小谷野敦「川端康成伝―双面の人」の基本的ミスの数々
小谷野敦のこの書にあえて批判を加えるのは、黙殺すると、小谷野敦氏の誤った指摘が、事情を知らぬ世間に通用してしまう危険があるからである。康成の姉が、父の子ではなく祖父が尼僧に産ませた子であった、などという説は、好奇な話題をよろこぶ世間からはもてはやされるかもしれないが、康成が生涯にわたって慕いつづけた祖父三八郎の人格の尊厳を損なうものであり、父栄吉をも巻き込んで、間接的に康成の人権人格をも毀損することになる。
伝記の名で書をものする以上、その真実に可能なかぎり近づこうとすることは大切だが、根拠のある確かな事実を無視し、無理な解釈を加え、信頼できない断片を恣意につなげて空想すると、とんでもない妄説が出来上がる。心すべきことであろう。
多すぎる基本的ミス
ちなみに、小谷野敦のこの書は、川端文学についての基本的なミスが多すぎる。
1 「叔父の黒田秀太郎」(93頁)……「叔父」は「伯父」の間違い。
2 「「湯ケ島の思ひ出」の前半は破棄された」(94頁)
……正しくは「湯ケ島での思ひ出」、前半は破棄されず、後年、「少年」に存分に生かされた。
3「川端の全文章を通覧しても、「平清盛」とか「織田信長」とかいう名前は、皆無に近いほどに登場しない」(294頁)
……生前最後に発表された「夢 幻の如くなり」の最後に、信長が敦盛の舞を舞う場面が描かれている。康成の自裁を示唆するキイワードとして信長の挿話が用いられているのだ。
4「歴史ものを扱うことの多い歌舞伎や能楽に、川端が関心を示さなかったのも当然であろう」(295頁)
……「山の音」「たんぽぽ」「隅田川」において能は大きな役割を担っている。戦後の川端文学は、重要作品が能楽の主題を踏まえて描かれている。
小谷野敦氏は、「山の音」の、あの有名な、能楽「卒塔婆小町」が引用された部分を読んでいないのだろうか。
もちろん、自裁の半年前(昭和46年11月、『新潮』)の重要作品「隅田川」も、能楽の主題を踏まえて構想された「たんぽぽ」も、読んでいないのだろうか。読んでいたら、こんな馬鹿げたことは書けないはずだ。いったい、重要な作品を読まずして、作家の評伝を書けるものだろうか。
5 「『平家物語』『太平記』といった軍記物語を、日本の文学的伝統からは除外しているのだ」(326頁)
……「東海道」冒頭を精読すれば、わかる。康成は太平洋戦争を「平家物語」「太平記」の時代と重ねて語っている。
6 「幕府の内紛で殺されるにいたった足利九代将軍義尚」(331頁)
……義尚(よしひさ)は内紛で殺されたのではない。「東海道」には、義尚の病死した前後の模様が詳述されている。
7「川端が愛した日本古典の美というのは、あくまで平安朝的な公家文化のことであり、武家文化ではなかった」(331頁)
……これも「東海道」を読めば一目瞭然。また「美しい日本の私」においても、武家文化から生まれた禅宗文化が重視されていることは周知のとおりである。
8 「(昭和25年)6月に朝鮮戦争が始まった。7月の『世界』は「ヒロシマを忘れるな――日本ペンクラブ『ヒロシマの会』によせて」を特集、『キング』は「広島から長崎へ」を特集したが、いずれにも川端は書いていない」(393頁)
……康成は『キング』に「武器は戦争を招く」を掲載している。これも、『キング』に眼を通せば、すぐわかることである。基礎的ミスだ。
等々……。
ほんの一部を挙げてみたのだが、研究者なら容易に気づく基本的な過ちを、この書は大量に垂れ流している。著者が知名の人であり、この書も社会的に影響力をもつ可能性があるので、いかに誤りの多い書であるかを知っていただくため、研究者の立場から、あえて一言させていただいた。
発売直後なら、販売に影響を与えてはいけないので、あえて発売3年後の今まで、指摘しないで来た。
反論するなら、公の場でせよ
反論があるなら、一つ一つ、活字にするか、インターネット上で、堂々と論駁していただきたい。暴力団員みたいに 、電話やメールで恫喝し脅迫するのは、小谷野敦氏の悪い癖である。
志賀直哉「暗夜行路」も知らないのか!
小谷野敦氏は、康成の姉芳子を称随の産んだ子であると述べた後に、いかにも知ったかぶりに、「当時の中産階級にこのようなことがあったのは、志賀直哉「暗夜行路」の謙作と祖父との事実でもわかる」という意味のことを書いている。
ところが「暗夜行路」の、謙作が祖父の子であるという設定がフィクションであることは、志賀直哉自身が明確に書いている。「続創作余談」に、以下のような趣旨の文章がある。
「尾道にいた頃、四国に旅行し、屋島の宿で、この設定を思いついた。それを、我孫子にいた時代に用いて書いたのだ、」と。
日本近代文学を少しでもかじったことのある者なら、こんな常識は誰でも知っている。小谷野敦氏は、同じ白樺派の里見の評伝も書いていながら、こんな基礎的事実もご存知ないのだろうか。
小谷野敦のこの書にあえて批判を加えるのは、黙殺すると、小谷野敦氏の誤った指摘が、事情を知らぬ世間に通用してしまう危険があるからである。康成の姉が、父の子ではなく祖父が尼僧に産ませた子であった、などという説は、好奇な話題をよろこぶ世間からはもてはやされるかもしれないが、康成が生涯にわたって慕いつづけた祖父三八郎の人格の尊厳を損なうものであり、父栄吉をも巻き込んで、間接的に康成の人権人格をも毀損することになる。
伝記の名で書をものする以上、その真実に可能なかぎり近づこうとすることは大切だが、根拠のある確かな事実を無視し、無理な解釈を加え、信頼できない断片を恣意につなげて空想すると、とんでもない妄説が出来上がる。心すべきことであろう。
多すぎる基本的ミス
ちなみに、小谷野敦のこの書は、川端文学についての基本的なミスが多すぎる。
1 「叔父の黒田秀太郎」(93頁)……「叔父」は「伯父」の間違い。
2 「「湯ケ島の思ひ出」の前半は破棄された」(94頁)
……正しくは「湯ケ島での思ひ出」、前半は破棄されず、後年、「少年」に存分に生かされた。
3「川端の全文章を通覧しても、「平清盛」とか「織田信長」とかいう名前は、皆無に近いほどに登場しない」(294頁)
……生前最後に発表された「夢 幻の如くなり」の最後に、信長が敦盛の舞を舞う場面が描かれている。康成の自裁を示唆するキイワードとして信長の挿話が用いられているのだ。
4「歴史ものを扱うことの多い歌舞伎や能楽に、川端が関心を示さなかったのも当然であろう」(295頁)
……「山の音」「たんぽぽ」「隅田川」において能は大きな役割を担っている。戦後の川端文学は、重要作品が能楽の主題を踏まえて描かれている。
小谷野敦氏は、「山の音」の、あの有名な、能楽「卒塔婆小町」が引用された部分を読んでいないのだろうか。
もちろん、自裁の半年前(昭和46年11月、『新潮』)の重要作品「隅田川」も、能楽の主題を踏まえて構想された「たんぽぽ」も、読んでいないのだろうか。読んでいたら、こんな馬鹿げたことは書けないはずだ。いったい、重要な作品を読まずして、作家の評伝を書けるものだろうか。
5 「『平家物語』『太平記』といった軍記物語を、日本の文学的伝統からは除外しているのだ」(326頁)
……「東海道」冒頭を精読すれば、わかる。康成は太平洋戦争を「平家物語」「太平記」の時代と重ねて語っている。
6 「幕府の内紛で殺されるにいたった足利九代将軍義尚」(331頁)
……義尚(よしひさ)は内紛で殺されたのではない。「東海道」には、義尚の病死した前後の模様が詳述されている。
7「川端が愛した日本古典の美というのは、あくまで平安朝的な公家文化のことであり、武家文化ではなかった」(331頁)
……これも「東海道」を読めば一目瞭然。また「美しい日本の私」においても、武家文化から生まれた禅宗文化が重視されていることは周知のとおりである。
8 「(昭和25年)6月に朝鮮戦争が始まった。7月の『世界』は「ヒロシマを忘れるな――日本ペンクラブ『ヒロシマの会』によせて」を特集、『キング』は「広島から長崎へ」を特集したが、いずれにも川端は書いていない」(393頁)
……康成は『キング』に「武器は戦争を招く」を掲載している。これも、『キング』に眼を通せば、すぐわかることである。基礎的ミスだ。
等々……。
ほんの一部を挙げてみたのだが、研究者なら容易に気づく基本的な過ちを、この書は大量に垂れ流している。著者が知名の人であり、この書も社会的に影響力をもつ可能性があるので、いかに誤りの多い書であるかを知っていただくため、研究者の立場から、あえて一言させていただいた。
発売直後なら、販売に影響を与えてはいけないので、あえて発売3年後の今まで、指摘しないで来た。
反論するなら、公の場でせよ
反論があるなら、一つ一つ、活字にするか、インターネット上で、堂々と論駁していただきたい。暴力団員みたいに 、電話やメールで恫喝し脅迫するのは、小谷野敦氏の悪い癖である。
志賀直哉「暗夜行路」も知らないのか!
小谷野敦氏は、康成の姉芳子を称随の産んだ子であると述べた後に、いかにも知ったかぶりに、「当時の中産階級にこのようなことがあったのは、志賀直哉「暗夜行路」の謙作と祖父との事実でもわかる」という意味のことを書いている。
ところが「暗夜行路」の、謙作が祖父の子であるという設定がフィクションであることは、志賀直哉自身が明確に書いている。「続創作余談」に、以下のような趣旨の文章がある。
「尾道にいた頃、四国に旅行し、屋島の宿で、この設定を思いついた。それを、我孫子にいた時代に用いて書いたのだ、」と。
日本近代文学を少しでもかじったことのある者なら、こんな常識は誰でも知っている。小谷野敦氏は、同じ白樺派の里見の評伝も書いていながら、こんな基礎的事実もご存知ないのだろうか。