川端康成の恋 伊藤初代のその後 日記に告白された恋情(6)
「眠れる美女」の主題
では、このような作品「眠れる美女」の主題は、何だろうか。
それは、老年にとって、「生」とは何か? である、と私は思う。そして、「生」とは、主人公・江口老人にとって、「性」なのである。
そうなのだ。この作品において追究されているのは、老年における「性」なのだ。
秘密の家で、眠る美女の傍(かたわ)らで、江口はさまざまなことを回想する。初めて「きむすめ」(処女)を与えてくれた女のこと。あるいは、ふと知り合った神戸の人妻……、というように。
つまり、この宿で江口老人は、美女に寄り添われながら、自分のこれまでの人生を回顧するのである。そして、自分の生がまもなく終わってゆこうとするのに、この世界には、次々と若い生命が誕生してくる、という事実に、今さらながら、深い悔恨を覚えるのである。
計り知れぬ性の広さ、底知れぬ性の深みに、江口は67年の過去にはたしてどれほど触れたといふのだらう。しかも老人どものまはりには 女の新しいはだ、若いはだ、美しい娘たちが限りなく生まれて来る。
人生の悔恨
彼のこの慨嘆(がいたん)には、生命というもの、あるいはその生命を司(つかさど)っている、或る超自然的な力への驚異がこめられている。
彼がこれまでの生涯で触れ得なかった底知れぬゆたかさ深さは、この世界には無限に残されている。そして世界は、彼一個の生死なぞには微動だもせず、滔々(とうとう)と流れ動いてゆく。そこには絶えずあらたな生命が誕生し、逞しい旺(さか)んな繁殖を見せつつ、世界はいつまでも続いてゆく。
この巨大なエネルギーと、いくつかの貧しい記憶を胸にたたんでひっそりと消滅してゆかざるを得ない自己の存在を対比させるとき、彼はあらためて生の実体の一端に触れた思いがするのである。
巨大な生の末端につらなる自己の微小な生を認知することによってはじめて、江口は自分という存在に対する限りないいとおしみを覚え、そのかなしみのなかで、自分が生きてあるという思いを胸にするのである。
思い出の中にしかあり得ない自己の生を思い知らされ、しかもその生はあまりにもゆたかで底知れぬものであるということに驚嘆し絶望し、それ故になおいっそう、現在の自分があわれでいとおしい――このような自己憐憫(れんびん)のなかで初めて彼は自己の生を確認し、つかのまの「生の旋律、生の脈動」に身をゆだねることが可能となったのである。
――江口老人にとって、眠れる美女の家とは、自己の無力を知り、逆にそこから自己の生を確かめ、そこに瞬時の生の脈動を回復し獲得するところであった。
そしてこのような秘儀は、どこででも可能なものではない。きわめて制限された条件、厳密な規制、それらの掟の支配する鎖された空間の中でのみ、彼はかろうじて老年固有の「生」を獲得できるのである。
このように、「眠れる美女」は、江口老人が、自分の無力を悟ったところで終わる。それも、その夜は、江口のために、二人の眠る娘が与えられていた。その一人が、死んでしまうのだ。
あわてて、宿の女に報告すると、「騒がなくてもいいです。娘も、もう一人をりますでせう」と言う。
この秘密の家の、恐ろしい非人間性が曝露(ばくろ)されたところで、物語は収束するのである。
〈魔界〉の衰微
このように見てくると、「眠れる美女」という作品は、一方で川端康成の絶頂を示す傑作であると同時に、他方で、その躍動的な〈魔界〉が次第に衰微してゆく過程を物語っているように思われる。
なぜなら、「みづうみ」の主人公・銀平は、あんなに自在に、過去から現在に、現在から過去に、自由に行き来していたではないか。広い空間・時間を自由に生きていた。
それに対して「眠れる美女」の江口老人は、閉じ込められた密室の中で、ただ回想という形で自由な羽をはばたかせることができるだけだ。それは、自由を半分、失っている、という意味であろう。
このように、昭和23年の「反橋」(そりはし)を契機に、〈魔界〉に入って、ぐんぐん深みに到達した川端康成の文学世界は、ようやくこのころから、衰えを見せはじめるのである。
そうして数年後、康成は、或る痛切な告白をすることになる。(つづく)
「眠れる美女」の主題
では、このような作品「眠れる美女」の主題は、何だろうか。
それは、老年にとって、「生」とは何か? である、と私は思う。そして、「生」とは、主人公・江口老人にとって、「性」なのである。
そうなのだ。この作品において追究されているのは、老年における「性」なのだ。
秘密の家で、眠る美女の傍(かたわ)らで、江口はさまざまなことを回想する。初めて「きむすめ」(処女)を与えてくれた女のこと。あるいは、ふと知り合った神戸の人妻……、というように。
つまり、この宿で江口老人は、美女に寄り添われながら、自分のこれまでの人生を回顧するのである。そして、自分の生がまもなく終わってゆこうとするのに、この世界には、次々と若い生命が誕生してくる、という事実に、今さらながら、深い悔恨を覚えるのである。
計り知れぬ性の広さ、底知れぬ性の深みに、江口は67年の過去にはたしてどれほど触れたといふのだらう。しかも老人どものまはりには 女の新しいはだ、若いはだ、美しい娘たちが限りなく生まれて来る。
人生の悔恨
彼のこの慨嘆(がいたん)には、生命というもの、あるいはその生命を司(つかさど)っている、或る超自然的な力への驚異がこめられている。
彼がこれまでの生涯で触れ得なかった底知れぬゆたかさ深さは、この世界には無限に残されている。そして世界は、彼一個の生死なぞには微動だもせず、滔々(とうとう)と流れ動いてゆく。そこには絶えずあらたな生命が誕生し、逞しい旺(さか)んな繁殖を見せつつ、世界はいつまでも続いてゆく。
この巨大なエネルギーと、いくつかの貧しい記憶を胸にたたんでひっそりと消滅してゆかざるを得ない自己の存在を対比させるとき、彼はあらためて生の実体の一端に触れた思いがするのである。
巨大な生の末端につらなる自己の微小な生を認知することによってはじめて、江口は自分という存在に対する限りないいとおしみを覚え、そのかなしみのなかで、自分が生きてあるという思いを胸にするのである。
思い出の中にしかあり得ない自己の生を思い知らされ、しかもその生はあまりにもゆたかで底知れぬものであるということに驚嘆し絶望し、それ故になおいっそう、現在の自分があわれでいとおしい――このような自己憐憫(れんびん)のなかで初めて彼は自己の生を確認し、つかのまの「生の旋律、生の脈動」に身をゆだねることが可能となったのである。
――江口老人にとって、眠れる美女の家とは、自己の無力を知り、逆にそこから自己の生を確かめ、そこに瞬時の生の脈動を回復し獲得するところであった。
そしてこのような秘儀は、どこででも可能なものではない。きわめて制限された条件、厳密な規制、それらの掟の支配する鎖された空間の中でのみ、彼はかろうじて老年固有の「生」を獲得できるのである。
このように、「眠れる美女」は、江口老人が、自分の無力を悟ったところで終わる。それも、その夜は、江口のために、二人の眠る娘が与えられていた。その一人が、死んでしまうのだ。
あわてて、宿の女に報告すると、「騒がなくてもいいです。娘も、もう一人をりますでせう」と言う。
この秘密の家の、恐ろしい非人間性が曝露(ばくろ)されたところで、物語は収束するのである。
〈魔界〉の衰微
このように見てくると、「眠れる美女」という作品は、一方で川端康成の絶頂を示す傑作であると同時に、他方で、その躍動的な〈魔界〉が次第に衰微してゆく過程を物語っているように思われる。
なぜなら、「みづうみ」の主人公・銀平は、あんなに自在に、過去から現在に、現在から過去に、自由に行き来していたではないか。広い空間・時間を自由に生きていた。
それに対して「眠れる美女」の江口老人は、閉じ込められた密室の中で、ただ回想という形で自由な羽をはばたかせることができるだけだ。それは、自由を半分、失っている、という意味であろう。
このように、昭和23年の「反橋」(そりはし)を契機に、〈魔界〉に入って、ぐんぐん深みに到達した川端康成の文学世界は、ようやくこのころから、衰えを見せはじめるのである。
そうして数年後、康成は、或る痛切な告白をすることになる。(つづく)
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