「眠れる美女」の爛熟(らんじゅく)した世界
江藤淳の「文芸時評」
「みづうみ」の数年後、昭和35年から36年にかけて、康成はまことに大胆な状況設定と細密な描写からなる、この作品を雑誌『新潮』に連載した。
連載が終了するやいなや、ただちに江藤淳が『朝日新聞』の『文芸時評』に、その冒頭でこの作品を取り上げて、次のように述べた。
夢見る過去の女たち
「眠れる美女」はまことに奇妙な小説である。(中略)この作品に漂っている異常にエロティックな雰囲気は、ほとんど息苦しい位である。だが、江口老人の前に出現するさまざまな匂いと肌を持つ全裸の美少女たちとは、いったい何だろうか? それはまさに「匂い」と「肌」であって、人間ではない。むしろ沈黙の妖しい世界のなかで、感覚の旋律 が協奏される時間がかたちをとったものとでもいうべきものである。江口の夢見る過去の女たちは、これらの感覚が記憶のなかから喚(よ)び起す影である。(中略)
反・小説的な作品
同じ老人の官能を主題にしていても、今月から連載のはじまった谷崎潤一郎氏の「瘋癲(ふうてん)老人日記」(中央公論)と比較すれば、この作品がいかに非小説的な世界の上につくりあげられているかは明らかだろう。
「匂い」が、あるいは触感が過去を現前させるのは、プルウストの有名なプティット・マドレエヌの挿話を想わせ、その点でも「眠れる美女」は川端氏の小説がしばしばそうであるように前衛的な趣さえ有するが、ここには「見出された時」を求めようとする意志が欠けている。いや、むしろ意志の放棄によって成立しているという点で、これはほとんど反・小説的な作品である。(中略)
女体への憧憬(どうけい)
『山の音』でも「みづうみ」でも川端氏は老人の女体への憧憬を描いた。憧憬が専ら感覚のゆらぎとして歌われるのは「眠れる美女」でも同様だが、ここではその感覚の 衰弱と荒廃を美に仕立てあげようとする詭計がからくも功を奏したというべきであろう。この作品のエロティシズムは、生命からではなく、死の感覚をもてあそぶところから生れている。そういえば「眠れる美女」という童話があったが、川端氏の作品は、人工が最も根源的な生の秘密をあばき出しているという意味で、一首の裏返された童話だともいえるのである。
この時評は、時評を超えて、「眠れる美女」という作品の本質をかなり深く指摘していると思われる。
なかでも、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の冒頭の挿話(そうわ)に言及(げんきゅう)しながら、「眠れる美女」の前衛性を指摘し、作者が小説を作ろうとする意志を放棄している点から「これはほとんど反・小説的な作品である」と規定していることは、江藤淳らしい卓見である。
「眠れる美女」は、どんな物語なのか?
江藤淳の批評を読んだ読者は、いったい、「眠れる美女」とは、どんな作品なのだろうと不思議に思うだろう。
この作品の主人公は、江口老人である。彼は70歳を過ぎた老人だ。世間的には成功したらしい。だから、お金がある。だからこそ、こんな贅沢(ぜいたく)なこともできるのだろうが、江口老人は、友人に教えられて、ある秘密の家に通うようになったのである。
その秘密の家、というのは、老人の客が行くと、一室に通される。そこには、睡眠薬によって昏睡状態になった若い女性が、裸身で横たわっている、というのだ。
老人は、ひと晩、その裸身の女性と一つの蒲団(ふとん)の中で過ごす、という仕組みである。
若い読者にとっては、奇妙なものに思われるだろうが、老人にとっては、若い女性、しかも裸身の女性と一夜をともに過ごすなんて、これ以上にない極楽世界なのだ。
この宿を教えてくれた友人は言った。「まるで秘仏と寝るようだ」と。
江藤淳の「文芸時評」
「みづうみ」の数年後、昭和35年から36年にかけて、康成はまことに大胆な状況設定と細密な描写からなる、この作品を雑誌『新潮』に連載した。
連載が終了するやいなや、ただちに江藤淳が『朝日新聞』の『文芸時評』に、その冒頭でこの作品を取り上げて、次のように述べた。
夢見る過去の女たち
「眠れる美女」はまことに奇妙な小説である。(中略)この作品に漂っている異常にエロティックな雰囲気は、ほとんど息苦しい位である。だが、江口老人の前に出現するさまざまな匂いと肌を持つ全裸の美少女たちとは、いったい何だろうか? それはまさに「匂い」と「肌」であって、人間ではない。むしろ沈黙の妖しい世界のなかで、感覚の旋律 が協奏される時間がかたちをとったものとでもいうべきものである。江口の夢見る過去の女たちは、これらの感覚が記憶のなかから喚(よ)び起す影である。(中略)
反・小説的な作品
同じ老人の官能を主題にしていても、今月から連載のはじまった谷崎潤一郎氏の「瘋癲(ふうてん)老人日記」(中央公論)と比較すれば、この作品がいかに非小説的な世界の上につくりあげられているかは明らかだろう。
「匂い」が、あるいは触感が過去を現前させるのは、プルウストの有名なプティット・マドレエヌの挿話を想わせ、その点でも「眠れる美女」は川端氏の小説がしばしばそうであるように前衛的な趣さえ有するが、ここには「見出された時」を求めようとする意志が欠けている。いや、むしろ意志の放棄によって成立しているという点で、これはほとんど反・小説的な作品である。(中略)
女体への憧憬(どうけい)
『山の音』でも「みづうみ」でも川端氏は老人の女体への憧憬を描いた。憧憬が専ら感覚のゆらぎとして歌われるのは「眠れる美女」でも同様だが、ここではその感覚の 衰弱と荒廃を美に仕立てあげようとする詭計がからくも功を奏したというべきであろう。この作品のエロティシズムは、生命からではなく、死の感覚をもてあそぶところから生れている。そういえば「眠れる美女」という童話があったが、川端氏の作品は、人工が最も根源的な生の秘密をあばき出しているという意味で、一首の裏返された童話だともいえるのである。
この時評は、時評を超えて、「眠れる美女」という作品の本質をかなり深く指摘していると思われる。
なかでも、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の冒頭の挿話(そうわ)に言及(げんきゅう)しながら、「眠れる美女」の前衛性を指摘し、作者が小説を作ろうとする意志を放棄している点から「これはほとんど反・小説的な作品である」と規定していることは、江藤淳らしい卓見である。
「眠れる美女」は、どんな物語なのか?
江藤淳の批評を読んだ読者は、いったい、「眠れる美女」とは、どんな作品なのだろうと不思議に思うだろう。
この作品の主人公は、江口老人である。彼は70歳を過ぎた老人だ。世間的には成功したらしい。だから、お金がある。だからこそ、こんな贅沢(ぜいたく)なこともできるのだろうが、江口老人は、友人に教えられて、ある秘密の家に通うようになったのである。
その秘密の家、というのは、老人の客が行くと、一室に通される。そこには、睡眠薬によって昏睡状態になった若い女性が、裸身で横たわっている、というのだ。
老人は、ひと晩、その裸身の女性と一つの蒲団(ふとん)の中で過ごす、という仕組みである。
若い読者にとっては、奇妙なものに思われるだろうが、老人にとっては、若い女性、しかも裸身の女性と一夜をともに過ごすなんて、これ以上にない極楽世界なのだ。
この宿を教えてくれた友人は言った。「まるで秘仏と寝るようだ」と。
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