忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

歴史を歩く-西行終焉の寺

2018年05月31日 | 歴史を歩く
西行がその晩年を送った寺、それは大阪府南河内郡河南町弘川43にある弘川寺である。
人里遠い金剛山の山麓に建つ山寺である。





出家後、西行は日本各地を転々と旅して過ごしたが、晩年の文治5年(1189年)、この寺に入った。





寺は天智天皇の四年に役行者によって建てられたと伝えられる。
大阪府史跡の指定を受けた府内随一の古刹霊場である。





境内には本堂のほか御影堂、護摩堂、西行堂、西行記念館などがあり、西行の墓の東に約3,5ヘクタールに桜の木が殖樹された桜山がある。





 出家後、西行は各地を転々とし、その最晩年を人里から遠い離れた山中のこの山寺で送り、建久元年(1190年)この寺で73年のその生涯を閉じた。
その亡骸はこの寺の墓にに葬られた。
西行の没後境内に西行堂が建立された。


「ねがわくは 花の下にて春しなむ 
  そのきさらぎの望月のころ(山家集)」

と、詠んだ西行はその願いとおり、
建久元年陰暦2月16日にこの寺の花の下でその波乱の生涯を閉じたのである。





西行記念館には西行にまつわる資料が展示されている。

瓶原(みかのはら)(5)

2016年05月09日 | 歴史を歩く
瓶原の恭仁京を語るとき、触れない訳にはいかない今一つの出来事がある。
それは安積親王の死である。





安積親王は神亀5年(728年)に聖武天皇の第二皇子としてに生まれた。
母は県犬養広刀自で、第一皇子の基皇子(母は光明皇后)は誕生を待たずして亡くなっているから、事実上、聖武天皇の唯一の皇子であり、周りから強く次の皇位を期待されていた。





ところが、その期待は裏切られ、男子の安積親王をおいて藤原氏の強い後押しで姉の阿倍内親王(母は光明皇后)が立太子を果たした。
しかし、周りでは尚も女帝を中継ぎとするその後の皇嗣は安積親王とする期待を失っていなかった。





聖武天皇は天平16年(744年)に安積親王を伴って恭仁京から難波宮へ行幸した。その旅の途上、安積親王は桜井頓宮で病を理由に恭仁京へと引き返した。





難波宮の聖武天皇の許に安積親王の訃報が届いたのは、そのわずか二日後であった。
恭仁京の留守を託されていたのは、その頃、頭角を現しつつあった南家の藤原仲麻呂であった。
表向きの死因は脚気の悪化とされているが真偽の程は疑わしく、周りは安積親王は仲麻呂によって毒殺されたとひそかに噂し合った。
そこには聖武の外戚となった藤原氏と藤原氏の専横を心良しとしない橘、県犬養、大伴などの安積親王側の氏族との政治的な確執があった。




安積親王の亡骸は邸のあった恭仁京の活道の岡から4キロも北に入った和束白栖の杣山に葬られた。
塚山の麓の道は東へあと数キロで信楽へと通じており、西には峰一つ隔てて橘諸兄の相良の別邸と向かい合っている。

親王の薨を悼み大伴家持は詠んだ。

 我が大君 天(あめ)知らさむと 思はねば
           おほにぞ見ける 和束そま山
                     (万葉集巻3-476)






噂は政治の流れの中で闇に葬られ、その後間もなく、親王の菩提を弔うため、行基によって和束川を隔てた向かいの小高い岡に正法寺が建立された。

安積親王の死後、阿倍内親王の即位(孝謙天皇)と、孝謙天皇の庇護のもとでの藤原仲麻呂の専横、そしてやがて政治の舞台に道鏡が登場し、天平の御代は律令というあるべき方向を見失って迷走し短い歴史の幕を閉じた。





安積親王は今も長い眠りの中で白栖の太鼓山の頂から無常の世の移り変わりを静かに見おろしている。

鳥羽離宮(7)-陰の院政

2012年12月13日 | 歴史を歩く

             陰の院政-美福門院

美福門院得子は鳥羽院の崩御4年後の永暦元年(1160)白河
押小路殿で崩御した。
遺骸は、その翌日、鳥羽離宮の東殿(安楽寿院)で荼毘にふされ、
御骨は本人の遺言で高野山へ葬られた。

   


美福門院は、院の近臣の藤原長実の娘で、摂関家の出てはない
得子が皇后に迎えられたのは、ひとえに鳥羽の寵愛あってのとで
ある。
美福門院は、その寵をたのみ、後宮にあって鳥羽院を思うがまま
にあやつり、陰で院政を自らの思うがままにした。
自ら子を皇嗣とするため、崇徳上皇の院政への途を閉ざし、皇位
の第一順位の継承者とみられていた崇徳の子重仁を退け、自ら
が産んだ近衛天皇を即位させたのも、摂関家にあって、時の関白
忠通と弟の頼長とが摂簶の座を巡って争う中、呪詛事件をしたて
あげて頼長を退けたのも、種こそ違え兄弟である崇徳院と鳥羽院
との仲を裂き、その対立をことさらに煽り立て、保元の乱へと導い
たのも、すべて陰に美福門院があってのことだといわれる。

安楽寿院の新御堂は、美福門院の稜を予定して造られたもので
あり、それが鳥羽院の遺志であったことは明かである。
なのに、美福門院は、なぜその新御堂の石槨に入るのを拒み、
御骨を高野山に葬れと遺言したのだろうか。

遺骨を高野山へ葬ることには、導師をつとめた天台僧から強い
反対があったし、院の中にも反対する意見が強かったといわれる
が、結局は、本人の遺言に背くことが出来ず、遺骨は高野山へと
送られた。

   

高野山は明治5年に禁制が説かれるまで、厳しい女人禁制の
聖地であった。
高野への道は七口、そのそれぞれの結界に女人堂が設けられ
ていた。

    

女人禁制の世、高野にお参りする女人は、その結界から一歩
たりとも中へ踏み込むことが許されず、

   

女人堂から遙か遠く、壇上伽藍に向かって手を合わせたと
いわれる。
鳥羽院の陰で権勢を振るった美福門院も、生きている間は、
高野山の七葉蓮華の密言浄土に、

    

その足を踏み入れること、遂にかなはなかった。

    


出家するまで、北面の武士として鳥羽院に仕えていた西行法師は、
高野山にあって、美福門院の御骨を迎え、
そして詠んだ。

   今日や君
                 おほふ五つの雲はれて
            心の月をみがき出づらむ
                                           (山家集)

我が子、我が身を思う心のあまりの強さから、
時の政治を、それを取り巻く社会を、そして時代という歴史の
ページまでを振り回した、美�・門院得子という、一人の女性の、
人となりを、一番よく知っていたのが、若くして世の無常を悟り、
妻も子も、家も家門も投げ捨てて出家を遂げた、一法師、西行
ではなかったろうか。

歌に詠まれた「五つの雲」は、本来は女人が生れもつとされる
五の障りを指すが、
ここでは成仏のさまたげとなる煩悩を意味している。

 「君おほふ五つの雲」
  が、命つき御骨となった今は消えて無くなり、
 「心の月をみがき」
  曇りのない清らかな心に生まれ変わったのですから、
  今ならきつと成仏できますよと、

そう詠んでいるように、
私には思える。

今、美福門院は、 
高野山の不動院の境内の奥まった一画の、

   

鳥羽天皇皇后得子高野山稜の、

       

小さな五輪塔の下で

   

弔う人とて稀な静寂の中をひっそりと眠っている。

美福門院が入るはずであった安楽寿院の新御堂には、
長寛元年(1163)、先に崩御し洛北知足院に安置されていた
美福門院の子の近衛天皇の御骨が納められた。

近衛天皇の安楽寿院南稜である。

   


鳥羽離宮(6)-迷いを生きた人間鳥羽

2012年12月02日 | 歴史を歩く

                                        
   迷いを生きた人間鳥羽

鳥羽天皇は嘉承2年(1107)7月、わずか5歳で即位した。
白河上皇の院政下で、意のままになること何一つとしてなく、
加冠の後も白河院が崩じるまでは、風流韻事に日を送る
ほかなかったといわれる。
祖父の白河上皇からあてがわれた皇后の璋子(後の待賢門院)
は、藤原公実の女で、白河院はこれを自らの猶子とし、祇園女御
に育てさせ、長じて後は自らの閨に侍らせた、白河院お手つきの
女で、入内後に7人の子をなしているが、いずれもその父親は疑
わしいといわれるほど多情な女であった。
中でも、第一皇子の顕仁親王(後の崇徳天皇)は白河院の胤で、
それが後に保元の乱の火種となったことは古記のこぞって記す
ところである。
鳥羽は、保安4年(1123)、崇徳天皇に位を譲って上皇となり、
白河院崩御後の大地4年(1123)に院政を開始し、保元元年
(1156)に薨じるまで、33年にわたって院政に君臨し続け、
その間、藤原泰子(光陽院)、藤原得子(美福門院)と、
その生涯に3人の皇后をもった。

美福門院は、鳥羽が強く望んで入内させた寵妃で、他に比類なき
美貌の持ち主であったといわれるが、低い出自の自らの子を帝位
につけるため、鳥羽院の陰で様々な奸智を巡らせて夫を思うが
ままにあやつり、白河院が播いた皇胤を巡る争いの種を、保元の
乱へと燃え上がらせる陰の火元となったといわれる。

万機を統べる身にありながら、後宮の容色に溺れ、民、衆生の幸
せを願う心乏しく、自らの来世を祈願するための堂塔伽藍の建立
に院の富を湯水する、その恣な生き方は、煩悩に生きる凡下その
ままの迷いの生涯というべきものであった。

      

鳥羽離宮東殿の院御所で、病床に臥した鳥羽院は、その枕辺
で詠んだ。

  つねよりもむつまじきかな時鳥
           しでの山路の友とおもへば
                  (千載和歌集)

その心は、自らは安楽寿院の本御堂で、愛する妻の美福門院は
新御堂で、隣り合って共に眠り、次の世まで睦みたいとの思いが
あったであろう。

   

北面の武士佐藤義清として鳥羽院に仕え、若くして世を捨て、
一法師となって歌の道に生きた西行は、安楽寿院の通夜の筵で、
かつての主上を弔いつつ夜を明かし、詠んだ。

  今宵こそ思ひしらるれ浅からぬ
             君に契りのある身なりけり

  道かはるみゆきかなしき今宵かな
             限のたびとみるにつけても

    とはばやと思ひよりてぞ歎かまし
             昔ながらの我身なりせば

                                         (いずれも山家集)
          
   

美福門院は鳥羽院の卆後4年を生きたが、鳥羽院が造った
美福門院のため墓所、新御堂には入らずして、自らの希望で
高野山に葬られた。

皇譜に産まれ、汚れに染まぬ深窓に育ち、身は煩悩のまま
に生きた人間鳥羽は、仙境に入って後に愛した妻に見すてら
れ、今、一人淋しく安楽寿院稜に眠る。

   


鳥羽離宮(5)-安楽寿院

2012年11月26日 | 歴史を歩く

                                               
        安楽寿院

安楽寿院は、鳥羽上皇が保延3年(1137)、鳥羽離宮の東殿に
御堂を建てたのが始まりで、その2年後の保延5年(1139)に
本御塔が建てられた。
安楽寿院の名は、その頃から使われるようになった。

   

本御塔は、鳥羽天皇が自の陵墓を予定して建てたもので、地下
に石室が設けられ、地上には三重塔が建っていたといわれる。
鳥羽上皇は、保延7年(1141)に出家して法皇となり、保元1年
(1156)に薨じるが、その遺志により、その夜、荼毘に伏される
ことなく、この本御塔の地下の石室に埋葬された。
現在は、鳥羽天皇安楽寿院稜として、宮内庁の管理に移され
ている。

安楽寿院の本尊である阿弥陀如来座像は、もともと本御塔の
三重塔に祀られたものだとされる。

   

安楽寿院は鳥羽法皇、皇后の美福門院、皇女の八条女院の
菩提を今も弔う。

書院、庫裏は寛政年間のものである。

   

鐘楼と阿弥陀堂

鳥羽離宮の南殿には、この阿弥陀堂とは別に、現在の新城南宮
道の南に丈六の阿弥陀仏九体を祀る九体阿弥陀堂があったこと
が発掘調査で確認されている。
現在、九体阿弥陀堂は、当尾の浄瑠璃寺に唯一残っているが、
そこにある九体阿弥陀は、中心に座す一体のみが丈六仏で、
残る八体は小さめの阿弥陀仏像である。それとの比較からして、
残っていれば巨大な建物であったと推定される。
同じような九体阿弥陀堂は田中殿にも存在していたことが分かっ
ている。いずれも鳥羽上皇の時代に造られたものである。

    

大師堂

   

三宝荒神社

   

現在の本御塔は宝物の収蔵庫となっている。

   

冠石
鳥羽上皇が出家、授戒したとき、その冠を埋めたと伝えられる。

   

五輪石塔
弘安5年(1257)の銘が残る。

     


鳥羽離宮(4)-北向不動院

2012年11月24日 | 歴史を歩く

  北向不動院

山号は北向山

   

大治5年(1130)鳥羽上皇の勅願により、興教大師(覚鑁)に
よって鳥羽離宮の東殿のほぼ現在の位置に創建された。

   

興教大師(覚鑁)は高野山の僧で、新義真言宗の開祖。
鳥羽上皇の帰依を受け、大伝法院を開き、金剛峯寺の座主を
兼ねたが、一山の反対を受けて紀州根来に下り、根来寺を開
いた。

本堂は北向に建つ。
本堂の本尊は不動明王で重文。
覚鑁が仏師康助に刻ませ、王城鎮護のため北向きに安置し、
これにより鳥羽上皇から北向不動院の寺号を賜ったと伝えら
れる。
本尊は秘仏とされ、毎年、鳥羽天皇の誕生日の1月16日に
催される採灯護摩共で開披される。 

   

応仁、文明の乱で兵火に遭ったが、本尊は残り、近世に再建
された。

   

境内には諸仏が祀られている。

   


鳥羽離宮(3)-城南宮

2012年11月22日 | 歴史を歩く


          城 南 宮

城南宮は、もと式内社の真幡寸神社だといわれ、平安京の南に
南に位置したことから、城南の宮と呼ばれ、都の守神として崇め
られるようになった。
それが鳥羽離宮の馬場殿の一部として取り込まれ、鳥羽離宮の
守護神として城南宮と呼ばれるようになった。

   

明治になってから、延喜式内社の「真幡寸神社」の社名で呼ば
れるようになったが、昭和43年に「城南宮」の名に復し、真幡
寸神社は境内の一部に摂社として祀られるようになった。

   

国常立尊、八千矛神(大国主命)、息長常日命(神功皇后)を
主祭神とし、ほかにも多くの神々を祀る。
古くから方徐け、厄除けの神社とされ、熊野詣では、まずこの
神社へお参りし、身清めをして旅だったといわれる。
江戸末期、公武合体で和宮が将軍家茂に降嫁する際も、この
神社へ詣でてから江戸へと下ったといわれる。

拝殿

   

   

祈祷殿、

   

いろいな祭りが行われており、境内には御輿、祭具が奉じられ
ている。

   

とばの森と呼ばれた神苑(落水苑)は、春の山、平安の庭、室町
の庭、桃山の庭、離宮の庭など、時代、時代に即した庭造りの
工夫が凝らされ、季節、季節の花や木々の緑、そして庭園の妙
が楽しめる。

   

平安の庭では、毎年5月と11月の2回、曲水の宴が催され、
王朝貴族そのままの衣装を纏った殿ばら姫君らが、汀に座し、
遣り水を流れ下る盃を待つ間に一首をものし、色紙に記す。
終えればまた次の人が盃を待って歌をものす。
皆が詠みおえた所で、場所を移し、別宴で歌を披露し合う。
王朝の世さながらの風雅な宴が行われる。

   

一つ一つの庭園を、

   

丁寧に見て廻っていると、

   

時を忘れる。

    


 


鳥羽離宮(2)-鳥羽離宮公園

2012年11月17日 | 歴史を歩く

       鳥羽離宮公園~南殿跡

白河天皇は、摂関政治が確立後、初めて外舅をもたずに親裁に
よる王朝政事を復活させた後三条天皇の第一皇子である。
延久4年(1072)に後三条を嗣いで即位し、応徳3年(1086)、
位を子の堀河に譲って退位し、院政を開始した。
以後、堀河、鳥羽、崇徳の三代の天皇の御代の43年間、上皇
あるいは、法皇として院政を行った。

院政開始後の白河は、意に叶わぬはただ「加茂の水、双六の賽、
御輿振り」(平家物語)、「天下の政は、この人の一言にあり云々」
(永唱記)などとある如く権を振るい、法勝寺の法会を雨が妨げた
として雨水を器にとり獄に晒したという逸話まで伝えられている。
その一方で、石清水に捧げた告文に「王法は如来の付属により、
国王に興降す」と自ら記した如く、仏法を敬い、白河の法勝寺を
始め多くの寺を建立し、度々神仏に詣で、自ら丈六仏を刻んだ
とも伝えられる。

その白河が京の白河に嘉保2年(1095)に開いた白河南殿の
院御所に飽き足りず、鳥羽の地に開いた院御所が鳥羽離宮の
南殿である。

白河が開いたこの二つの院御所の建物は、今は共に失せ、
白河南殿はその跡地が鴨東運河(琵琶湖疎水)の夷川舟
溜りとなり、

    

鳥羽離宮南殿跡は鳥羽離宮公園として庶民の憩いの場と
なっている。

    

発掘調査の結果、跡地の一部から雁行形にならぶ幾棟かの建物
の跡が見つかっている。


    


晩秋の今の季節、公園の樹々は寒々と紅葉し、

    

憩いを求める人影もない。

    

公園の北部にある小高い丘は、南殿庭園の「秋の山」の跡だと
いわれる。

    


この鳥羽離宮の南殿で、そして白河の南殿で、「三千の寵愛を
独り占めにした」といわれるほどの艶福を示し、外にも女を囲っ
ては御幸し、下司の淫らさながらの女色に耽り、寵姫が子を孕
めば、それを臣に下げ渡したといわれる。
平家物語が綴る、上皇の種を宿した祇園女御を平忠盛へその
妻としてげ渡し、生まれれた子が平清盛だとする物語も、
歴史の表には伏せられた、上皇の日々の公然の乱脈が語らせ
たものであろう。

上皇白河が愛した鳥羽離宮の南殿は賀茂川の水を引き入れた
大きな苑池と庭園を戴き、夏には池に船を浮かべ、近臣、客人
らに囲まれての管弦の宴で盃を酌み交わし、紅葉の頃には
「秋の山」の頂で紅葉を愛で、歌を詠んだであろうが、
今はそこに人影もなく、

    

峯に上れば風に舞う落ち葉がカラカラと耳に痛い。

上皇白河に始まる院政という、律令の世でありながら、上に二人
の万乗を戴く、その歪な政治の形態が必然的にもたらす権力や
名利を巡っての、醜い争いの負の巨大なエネルギーが、その捌
け口を求めて噴出したのが、保元の乱であるが、その裏には、
歴史の表には出ない、上皇白河の人倫に悖る恥ずべき秘話が
あった。

上皇白河は権大納言藤原公実の娘の璋子を自らの猶子とし、
可愛がったが、璋子が長じて後は自らの閨に入れて愛し、鳥
羽天皇の許に入内させてからもそれは続いた。
鳥羽天皇の皇后として璋子(待賢門院)が生んだ顕仁親王は、
実は上皇白河の子であった。
若くして皇位につかされた鳥羽も、この事実は知っており、か
ねてから皇統の上では自らの皇子である顕仁を「叔父子(祖
父白河が皇后璋子に産ませた叔父にあたる子)」と呼んで疎
んだ。
上皇白河は、鳥羽を21歳で譲位させ、顕仁を即位させた。
崇徳天皇である。
白河が崩じて後、上皇の鳥羽は、崇徳を22歳で譲位させ、
崇徳の子の重仁親王の即位を阻み、自らの皇后得子(美福
門院)が産んだ3歳の近衛天皇を即位させ、崇徳の院政へ
の道を閉ざした。

皇統にまつわる肉親と肉親の醜い争いが、摂簶の座をめぐる
摂関家の争いや、権門勢家の名利の争いとが複雑に絡み合
い、保元の乱が起きた。
源義朝らの率いる内裏方から、白河北殿に籠もる崇徳上皇方
へ、一の矢が放たれたのは、保元元年(1156)7月11日の
未明のことである。

父子、兄弟、肉親が敵味方に分かれ争った保元の乱は、弘仁元年
(810)の薬子の変から300年余も停止されていた死刑を復活させ、
子が父を、甥が叔父を、肉親が肉親を斬首して処刑し、加茂の水を
朱に染め、敗れた崇徳上皇は讃岐に流された。


時代は下り、慶応4年(1868)正月3日、錦旗を掲げる薩摩藩軍と、
慶喜が率のひきいる幕府軍とが、鳥羽離宮跡から城南宮の線で
対峙し、夕闇が刻々と迫る中、「秋の山」にほど近い小枝橋で、
薩摩軍が放ったアームストロング砲の一発の砲声によって戊
辰戦争の火ぶたは切って落とされた。


保元の乱から700年余の後、

    

鳥羽離宮は、

    

再び戦さの舞台となった。


鳥羽離宮(1)-院政の舞台

2012年11月14日 | 歴史を歩く

      院政の舞台~鳥羽離宮

平安京の朱雀門と羅城門とを結ぶ朱雀大路が、門外へと延びる
鳥羽作道を、南へ下ること約3キロ、その鳥羽の地に営まれた
広大な離れの宮が鳥羽離宮である。

現代の歴史で院政期と呼ばれる、律令と先例が支配する古代律
令社会に、内(天皇)と院(上皇、法皇)という二人の万乗を上に
いただく歪な政治形態の時代は、白河上皇、鳥羽上皇、後白河
上皇の三代にわたって続いた。
古代律令国家が、摂関政治という貴族支配によって、その内部
から朽ちていき、その蝕ばまれた胎内が必然的に生み出した
武家という階級による、血と力が支配する中世の時代へと、
社会が大きく移行していく変革期に、歴史の表舞台に度々登場
するのが、この鳥羽離宮である。

鴨川が現在よりもっと南へ流れ下り、下鳥羽をいだくようにして
桂川と合流していた古代、鳥羽の地は浪速の津から淀川経由で
都へ上る物資の集散地であると共に、水と自然の緑に富む風光
の地で、貴族が好んで別荘を建てたといわれる。

鳥羽離宮は、白川天皇が堀川天皇に位を譲り、上皇となって
院政を開始し、そ政治の場として、近臣の藤原季綱から献上され
た別荘の地に、賀茂川の水を引き込んだ広大な池水庭園と築山
を設け、そこに院庁を兼ねる雁行形の宮殿(南殿)を営んだのが
始まりで、次の鳥羽上皇の代にかけて前後約70年間に、馬場殿、
田中殿、泉殿、東殿などの宮殿、証金剛院、勝光明院、城南宮、
勝光明院、金剛心院、安楽寿院などの寺院や阿弥陀堂、そして
墓所を予定した幾つかの御塔、院庁、近臣の邸宅、諸国から集
まる上納の御倉、厩舎などが次々と建てられ、その規模は東西
約1.5キロ、南北約1.2キロに及ぶ壮大な離宮であったと
いわれる。

しかし、鳥羽上皇の死後、保元の乱と平治の乱が相継いで起き、
後白河上皇が法住寺殿に院御所の機能を移してからは、
鳥羽離宮は院御所の性格を失って衰微していき、応仁文明期に
戦乱でほとんどの建物が失われたといわれる。

平成の現在、かつての離宮のありし姿は、
鳥羽離宮公園、

   

と、それに南接する鳥羽離宮南殿跡、

   

で、南殿の跡地を、

城南宮に、

   

に馬場殿のありし姿の一部を、

そして北向不動院

   

安楽寿院、

   

白河天皇の成菩提院陵

   

鳥羽天皇の安楽寿院稜

   

近衛天皇の安楽寿院南陵

   

等に東院と泉殿のありし姿の一部が残されるのみで、

北殿跡は名神高速道路の京都南インターとなり、

   

田中殿は、
田中殿公園

   

にその跡地の一部が保存されるほかは、辺り一帯は
大小、そして色形とりどりのその種ホテルが建ち並び、

   

明日を担う若き殿ばらや姫君らが、

   

かりそめの秘事で愛を交わす楽園となっている。


清浄華院

2012年10月22日 | 歴史を歩く

   清浄華院

京都市上京区寺町広小路上ル北之辺町の寺町通りに面して
勅使門と総門を構える清浄華院。
仏教で最も尊貴な花とされる分陀利華(白蓮華)、
それを意味する清浄華の名を寺号にもつその寺は、
貞観2年、清和天皇の勅願により、叡山の円仁(慈慧大師)が、
天皇、皇族、禁裏に仕える大宮人、そして禁中の七殿五舎に
住まう後宮の花々に、法の灯りを授ける、禁裏内道場として
開基されたといわれる。

    

菊花の紋が許されているのは、そうした寺歴に由来する。

    

かつては、天台宗門に連なり、円、戒、禅、密の四宗兼学の叢林で
あったが、末法思想の広がった平安の末、叡山の黒谷を下り、吉水
の草庵で念仏往生を説いた源空(法然)が、後白河、鳥羽、高倉の
三代の天皇に授戒したのが機縁で、寺が源空(法然)へと賜与され、
以来、浄土宗門の念仏道場となった。
今も浄土宗の七大本山の一つである。
 
     

 本堂にあたる大殿(御影堂)には法然自らが刻んだと伝えられる
法然上人像がまつられる。

    

大方丈には阿弥陀三尊が安置されている。

    

如意ヶ嶽の大文字の火床を、東門越しに遠望するこの地に寺が
移転したのは、秀吉の時代である。

    

墓所には多数の皇族の墳墓があり、歴史にその名を残す多くの
知名人が眠る。
境内には仏教大学別科「浄山別寮」が設けられており、境内に
たたずむと、阿弥陀堂で誦する念仏の唱和の声が高らかに響く。