近刊『魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―』装幀(上下)
皆さん、こんばんは。
連載4年半、52ヶ月、本の作成(校正、加筆推敲など4回)に2年かかった拙著が、ついに刊行されることになりました。
8月末か9月初旬です。
上記の写真は、その外箱の装幀です。デザイナー盛川和洋氏の手になるものです。
まず、上巻の写真に、ご注目ください。
そう、最近話題になった、川端康成の初恋のひと、伊藤初代を中心に、三人がうつった写真ですね。
ところは、岐阜市瀬古写真館、ときは、今を去ること93年、大正10年(1921年)10月9日のことです。
右端の人物は、新聞では、カットされていることが多かったですね。ところが、この人物・三明永無(みあけ えいむ)こそ、川端の恋を応援し、婚約も、じつは、この三明が初代を説得して成立したものなのです。
三明永無は、名前が表すように、仏門の出身です。島根県大田市温泉津(ゆのつ)の名刹(めいさつ)瑞泉寺に生まれました。浄土真宗の寺です。石見銀山の傍らにあり、その冨を象徴して、絢爛(けんらん)たる内陣が、今も残っています。
三明永無は、杵築(きづき)中学(現、大社高校)を首席で卒業した秀才でした。
一高の寮で同室になると、三明永無を先頭に、4人の仲間ができました。石濱金作、鈴木彦次郎と、この二人の、計4人です。
一高3年のころから、彼ら4人は夕食後、散歩に出かけ、寮に近い本郷のカフェ・エランに通うようになりました。
そこに、14歳の可憐な少女、伊藤初代が女給として、いたからです。
彼女は、会津若松で生まれ、早くに母親をなくし、父親とも別れて親戚と一緒に上京した、貧しい少女でした。親戚から見捨てられた形になった初代を、お母さんのように世話したのは、偶然に出会った、山田ます、という女性でした。
山田ますは、夫とともに、カフェ・エランを開きました。そして初代も、その店に出たのです。
松井須磨子の全盛期でした。彼女が舞台で歌い、評判になった歌を、初代と3人の学生たちは、一緒に歌いました。でも、恥ずかしがり屋で、臆病な康成は歌えず、黙って聞いていました。
しかし、彼らが一高を卒業し、東大に進んだころ、山田ます(そのころは、すでに夫と別れていました)の新しい恋によって、ますは、カフェを閉じ、新しい恋人と結婚するため、台湾に行きました。恋人が、台湾銀行に就職することが決まっていたからです。
しかし、ますは、初代のことが心配で、自分の実の姉が岐阜の寺にとついでいることから、その住職夫妻の養女になるように、取り計らいました。
このため、伊藤初代は、岐阜にいたのです。
三明永無に誘われて、岐阜に途中下車した康成たちは、その西方寺という寺を訪ねました。そして初代は、康成にも、やさしい口をきいたのです。
しかも初代は、あの、東京本郷で、学生たちの人気者であった日々を忘れかねていました。貧乏なお寺はいやだ、東京に帰りたい、と言いました。
その言葉で、康成の恋が再燃したのです。ずっと、初代を好きでいて、でも、あきらめていたのでした。
物心がついたとき、すでに両親が病死していた康成は、自分が〈孤児〉であることを自覚していました。
そして、母親を早く亡くし、父親とも縁のうすい伊藤初代に、自分と似た境遇を感じ、それがいっそう、恋情をつよくかきたてたのでした。
初代と結婚したい、と打ち明けた康成を、三明永無は応援する、と誓いました。
そして実際、大正10年10月に、二人は夜行列車に乗って岐阜に行き、寺を訪れました。
三明永無の巧みな話術で、初代を長良川沿いの宿に誘うことに成功しました。
三明は、康成がいないところで、初代に、「お前にはお似合いの相手だ。結婚しろ」と説きました。
かねてから、三明を兄のように慕っていた初代は、その言葉に従いました。
康成から訊(たず)ねられた時、「もらっていただければ、幸せですわ」と初代は答えました。
3人は、夜、宿の二階から、鵜(う)飼いの舟が下ってくるのを見ました。
舟で燃やす、かがり火が、初代の顔を染めていました。
「初代がこんなに美しいのは、今夜が初めてだ。彼女の人生にとっても、今がいちばん美しい時だ」と、康成は思いました。
そのことを書いたのが、「篝火」(かがりび)という作品です。
ああ、もう、こんな時間になってしまいました。下巻の写真については、また、明日、お話いたしましょう。
では、みなさん、おやすみなさい。
皆さん、こんばんは。
連載4年半、52ヶ月、本の作成(校正、加筆推敲など4回)に2年かかった拙著が、ついに刊行されることになりました。
8月末か9月初旬です。
上記の写真は、その外箱の装幀です。デザイナー盛川和洋氏の手になるものです。
まず、上巻の写真に、ご注目ください。
そう、最近話題になった、川端康成の初恋のひと、伊藤初代を中心に、三人がうつった写真ですね。
ところは、岐阜市瀬古写真館、ときは、今を去ること93年、大正10年(1921年)10月9日のことです。
右端の人物は、新聞では、カットされていることが多かったですね。ところが、この人物・三明永無(みあけ えいむ)こそ、川端の恋を応援し、婚約も、じつは、この三明が初代を説得して成立したものなのです。
三明永無は、名前が表すように、仏門の出身です。島根県大田市温泉津(ゆのつ)の名刹(めいさつ)瑞泉寺に生まれました。浄土真宗の寺です。石見銀山の傍らにあり、その冨を象徴して、絢爛(けんらん)たる内陣が、今も残っています。
三明永無は、杵築(きづき)中学(現、大社高校)を首席で卒業した秀才でした。
一高の寮で同室になると、三明永無を先頭に、4人の仲間ができました。石濱金作、鈴木彦次郎と、この二人の、計4人です。
一高3年のころから、彼ら4人は夕食後、散歩に出かけ、寮に近い本郷のカフェ・エランに通うようになりました。
そこに、14歳の可憐な少女、伊藤初代が女給として、いたからです。
彼女は、会津若松で生まれ、早くに母親をなくし、父親とも別れて親戚と一緒に上京した、貧しい少女でした。親戚から見捨てられた形になった初代を、お母さんのように世話したのは、偶然に出会った、山田ます、という女性でした。
山田ますは、夫とともに、カフェ・エランを開きました。そして初代も、その店に出たのです。
松井須磨子の全盛期でした。彼女が舞台で歌い、評判になった歌を、初代と3人の学生たちは、一緒に歌いました。でも、恥ずかしがり屋で、臆病な康成は歌えず、黙って聞いていました。
しかし、彼らが一高を卒業し、東大に進んだころ、山田ます(そのころは、すでに夫と別れていました)の新しい恋によって、ますは、カフェを閉じ、新しい恋人と結婚するため、台湾に行きました。恋人が、台湾銀行に就職することが決まっていたからです。
しかし、ますは、初代のことが心配で、自分の実の姉が岐阜の寺にとついでいることから、その住職夫妻の養女になるように、取り計らいました。
このため、伊藤初代は、岐阜にいたのです。
三明永無に誘われて、岐阜に途中下車した康成たちは、その西方寺という寺を訪ねました。そして初代は、康成にも、やさしい口をきいたのです。
しかも初代は、あの、東京本郷で、学生たちの人気者であった日々を忘れかねていました。貧乏なお寺はいやだ、東京に帰りたい、と言いました。
その言葉で、康成の恋が再燃したのです。ずっと、初代を好きでいて、でも、あきらめていたのでした。
物心がついたとき、すでに両親が病死していた康成は、自分が〈孤児〉であることを自覚していました。
そして、母親を早く亡くし、父親とも縁のうすい伊藤初代に、自分と似た境遇を感じ、それがいっそう、恋情をつよくかきたてたのでした。
初代と結婚したい、と打ち明けた康成を、三明永無は応援する、と誓いました。
そして実際、大正10年10月に、二人は夜行列車に乗って岐阜に行き、寺を訪れました。
三明永無の巧みな話術で、初代を長良川沿いの宿に誘うことに成功しました。
三明は、康成がいないところで、初代に、「お前にはお似合いの相手だ。結婚しろ」と説きました。
かねてから、三明を兄のように慕っていた初代は、その言葉に従いました。
康成から訊(たず)ねられた時、「もらっていただければ、幸せですわ」と初代は答えました。
3人は、夜、宿の二階から、鵜(う)飼いの舟が下ってくるのを見ました。
舟で燃やす、かがり火が、初代の顔を染めていました。
「初代がこんなに美しいのは、今夜が初めてだ。彼女の人生にとっても、今がいちばん美しい時だ」と、康成は思いました。
そのことを書いたのが、「篝火」(かがりび)という作品です。
ああ、もう、こんな時間になってしまいました。下巻の写真については、また、明日、お話いたしましょう。
では、みなさん、おやすみなさい。
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