グリゴリ・ペレリマン氏の生き方に学ぶ(2)
2回続きの2回目です。
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この記事は、昨年に書いていたが、掲載しなかった。
しかし、今回の大震災とそれに続く未曾有の「危機」に際して、私たちが行動を決定するときに必ず、参考になると思うので掲載する。
私も父が亡くなったあとの自分一人の力で何とかしなければいけない一番大変な時期に、グレゴリー・ペレリマン氏の生き方を何度も思い出して勇気づけられた。
生き方を指針づけられたといっても過言ではないと思う。
苦しいことがあたらグリゴリ・ペレリマン氏の生き方に学んでほしいと思う。
以下、未掲載の記事をそのまま載せる。
1回目
から続けてお読みください。
私は、ペレリマン氏の受賞拒否の言葉、「別の数学者が証明に果たした貢献が正当に評価されていないことに不満」の言葉から、ペレリマン氏は、「ポアンカレ予想」の証明という最高峰の頂にたったとき、何より、先達の数学者が命をかけて作った地図(数々の証明)に深く感謝したに違いないと思う。
登頂経路さえよく分からない、深い山でどこに何があるかさえも分からない時、かすかな光と希望となったのは、この先達(数学者たち)が作った地図(数々の証明)しかないからだ。
その重要性は、誰よりも深くペレリマン氏には、理解できたに違いない。
ペレリマン氏にとって、何よりありがたかったのは、数学者たちが営々と命をかけて築いてきた、証明という無償の「情報」だったに違いないのだ。
ペレリマン氏が言いたいのは、
お金は、数学の難問を解くのに必要ありません。
紙と鉛筆があれば十分です。
それよりも、私が世紀の難問を解くのに成功したのは、先達の数学者たちの命をかけた成果、地図(証明の数々)があったからです。
先達と神への深い感謝の念があるのみです。
ということではないのだろうか。
我々が生きている身近な世界も、ペレリマン氏のポアンカレ山世界初登頂に比べれば、比較にならないくらい安全であるが、それでもいつ何が起こるか分からない。
安全そうで、毎日が山登りのようなところもある。
いつ交通事故に遭うかもしれない。
安全だと思っていても、いつ危険が迫ってくるか分からない。
ただ、毎日の生活に追われ忘れたり、思い出さないようにしたりしているにすぎない。
我々は、ペレリマン氏ほどに先達の無償の「地図」に感謝しているだろうか?
無償の地図があることが、当たり前と思ってはいないか?
お金があれば、いつでも何でも「買える」と思っていないか?
そう考えると、私はペレリマン氏の行動に深く感動するとともに、心から尊敬の念を抱かずにはいられない。
筋違いのお金や行為にたいしては拒否するという態度には、感動で、身体が震えてくる。
少しでもペレリマン氏のように「勇気」をもって生きることができればと思う。
おそらく誰よりも、ペレリマン氏は先達とともに「ポアンカレ予想」が解けたことに喜んでいるに違いない。
また、賞やお金という「現物給付」ではなく、純粋に数学者として「世紀の難問に挑んで答えを出した」ということに満足しているに違いない。
そして、そのことに誰よりも神に感謝しているに違いないと思う。
もともと「賞」や「お金」でペレリマン氏はじめ人々の業績を正しく評価することなんて不可能なのだ。
時々(いやほとんどいつも)、人間は間違えてペレリマン氏はじめ神々を間違えて評価する。
評価なんてできないのに、評価できると思って。
ペレリマン氏はこのごく簡単なことを教えてくれる。
誤解のないよう断っておくが、「ミレニアム賞」や「フィールズ賞」はすばらしい賞で賞賛に値すると思う。
だが、ペレリマン氏にとっては、自分が受賞するより「正当に評価されていないこと」が気になる。
ペレリマン氏は、やはり「神」ではないかと思う。
それにしても、数学はすごい。
費用もお金もかけず、一人の数学者が(頭の中で)思考実験して、結果を出してしまう。
はやぶさもすごいが、それよりもっとすごい。
はやぶさは、太陽系のほんの一部を行って、帰ってきた。
しかし、ペレリマン氏の数学は、太陽系が所属する銀河系(天の川)を含めた銀河系の集まりの銀河団、さらにその集まりの全宇宙を対象にして、結果を出したのだ。
スケールがまさに天文学的。
それなのに、使ったのは紙と鉛筆、そして、多分パソコン。
究極のエコだ。
そして、もうひとつ。
ペレリマン氏は、信用できる。
なぜなら、金に魂を売り渡さないからだ。
そもそも、金融危機(信用不安)の発端は、製品や商売が信用出来ないことから始まった。
信用できないから、保険をつけてとばす。
そして、最後にはどこにもとばすところがなくなってしまった。
それが事実だろう。
やはり、ペレリマン氏は、神だ。
自己責任なんていう都合のいい言葉を巧みに操って、自分のやりたいように事を進めていく輩(やから)とは比較にならない。
比較することさえはばかられる。
ちなみに、この国では偉大な業績を残した人々は神として神社にまつられる。
しかし、神社にまつられてもお参りするかどうかは、参詣者の気持ち次第だ。
この国は、神になっても永久に厳しい評価をされる。
だから、この国では「本物」しか残らない。
もう一度、ペレリマン氏が言いたいだろうことを再掲する。
お金は、数学の難問を解くのに必要ありません。
紙と鉛筆があれば十分です。
それよりも、私が世紀の難問を解くのに成功したのは、先達の数学者たちの命をかけた成果、地図(証明の数々)があったからです。
先達と神への深い感謝の念があるのみです。
自分にあうように言い換えると、
生きていくのに大金はいりません。
健康と少しの勇気があれば十分です。
それよりも、これまで生きてこられたのは、家族をはじめ多くの人々に教えられ、支えられてきたからです。
先達と神への深い感謝の念があるのみです。
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以上が未掲載の記事でした。 未曾有の震災を経て、改めてペレリマン氏の生き方に感動する。 先達の命をかけた偉業に対して十分な敬意を払い、それを生かして自分の命をかけて問題を解決する。 そして、問題が解決できたことで十分満足し、それ以上を求めない。 数学の問題に対して、数学のみならず物理学の知識までフルに動員してすべての可能性を考えて解決する。 これこそが、真の科学的な態度ではないだろうか? 苦しいこと、自分一人で何とかしなければならないことがあったら、私は何度でもペレリマン氏のように行動しようと思う。
ペレリマン氏の生き方を見ていると、自然に「勇気」がわいてくるから。