陰の院政-美福門院
美福門院得子は鳥羽院の崩御4年後の永暦元年(1160)白河
押小路殿で崩御した。
遺骸は、その翌日、鳥羽離宮の東殿(安楽寿院)で荼毘にふされ、
御骨は本人の遺言で高野山へ葬られた。
美福門院は、院の近臣の藤原長実の娘で、摂関家の出てはない
得子が皇后に迎えられたのは、ひとえに鳥羽の寵愛あってのとで
ある。
美福門院は、その寵をたのみ、後宮にあって鳥羽院を思うがまま
にあやつり、陰で院政を自らの思うがままにした。
自ら子を皇嗣とするため、崇徳上皇の院政への途を閉ざし、皇位
の第一順位の継承者とみられていた崇徳の子重仁を退け、自ら
が産んだ近衛天皇を即位させたのも、摂関家にあって、時の関白
忠通と弟の頼長とが摂簶の座を巡って争う中、呪詛事件をしたて
あげて頼長を退けたのも、種こそ違え兄弟である崇徳院と鳥羽院
との仲を裂き、その対立をことさらに煽り立て、保元の乱へと導い
たのも、すべて陰に美福門院があってのことだといわれる。
安楽寿院の新御堂は、美福門院の稜を予定して造られたもので
あり、それが鳥羽院の遺志であったことは明かである。
なのに、美福門院は、なぜその新御堂の石槨に入るのを拒み、
御骨を高野山に葬れと遺言したのだろうか。
遺骨を高野山へ葬ることには、導師をつとめた天台僧から強い
反対があったし、院の中にも反対する意見が強かったといわれる
が、結局は、本人の遺言に背くことが出来ず、遺骨は高野山へと
送られた。
高野山は明治5年に禁制が説かれるまで、厳しい女人禁制の
聖地であった。
高野への道は七口、そのそれぞれの結界に女人堂が設けられ
ていた。
女人禁制の世、高野にお参りする女人は、その結界から一歩
たりとも中へ踏み込むことが許されず、
女人堂から遙か遠く、壇上伽藍に向かって手を合わせたと
いわれる。
鳥羽院の陰で権勢を振るった美福門院も、生きている間は、
高野山の七葉蓮華の密言浄土に、
その足を踏み入れること、遂にかなはなかった。
出家するまで、北面の武士として鳥羽院に仕えていた西行法師は、
高野山にあって、美福門院の御骨を迎え、
そして詠んだ。
今日や君
おほふ五つの雲はれて
心の月をみがき出づらむ
(山家集)
我が子、我が身を思う心のあまりの強さから、
時の政治を、それを取り巻く社会を、そして時代という歴史の
ページまでを振り回した、美�・門院得子という、一人の女性の、
人となりを、一番よく知っていたのが、若くして世の無常を悟り、
妻も子も、家も家門も投げ捨てて出家を遂げた、一法師、西行
ではなかったろうか。
歌に詠まれた「五つの雲」は、本来は女人が生れもつとされる
五の障りを指すが、
ここでは成仏のさまたげとなる煩悩を意味している。
「君おほふ五つの雲」
が、命つき御骨となった今は消えて無くなり、
「心の月をみがき」
曇りのない清らかな心に生まれ変わったのですから、
今ならきつと成仏できますよと、
そう詠んでいるように、
私には思える。
今、美福門院は、
高野山の不動院の境内の奥まった一画の、
鳥羽天皇皇后得子高野山稜の、
小さな五輪塔の下で
弔う人とて稀な静寂の中をひっそりと眠っている。
美福門院が入るはずであった安楽寿院の新御堂には、
長寛元年(1163)、先に崩御し洛北知足院に安置されていた
美福門院の子の近衛天皇の御骨が納められた。
近衛天皇の安楽寿院南稜である。