。





中将姫は藤原豊成の娘といわれ、幼い時期に母親を失い、継母の苛められる不幸な境遇で育ち、若くしてこの寺で髪をおろして出家したと伝えられる。





本殿に祀られている當麻曼荼羅は中将姫が出家後に五色の蓮糸をもって一夜で編み上げたと伝えられる浄土曼荼羅である。





弥勒菩薩の寺として発足した寺だが、金堂に祀られている弥勒菩薩よりも本堂(曼荼羅堂、国宝)の當麻曼荼羅がこの寺の本尊のようになっている。




もともとは三論宗を奉じていたが、平安期に真言宗となり、鎌倉時代にさらに浄土宗が加わり、現在はこの二宗並立の寺院となり、諸伽藍はこの二宗によって管理されており、當麻寺としての独自の伽藍はない。





最盛期には三十一房の僧坊を有したといわれ、現在も13の僧坊を残す大和の古刹として今もその法灯を伝えている。


  うつそみの 人なる我や 明日よりは
   二上山(ふたかみやま)を 弟(いろせ)と我が見む
(万葉集巻2 大伯皇女)

斉明天皇の時、謀反の疑いを受けて処刑され、二上山の雄岳に葬られた有間皇子を悼み、姉の大伯皇女が詠んだ和歌である。
 

大和路散歩-安倍文殊院

2016年12月16日 | 大和路散歩
奈良県桜井市安部山にある安倍文殊院は文殊菩薩の霊場として知られている。
日本三文殊霊場の一つで、知恵授け、魔除け、災難除けの祈祷の寺として広く知られている。





その創建は七世紀に遡り、大化の改新で左大臣に任じられた安倍倉梯麻呂が安倍氏の氏寺として創建したと伝えられる。





安倍氏はこの地に勢力があった豪族で、奈良時代に遣唐使で唐に渡り、帰還を果たせないまま唐土で亡くなった安倍仲麻呂や、平安時代に陰陽師として活躍した安倍晴明はこの寺で出生したといわれる。
このため、この寺は陰陽道の総本家でもある。





本尊は知恵の菩薩といわれる文殊師利菩薩で、鎌倉時代の仏師快慶の手になり、国宝指定を受けている。
獅子背の蓮華座に半跏する独特の像で、合掌すれば知恵を授かるといわれる。





金閣浮御堂霊宝館は安倍仲麻呂と安倍清明を祀る堂で、その回廊を七回廻り七枚の御札を納めると七難を払うといわれる。






境内には被葬者が安倍倉梯麻呂と伝わる国指定特別史跡の西古墳があるほかに国指定史跡の二つの古墳がある。


大和路散歩-談山神社

2016年12月08日 | 大和路散歩
明日香を眼下に見おろす多武峰、
その頂に建つ談山神社は、大化元年(645年)、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が大化の改新の談合した所として知られている。





二人は法興寺の蹴鞠の会で知りあい、藤の花の咲く頃、ここで極秘の談合をし、大化の改新を断行したといわれる。





神社の創建天武天皇7年(680年)、鎌足の長男、僧定恵が摂津の安威に葬られていた鎌足をこの地に移して十三重塔を建てたのが発祥だと伝えられる。





明治までは多武峰妙楽寺と呼ばれる寺院で、明治の神仏分離によって現在の談山神社となり、別格官幣大社に列した。
祭神は中臣鎌足である。





多武峰は大化の改新の談合が行われた峰として「談(かたらい)山」「談所の森」などと呼ばれており、談山神社の名もそれに由来する。





藤原氏の繁栄と共に寺は栄えたが、同じ藤原氏創建の寺でありながら興福寺とはそりが合わず、鎌倉時代から室町にかけて所領を巡って興福寺側と兵戈を交えた歴史もある。





神社なのに寺院形式の伽藍を残しているのは長く寺院であった歴史に由来する。
本殿、その他の主要伽藍は朱塗りで極彩色の彫刻が施されており、日光東照宮の造営の際にその手本とされた。





木造檜皮葺十三重塔は、定恵が創建した十三重塔に由来し、この神社のシンボル的な存在となっている。
木造檜皮葺の十三重塔は国内外を含めこの塔が唯一で、戦前に何度か日本銀行券の図案となったことがある。
現在の塔は享禄5年(1532年)の再建になるものである。





初冬を迎えたこの時期、神域はカラカラと落ち葉が舞い散り、静寂そのものである。

晩秋の平城宮跡

2016年12月02日 | 大和路散歩
平城宮跡は小野老が、

 青丹よし奈良の都は
     咲く花の にほふがごとく今かりなり  
           (小野老 万葉集3-328)

と詠んだ平城京の、政治的な中枢部(内裏及び諸官衙)があった大内裏の跡地である。





平城京は和銅3年(710年)に元明天皇が藤原京から奈良へ都を移してから和銅3年(710年)に桓武天皇が長岡京へと遷都する延暦3年(784年)まで、延べ74年間、都が置かれていた。





天皇を頂点とする律令支配の下で法治による集権国家を目指した奈良朝はそのわずか70年余の短い歴史の中で4代(3人)の女帝が玉座についた「女帝の時代」とも呼ばれている。





そのわずか70年余のたまゆらの都は律令国家の理想とは裏腹に、政治は皇孫と貴族、貴族と貴族の権力を巡る熾烈な争いや、呪詛、陰謀、疫病の蔓延など、不安定な政情続きで、末期には僧の道鏡が女帝に取り入って権力をふるうなど、多難の歴史の中で終わりを迎えた。





政治の中心が平城京から長岡京へ、長岡京からさらに平安京へと移るにつれ平城京は日増しに荒廃してゆき、年月を経るにつれて跡地には雑草が生い茂り、あるいは田畑と化し、いつしか内裏のあった場所すら特定できないようになっていったといわれる。





明治、大正、昭和と長年にわたり何人かの研究者の努力で少しずつ明らかにされていった大内裏の場所は戦後になって奈良文化財研究所を中心とする調査でようやく正確な位置と範囲が確定し、現在、文化庁ににより遺跡の整備と建造物の復元が行われている。





訪れる度に復元工事でかつての宮廷の姿が再現されていくのに驚かされるが、同時に、かつて八重葎が生い茂り荒涼とした跡地でのんびりと昼寝をしたり、酒盛りをしたりしたりしていた頃の開放感を懐かしく思ったりもする。





でも、かつての荒涼としていた跡地がいにしえの宮廷の姿へと様変わりしても、それを取り巻く周りの自然が季節の移ろいに合わせて衣替えしていく様子はかつての八重葎の頃と変わりがない。





今その平城宮跡は晩秋から初冬へと少しずつその装いを変えつつある。






南都法華寺

2016年11月30日 | 大和路散歩
奈良市法華寺町の一画に建つ法華寺。





南門脇の石柱に「総国分尼寺 法華滅罪之寺」とあるように、かつては大和国分尼寺であり、かつ諸国に建てられた国分尼寺の頂点に位する総国分尼寺としての重責を担う寺院であった。





聖武天皇が天平13年(741年)に出した「国分寺造立の詔」(天平13年(741年))により平城京(大和)には総国分寺金光明四天王護国之寺(現在の東大寺)が、そして総国分尼寺法華滅罪之寺としてこの法華寺が建立されたのである。





ここはかつて藤原不比等の邸宅のあった地であり、不比等の死後は三女の光明子がこれを相続し、光明子が聖武天皇の皇后として入内後は皇后宮がここに置かれた。
この皇后宮の地に総国分尼寺を建てることは光明皇后の強い願いからと言われている。





現在は本堂、護摩堂、鐘楼などわずかな伽藍のみのこじんまりとした寺院にすぎないが、往時は金堂、講堂、中門、東西両塔、南門などを有する南北三町、東西二町の寺域を有する大きな寺院であった。





平安遷都後は衰微していったが、光明皇后が開基とされている由来から長く門跡寺院とされ、現在も法華寺門跡と呼ばれる。





境内には光明皇后が1000人もの病者の背中を流したといわれる浴室(からぶろ)が保存されている。





また法華寺庭園(華楽園)は国指定の名勝とされている。

壺阪山南法華寺(壺阪寺)

2016年10月28日 | 大和路散歩
万葉のふる里、大和三山に囲まれた明日香の里の、さらに南に位置する壷阪山の山中に建つ千手観音の寺である。
壺阪寺の名で知られている。





創建は大宝三年(703)といわれるから古い寺歴を有する寺である。
境内からは白鳳期の瓦が多数出土している。





仁明天皇の承和4年(847)年に定額寺に列せられている。





平安時代には観音霊場として大いに栄え、最盛期には山内36堂60余坊の伽藍を有したといわれる。
真言宗の単立寺院である。





本尊は千手観音であるが、現在、八角円堂(本堂)に座する千手観音座像は室町期のものである。
眼病に御利益のある観音様として広く信仰を集めている。





明治になって人形浄瑠璃の「壺坂霊験記」が演じられるようになり、主人公の座頭沢市と女房お里が観音様の霊験で救われた物語の舞台となった寺として広く全国に知れわたった。





社会福祉活にも積極的で境内には日本最初の養護盲老人ホーム「慈母園」があるほか、インドでハンセン病患者救済などの国際奉仕活動進め、





境内にはインドから送られた大釈迦如来座像(壺阪大仏)や大観音石像など多くの石像仏が祀られている。

白鳳のなごり-藤原宮跡

2016年10月26日 | 大和路散歩
藤原京は唐の都制にならって造られた日本で初めて本格的な都で、持統天皇が694年に飛鳥浄御原宮からこの地に都を遷してから持統、文武、元正と三代16年間にわたって都がこの地に置かた。





後に白鳳時代とよばれる白鳳文化はこの藤原京を中心として花ひらいたのである。





周囲を大和三山にかこまれたこの都はその広さ10里(5.3キロ)四方ともいわれ、後の平城京や平安京をしのぐ古代最大の都であったといわれている。
内裏をはじめ大極殿、清涼殿、朝堂院など、中心的官衙はこの藤原京の中心部の約1キロ四方の地に置かれ、後に藤原宮と呼ばれるようになった。
この藤原宮跡は現在も調査が続けられると共に、その跡地は四季の花が植えられ、この古い都を訪れる人々に憩いを提供している。





かつての宮域は春の菜の花を始めとし、ツツジ、アジサイ、睡蓮、蓮、菊、コスモス、雪柳など、季節季節の花々が花開き、季節の彩りと楽しみを教えてくれる。

秋のこの季節、藤原宮跡はコスモスの花が咲き乱れ、訪れる多くの老若の目を楽しませている。





藤原京は元明天皇が和銅三年(710年)に平城京へ遷都し、世は天平文化の時代へと移り、白鳳の時代はその短い栄華の歴史を閉じた。

しかし、その跡地に咲き乱れるコスモの花の中に佇み、
東に目をやると大和三山の天の香具山が、





西には畝傍山が、





北には耳成山が、
白鳳人が目にしたであろうそのままの雅な稜線を見せてくれている。





葺き替えられた拝殿の屋根~夜都伎神社

2015年12月02日 | 大和路散歩
天理市乙木町にある夜都伎神社、





小さな神社だけれど何故か心を引かれる、
そう書いたのは今年の5月13日のブログだ。





拝殿は屋根の萱が朽ちて苔生し、
少し痛ましげだった。





その屋根が葺き替えられ、新しくなった。





屋根だけが新しくて拝殿の前に立つと少し落ち着かない。
周りとしっとりなじんでくるのはいつ頃だろうか。





乙木町は石上神社から南へ少し歩いた所にあり、
竹ノ内集落と隣接している。





かつては興福寺大乗院や春日大社との縁が深かった神社である。





龍王山の北西麓に位置し、西に遠く二上山を、遙か南に葛城山や金剛山を、そして場所によっては南に遠く大和三山を望む。