戦時下の川端康成 その3
第2節 「日本の母」
日本文学報国会
1942年(昭和17年)5月に文芸家協会の解散と同時に設立された日本文学報国会は、文士を大政翼賛会の傘下に加えようとする当局の攻勢と、文学の自律性を守ろうとする文士たちとのせめぎあいの中で誕生した、一見、国策推進を標榜した組織、ということができるだろう。
これに属した作家たちの態度は、おのおので異なった。小説部門の部長となり、また大東亜文学者会議に出席して決議文を起草、宣言したりして、積極的に戦争推進に協力した横光利一と、一歩も二歩も引いて、消極的に報国会に協力した康成とは、対照的であったといえるだろう。
それでも1942年10月には、康成は日本文学報国会作家という肩書きで長野県伊那の農家を訪問して「日本の母」という記事を書いた(『読売報知新聞』1942・10・30、朝刊)。第48回である。
この「日本の母」は、1県から1人ずつ、戦死した夫(あるいは息子)のあとを守って健気に生きている「母」を選び出し、その家を作家が訪問して記事を書く、という企画である。
当時、康成は軽井沢に住んでいたので、比較的近いから、という理由で、長野県下、下伊那郡松尾村の農婦・井上ツタヱを訪問することになった。
康成が最初に訪問したのは、10月8日だった。が、軽井沢から中央本線の辰野駅まで行き、そこから伊那電鉄に乗り換えて天龍川の流れに沿って飯田まで南下し、さらに飯田から三信鉄道で4つ目の駅「伊那八幡」まで行くには、7時間もかかった。
康成は、最初の訪問で、書くべきことを何も聞き出すことができなかった。そこで10月24日にふたたび訪ねた。
さて、ツタヱさんからなにか話を引き出さねばならないのだが、夫の戦死の後のことなど、私は2度会つても、よう聞けなかつた。
やむなく康成は、軍人援護会長野支部がツタヱの履歴と善行を書いた刷り物をツタヱに渡す。
「わしや、こんなこと言はれたつて、なにも……。なにも話すやうなことありませんで……。」と、ツタヱは困ってしまう。
それを無理して話を引き出せるような康成ではなかった。夫を失ったツタヱの悲しみを労(いたわ)っての思いやりである。
残された家族
一家は、夫の戦死のあと、ツタヱと女の子と、夫の母である姑(しゅうとめ)の、3人が残された。
その真二さんは蘭封院真正忠肝居士(こじ)といふ戒名の通りに、蘭封(らんぷう)で戦死した。中隊と小隊との連絡兵として任務を果し、ほつと横になつた途端に「ここやられましてな。」と、老母は自分の胸の横をおさへた。老母はまた、ツタヱさんの膝の孫を見ながら、
「この子の、生れて63日目の写真を見たきりでな。生れた時は、400匁(もんめ)しかない子でありましてな。2度目に送つた写真は、大分ふつくらしてたのに……。」戦死の後に着いた。その美智代さんは、今6つになる。少し弱々しく見えるが、きれいな子である。
「ほんに、1代暮すうちにや、いろんな目にあはなけやなりませんな。」と、老母は生涯を振り返つた。嫁が遺骨を迎へに行つた晩は、うちに1人でさみしかつたなあと言つた。
期せずして康成は、この気丈な母の、息子に戦死された深い失意を、読者に伝えているのである。
「『日本の母』を訪ねて」
康成は、この訪問について、『婦人画報』(1942・12・1)にも書いている。
ここでは、もう少し客観的に、一家の様子を描いている。
ツタヱさんの夫の陸軍歩兵伍長井上真二さんは、昭和12年8月に応召(おうしょう)、北支に出征、翌13年5月に戦死した。信州兵の武名を高め、また難戦を重ねた遠山部隊に属してゐた。戦死の時、真二さんは36、ツタヱさんは結婚して8年目で、30であつた。家庭には老母と、2人の義弟と、1女とがあつた。
姑は60を過ぎ、義弟の1人は病弱、もう1人はまた出征、子供は生れたばかりであつた。かういふ1家をツタヱさんは背負つた。ひたすら農蠶(のうさん)業に励んだ。軍人の遺家族に対する村人の勤労奉仕などは、いつも辞退して、ただ自力で働き通した。恩賜金(おんしきん)のお陰もあつたが、夫の生前からの負債を全く返し、また8畝(せ)の田を買ふところまで、家政を整へて来た。(中略)
ツタヱさんの家などは貧農の方だらうが、暗影も不安もなかつた。家族の顔色に、平和と希望とがあつた。これがツタヱさんの力であると思ふと戦死者の遺家族として、これほどありがたいことはない。(中略)
見るからに素朴醇情(じゅんじょう)の「日本の母」に対して私はなにも言ふことがなかつた。
銃後の読者を励ます、多少、舞文の面がないではないが、康成としては、この一家の健気(けなげ)な明るさに、かろうじて自分自身が慰められるところがあったのであろう。
「父の名」
井上ツタヱの家を2度目に訪問していた10月24日の午後、役場の少女が康成宛ての電報を持ってきた。康成の「母の姉が死んだ報せ」であつた。
井上家は晩に五平餅(ごへいもち)を作って康成に食べさせようとしていたし、康成も「温いこの家に夜までゐたかった」。
しかし、86で死んだ伯母は、この間見舞ひに行くと「栄吉つつあんかいな。」と、40年も前に死んだ父と私とをまちがへたことなどを思へば、やはり通夜に帰らねばならない。
康成は伊那電車の窓から木曽駒の峰にも甲斐境(かい ざかい)の高山にも雪が降っているらしいのを目にしながら、伊那を去る。
伊那谷(いなたに)の稲刈りは七分通りすんでいた。
さて、「父の名」は、雑誌『文藝』の1943年(昭和18年)の2月号と3月号に、2回にわたって掲載された作品である。その死の電報を受け取った伯母の、生前のことから書いてある。
康成の生母ゲンの、姉と弟のことが描かれた作品である。私小説といっていいだろう。
私の母のきやうだいは、たしか7人だと思ふが、1番上の姉と1番下の弟とが長生きで後に残つた。2人とも私の母とは腹ちがひで、その2人がまた腹ちがひである。正妻の子でないので、小さい時から苦労させられた。姉の方は私の祖父母が養女として嫁がせた。弟の方は他人の家へ小僧に出され、やがて奉公先(ほうこうさき)の金箔屋(きんぱくや)の養子になつた。さういふ離れ方だし、年も大分ちがふので、きゃうだいらしく暮したこと時はなかつたが、後に二人が東京に住むやうになつてから、弟は姉をさがしあてて、きゃうだいの名乗りをした。その時、姉はもう60を過ぎ、弟も50に近かつた。
金箔屋の叔父
「この金箔屋の叔父は変り者で、自分の自転車から帽子や靴にまで金箔を置いて金色燦然(さんぜん)と出歩いてゐた。」とあるように、本名山田豊蔵という、この叔父は、家業を生かして、身辺のあらゆるものに金箔を貼った。また自分の羽織に、有名人に揮毫(きごう)してもらって、その文字を金で浮き立たせて紋付の代りのように来て歩く、というふうだった。鴈治郎や歌右衛門といった一流の老優を選んで頼むのである。またここから転じて、一流の芸人と一緒に写真を撮ることを道楽とし、その対象は歌舞伎役者、映画俳優から政治家に及んだ。
この金箔屋の叔父・山田豊蔵のことは、康成初期の「大黒像と駕籠(かご)」にも出てくるが、その姉――田中ソノが、この作品の主人公である。
1917(大正6)年、康成が茨木中学を卒業して上京し、最初に頼って下宿した浅草蔵前の親戚が、この田中ソノであった。次男岩太郎が医者を開業して、この母を国もとから引き取ったばかりのところであった。もっとも、この作品では医者となっているが、川端秀子『川端康成とともに』によれば、歯医者である。
いずれにしても、この人たちは康成に、過分といっていいほどの愛情をそそぎ、親身な世話をしつづけた。
この伯母が85歳で病がちであることを気にしながらも、康成がそのままでいると、金箔屋の叔父が軽井沢まで来て、それとなく、生きているうちに逢ってやってくれ、という意味のことを遠慮がちに言った。
康成は早速、東京に出て、伯母に逢いに行った。/font>
「栄吉ツつあんか。」
伯母はなにもかも抜けてしまつたやうな顔で、少し口をあけて眠つてゐた。私はただ枕もとに坐つて、伯母を見てゐれば、それでいいので、従兄の嫁が伯母を起すのを止(と)めてゐると、伯母はふつと目をあいて、
「栄吉ツつあんか。」
と、きよとんと言つた。私の父の名である。40年前に死んだ私の父の名を、伯母は呼んだのである。
この数行に書かれた事実――目をさました伯母がきょとんとして、康成を父の栄吉と間違えて「栄吉ツつあんか。」と呼んだ一言が、康成の魂を震撼させたのである。
伯母は私を父とまちがへたことも、父の名を呼んだことも、自分で気がつかぬ、と言ふよりも、その時はもう私を認めた喜びに、なにもかもなくなつてゐた。よう来とくれた、よう来とくれた、会ひたうて、会ひたうて、とおろおろ言ひながら、涙を流して、這ひ出さうとし、起き上らうとするのを、私は無理に寝かせた。私に会へたのでもう死んでもいいと、伯母は言つた。
それから従兄夫婦は、伯母が康成に会いたがって、東京駅へ行けばわかるといって承知しなかったとか、さまざまなことを笑い話のように語る。康成は涙をこらえる。
早く死んだ父母の記憶を、康成はなにも持っていない。夢に出てくる肉親も、16の時まで生きていてくれた祖父一人だけである。
「さういふ私にとつて、『栄吉ツつあんか。』といふ伯母のひとことは、父母の復活であり、父母の誕生であつた」のである。
信州の伊那の農家で、この伯母が死んだという電報を受け取った康成は、すぐに伊那を立ち、10月末の冷たい雨の降る東京に着く。
伯母はもう柩(ひつぎ)に入っていた。そして夜半近く、この伯母の娘たち二人が大阪から着く。もう60過ぎの老女なのだが、特に上の娘は若い時から美人として人目を惹(ひ)いていたひとだった。その名残か、立ち居にあざやかなところがあり、仏前にしゃんと坐ると、このひとの娘も器量望みでもらわれて行ったことを思い出す。
伯母からこの姉娘へ、姉娘から小町娘へと、3代の女が母に似て、母より美しくなりまさってきた事実を、康成は考える。
「栄吉ツつあんか。」
と、私の父の名を呼んだ伯母の声が私のなかからも聞えた。
「父の名」は、伯母の一言を繰り返して結ばれる。思いがけず父の名を呼ばれた経験は、康成に、自分の顔も知らない父の存在を印象づけた。康成は、この一言を契機に、自己の根源を探る思考へといざなわれるのである。
第2節 「日本の母」
日本文学報国会
1942年(昭和17年)5月に文芸家協会の解散と同時に設立された日本文学報国会は、文士を大政翼賛会の傘下に加えようとする当局の攻勢と、文学の自律性を守ろうとする文士たちとのせめぎあいの中で誕生した、一見、国策推進を標榜した組織、ということができるだろう。
これに属した作家たちの態度は、おのおので異なった。小説部門の部長となり、また大東亜文学者会議に出席して決議文を起草、宣言したりして、積極的に戦争推進に協力した横光利一と、一歩も二歩も引いて、消極的に報国会に協力した康成とは、対照的であったといえるだろう。
それでも1942年10月には、康成は日本文学報国会作家という肩書きで長野県伊那の農家を訪問して「日本の母」という記事を書いた(『読売報知新聞』1942・10・30、朝刊)。第48回である。
この「日本の母」は、1県から1人ずつ、戦死した夫(あるいは息子)のあとを守って健気に生きている「母」を選び出し、その家を作家が訪問して記事を書く、という企画である。
当時、康成は軽井沢に住んでいたので、比較的近いから、という理由で、長野県下、下伊那郡松尾村の農婦・井上ツタヱを訪問することになった。
康成が最初に訪問したのは、10月8日だった。が、軽井沢から中央本線の辰野駅まで行き、そこから伊那電鉄に乗り換えて天龍川の流れに沿って飯田まで南下し、さらに飯田から三信鉄道で4つ目の駅「伊那八幡」まで行くには、7時間もかかった。
康成は、最初の訪問で、書くべきことを何も聞き出すことができなかった。そこで10月24日にふたたび訪ねた。
さて、ツタヱさんからなにか話を引き出さねばならないのだが、夫の戦死の後のことなど、私は2度会つても、よう聞けなかつた。
やむなく康成は、軍人援護会長野支部がツタヱの履歴と善行を書いた刷り物をツタヱに渡す。
「わしや、こんなこと言はれたつて、なにも……。なにも話すやうなことありませんで……。」と、ツタヱは困ってしまう。
それを無理して話を引き出せるような康成ではなかった。夫を失ったツタヱの悲しみを労(いたわ)っての思いやりである。
残された家族
一家は、夫の戦死のあと、ツタヱと女の子と、夫の母である姑(しゅうとめ)の、3人が残された。
その真二さんは蘭封院真正忠肝居士(こじ)といふ戒名の通りに、蘭封(らんぷう)で戦死した。中隊と小隊との連絡兵として任務を果し、ほつと横になつた途端に「ここやられましてな。」と、老母は自分の胸の横をおさへた。老母はまた、ツタヱさんの膝の孫を見ながら、
「この子の、生れて63日目の写真を見たきりでな。生れた時は、400匁(もんめ)しかない子でありましてな。2度目に送つた写真は、大分ふつくらしてたのに……。」戦死の後に着いた。その美智代さんは、今6つになる。少し弱々しく見えるが、きれいな子である。
「ほんに、1代暮すうちにや、いろんな目にあはなけやなりませんな。」と、老母は生涯を振り返つた。嫁が遺骨を迎へに行つた晩は、うちに1人でさみしかつたなあと言つた。
期せずして康成は、この気丈な母の、息子に戦死された深い失意を、読者に伝えているのである。
「『日本の母』を訪ねて」
康成は、この訪問について、『婦人画報』(1942・12・1)にも書いている。
ここでは、もう少し客観的に、一家の様子を描いている。
ツタヱさんの夫の陸軍歩兵伍長井上真二さんは、昭和12年8月に応召(おうしょう)、北支に出征、翌13年5月に戦死した。信州兵の武名を高め、また難戦を重ねた遠山部隊に属してゐた。戦死の時、真二さんは36、ツタヱさんは結婚して8年目で、30であつた。家庭には老母と、2人の義弟と、1女とがあつた。
姑は60を過ぎ、義弟の1人は病弱、もう1人はまた出征、子供は生れたばかりであつた。かういふ1家をツタヱさんは背負つた。ひたすら農蠶(のうさん)業に励んだ。軍人の遺家族に対する村人の勤労奉仕などは、いつも辞退して、ただ自力で働き通した。恩賜金(おんしきん)のお陰もあつたが、夫の生前からの負債を全く返し、また8畝(せ)の田を買ふところまで、家政を整へて来た。(中略)
ツタヱさんの家などは貧農の方だらうが、暗影も不安もなかつた。家族の顔色に、平和と希望とがあつた。これがツタヱさんの力であると思ふと戦死者の遺家族として、これほどありがたいことはない。(中略)
見るからに素朴醇情(じゅんじょう)の「日本の母」に対して私はなにも言ふことがなかつた。
銃後の読者を励ます、多少、舞文の面がないではないが、康成としては、この一家の健気(けなげ)な明るさに、かろうじて自分自身が慰められるところがあったのであろう。
「父の名」
井上ツタヱの家を2度目に訪問していた10月24日の午後、役場の少女が康成宛ての電報を持ってきた。康成の「母の姉が死んだ報せ」であつた。
井上家は晩に五平餅(ごへいもち)を作って康成に食べさせようとしていたし、康成も「温いこの家に夜までゐたかった」。
しかし、86で死んだ伯母は、この間見舞ひに行くと「栄吉つつあんかいな。」と、40年も前に死んだ父と私とをまちがへたことなどを思へば、やはり通夜に帰らねばならない。
康成は伊那電車の窓から木曽駒の峰にも甲斐境(かい ざかい)の高山にも雪が降っているらしいのを目にしながら、伊那を去る。
伊那谷(いなたに)の稲刈りは七分通りすんでいた。
さて、「父の名」は、雑誌『文藝』の1943年(昭和18年)の2月号と3月号に、2回にわたって掲載された作品である。その死の電報を受け取った伯母の、生前のことから書いてある。
康成の生母ゲンの、姉と弟のことが描かれた作品である。私小説といっていいだろう。
私の母のきやうだいは、たしか7人だと思ふが、1番上の姉と1番下の弟とが長生きで後に残つた。2人とも私の母とは腹ちがひで、その2人がまた腹ちがひである。正妻の子でないので、小さい時から苦労させられた。姉の方は私の祖父母が養女として嫁がせた。弟の方は他人の家へ小僧に出され、やがて奉公先(ほうこうさき)の金箔屋(きんぱくや)の養子になつた。さういふ離れ方だし、年も大分ちがふので、きゃうだいらしく暮したこと時はなかつたが、後に二人が東京に住むやうになつてから、弟は姉をさがしあてて、きゃうだいの名乗りをした。その時、姉はもう60を過ぎ、弟も50に近かつた。
金箔屋の叔父
「この金箔屋の叔父は変り者で、自分の自転車から帽子や靴にまで金箔を置いて金色燦然(さんぜん)と出歩いてゐた。」とあるように、本名山田豊蔵という、この叔父は、家業を生かして、身辺のあらゆるものに金箔を貼った。また自分の羽織に、有名人に揮毫(きごう)してもらって、その文字を金で浮き立たせて紋付の代りのように来て歩く、というふうだった。鴈治郎や歌右衛門といった一流の老優を選んで頼むのである。またここから転じて、一流の芸人と一緒に写真を撮ることを道楽とし、その対象は歌舞伎役者、映画俳優から政治家に及んだ。
この金箔屋の叔父・山田豊蔵のことは、康成初期の「大黒像と駕籠(かご)」にも出てくるが、その姉――田中ソノが、この作品の主人公である。
1917(大正6)年、康成が茨木中学を卒業して上京し、最初に頼って下宿した浅草蔵前の親戚が、この田中ソノであった。次男岩太郎が医者を開業して、この母を国もとから引き取ったばかりのところであった。もっとも、この作品では医者となっているが、川端秀子『川端康成とともに』によれば、歯医者である。
いずれにしても、この人たちは康成に、過分といっていいほどの愛情をそそぎ、親身な世話をしつづけた。
この伯母が85歳で病がちであることを気にしながらも、康成がそのままでいると、金箔屋の叔父が軽井沢まで来て、それとなく、生きているうちに逢ってやってくれ、という意味のことを遠慮がちに言った。
康成は早速、東京に出て、伯母に逢いに行った。/font>
「栄吉ツつあんか。」
伯母はなにもかも抜けてしまつたやうな顔で、少し口をあけて眠つてゐた。私はただ枕もとに坐つて、伯母を見てゐれば、それでいいので、従兄の嫁が伯母を起すのを止(と)めてゐると、伯母はふつと目をあいて、
「栄吉ツつあんか。」
と、きよとんと言つた。私の父の名である。40年前に死んだ私の父の名を、伯母は呼んだのである。
この数行に書かれた事実――目をさました伯母がきょとんとして、康成を父の栄吉と間違えて「栄吉ツつあんか。」と呼んだ一言が、康成の魂を震撼させたのである。
伯母は私を父とまちがへたことも、父の名を呼んだことも、自分で気がつかぬ、と言ふよりも、その時はもう私を認めた喜びに、なにもかもなくなつてゐた。よう来とくれた、よう来とくれた、会ひたうて、会ひたうて、とおろおろ言ひながら、涙を流して、這ひ出さうとし、起き上らうとするのを、私は無理に寝かせた。私に会へたのでもう死んでもいいと、伯母は言つた。
それから従兄夫婦は、伯母が康成に会いたがって、東京駅へ行けばわかるといって承知しなかったとか、さまざまなことを笑い話のように語る。康成は涙をこらえる。
早く死んだ父母の記憶を、康成はなにも持っていない。夢に出てくる肉親も、16の時まで生きていてくれた祖父一人だけである。
「さういふ私にとつて、『栄吉ツつあんか。』といふ伯母のひとことは、父母の復活であり、父母の誕生であつた」のである。
信州の伊那の農家で、この伯母が死んだという電報を受け取った康成は、すぐに伊那を立ち、10月末の冷たい雨の降る東京に着く。
伯母はもう柩(ひつぎ)に入っていた。そして夜半近く、この伯母の娘たち二人が大阪から着く。もう60過ぎの老女なのだが、特に上の娘は若い時から美人として人目を惹(ひ)いていたひとだった。その名残か、立ち居にあざやかなところがあり、仏前にしゃんと坐ると、このひとの娘も器量望みでもらわれて行ったことを思い出す。
伯母からこの姉娘へ、姉娘から小町娘へと、3代の女が母に似て、母より美しくなりまさってきた事実を、康成は考える。
「栄吉ツつあんか。」
と、私の父の名を呼んだ伯母の声が私のなかからも聞えた。
「父の名」は、伯母の一言を繰り返して結ばれる。思いがけず父の名を呼ばれた経験は、康成に、自分の顔も知らない父の存在を印象づけた。康成は、この一言を契機に、自己の根源を探る思考へといざなわれるのである。
⑴3行目「一女があつた。」:改行ナシで次行に続く
⑵4行目「生まれたばかりであつた。」:次に1行脱落
⑶7行目「ツタヱさんなどは」:中略に続き、字下げナシ