魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

川端康成と鹿屋特攻基地(3)

2020-05-25 11:25:21 | 論文 川端康成


川端康成と鹿屋特攻基地(2)

拙著「魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―」(勉誠出版、2014年8月30日刊行)第5章「戦後の出発―自己変革の時代(2)」から



 
第一節 「再会」と「生命の樹」

創作の再開

戦争末期の1945年(昭和20)年に、康成は小説を2編しか発表しなかった。1月に発表した「故園」最終回(未完)と、4月に発表した「冬の曲」(『文藝』)だけである。
戦争の終わった8月以降も、作品は発表していない。文芸雑誌が壊滅状態という事情もあった。出版社鎌倉文庫設立のために奔走していたこともある。


それが昭和21年に入ると、堰を切ったように、小説を発表しはじめる。
戦争終結によって心の重圧が除かれたせいであろうか、戦後の旺盛な創作欲を予感させる作品を書きつづけてゆく。
1月には、みずから創刊した雑誌『人間』に、短編「女の手」を発表した。
(中略)
同1月に、康成は『世界文化』創刊号に「感傷の塔」という短篇も発表している。

これは、作家である「私」が、以前から時々手紙をくれた若い女性ファンへの返書という形式で、その他の女性たちを含めた、ここ数年間の日本の女たちの有為転変を描いた作品である。
手紙の対象である藍子が山口市に住んでいることから、大内氏の築いた瑠璃光寺の五重塔を、題名としたものだろう。
ここには、戦争中に結婚し、あるいはその夫に戦死された女性たちの消息が点綴されている。たとえば藍子は、戦争の初めに結婚して、妻となり母となったが、夫の海軍大尉が昭和20年3月末、九州東方海面で戦死して、未亡人となっているのである。これを受けて「戦が終りました時に、私の生涯も終つたと、私は感じました」と、「私」は現在の心境を語っている。

同胞とともに戦へませんでした私はただ戦ふ同胞を昔ながらのあはれと思ふことで戦の下に生きてまゐりましたが、今戦敗れた同胞にそのあはれが極まりまして昔なら出家するところでありませう。

これは、「島木健作追悼」に述べた心境と同じである。康成の当時の心のうちを率直に吐露したと考えられるし、一方、太平洋戦争の数年間に日本の女性たちを襲った運命の激変への心痛をも語った一節と思われる。
「感傷の塔」は、そのような戦争直後の康成の心境を語った作品である。
「感傷の塔」は、そのような戦争直後の康成の心境を語った作品である。

第5章 戦後の出発

戦後文学の出発「再会」

昭和21年の『世界』2月号に、康成は「再会」という注目すべき作品を掲載した。つづいて『文藝春秋』6月号に、「過去」という題名で続編が発表され、同誌のつづく7月号に、ふたたび「過去」という同名の作品が発表された。
この3編は昭和28年2月、三笠書房から刊行された『再婚者』に「再会」と命名されて、収録された。ただし、このとき、前後の2編が採録されて、6月号発表の第2回は削除された。以後、この『再婚者』の本文が諸全集に定本として収録されている。本稿でも、この本文をもとに考察を加えることとする。

「再会」は、このように書き出される。

敗戦後の厚木祐三の生活は富士子との再会から始まりさうだ。あるひは、富士子と再会したと言ふよりも、祐三自身と再会したと言ふべきかもしれなかつた。

祐三の富士子との再会を、康成は冒頭から、祐三は「自身と再会した」と述べている。ここに、作品の主題は凝縮されている。
「ああ、生きてゐたと、祐三は富士子を見て驚きに打たれた。それは歓びも悲しみもまじへない単純な驚きだつた」と康成は書く。
「祐三は過去に出会つたのだ」「眼前で過去が現在へつながつたことに祐三は驚いたのだつた」とも書いている。
今の祐三の場合の過去と現在との間には、戦争があつた。
祐三の迂闊な驚きも無論戦争のせゐにちがひなかつた。
戦争に埋没してゐたものが復活した驚愕とも言へるだらう。あの殺戮と破壊の怒濤が、しかし微小な男女間の瑣事を消滅し得なかつたのだ。
祐三と富士子は、戦争前に男女の仲であった。それが戦争の間におそらく自然に別れ、それぞれの生活に埋没して、相手のことをほとんど忘れていたのである。
それほどに戦争の暴威はすさまじかった。「あの殺戮と破壊の怒濤」の数年間が、男女の仲を裂いたどころか、相手を忘れるほどまでに、それを「過去」のこととしていたのだ。

それが一瞬に、眼前で「過去が現在へつながつた」。そのことに祐三は驚く。

ふたりが再会したのは、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の境内である。降伏からまだ2ヶ月余りの、「多くの人々は国家と個人の過去と現在と未来とが解体して錯乱する渦巻に溺れてゐるやうな時」である。
実朝(さねとも)の文事から発想されたらしい「文墨祭」が催されて、進駐軍も招待されている。
人々はまだ空襲下の、戦災者の服装から脱していない。そこへ、振り袖の令嬢の一群が現れて、祐三は眼の覚める思いをしたところだった。木立の中に茶席をもうけて、アメリカ兵を接待するための少女たちである。
やがて社の舞殿で踊りが始まる。
浦安の舞、獅子舞、静(しづか)の舞、元禄花見踊――亡び去った日本の姿が笛の音のように祐三の胸を流れた。令嬢たちの振り袖が「泥沼の花」のように見えた。
その舞姿を目で追っている祐三の視線が、ふと富士子の顔を認めたのだ。

おやと驚くと祐三はかへつて瞬間ぼんやりした。こいつを見てゐるとつまらないことになるぞと内心警戒しながら、しかも相手の富士子が生きた人間とも自分に害を及ぼす物とも感じられなくて、直ぐには目をそむけようとしなかつた。
無意識のうちに女との再会を警戒する祐三は、もはや人生の辛酸をある程度経験している中年の男である。40を1つ2つ過ぎた年齢だ。しかも祐三は心の隙に、「なにか肉体的な温かさ、自分の一部に出会つたやうな親しさが、生き生きとこみあげて」きて、それが警戒心を上回るのである。

祐三は失心しさうな人を呼びさますやうな気組で、いきなり富士子の背に手をおいた。
「ああ。」
富士子はゆつくり倒れかかつて来さうに見えて、しやんと立つと、體(からだ)のびりびり顫(ふる)へるのが、祐三の腕に伝はつた。

なまなましい再会である。この再会の危険と魅惑を、康成は次のように書く。

この女と祐三が再会すれば道徳上の問題や実生活の面倒がむし返されるはずで、言はば好んで腐れ縁につかまるのだから、さつきも警戒心がひらめいたのだが、ひよつと溝を飛び越えるやうに、富士子を拾つてしまつた。

当然ながら、祐三には妻と家族があった。富士子はひとり身であった。再会すれば「道徳上の問題」「実生活の面倒」がむし返されることになる「腐れ縁」である。それを無意識のうちに認めながら、祐三は富士子を拾ってしまった。
ふたりは、戦争の間の消息を、お互いに探り合う。どちらも家を焼かれ、あるいは焼け出されていた。
富士子は祐三が「お変りにならないわねえ」と言う。これに対して祐三は、富士子が小太りだったのがげっそり瘦せて、切れの長い目ばかりが不自然に光るのを見る。以前気になったほどの年齢差が感じられなくなっている。
「祐三が富士子と別れ得たのは、幾年かの悪縁から放たれたのは、戦争の暴力のせゐだつたらう。微小な男女間の瑣事にからまる良心などは激流に棄ててゐられたのだらう。」
その激流を経たおかげで、富士子は祐三を非難したり恨んだりしたりすることを忘れているようであった。

しかし富士子は、祐三に早速、難題をふりかける。

「ねえ、お願ひ、聞いて下さらなければいやよ。」
「…………。」
「ねえ、私を養つて頂戴。」
「え、養ふつて……?」
「ほんの、ほんのちよつとの間でいいの。御迷惑かけないでおとなしくしてるわ。」
祐三はついいやな顔をして富士子を見た。
「今どうして暮してるの?」
「食べられないことはないのよ。さういふんぢやないの。私生活をし直したいの。あなたのところから出発させてほしいの。」

「出発ぢやなくて、逆戻りぢやないか。」
「逆戻りぢやないわ。出発の気合をかけていただくだけよ。きつと私ひとりで直ぐ出てゆくわ。―このままぢやだめ、このままぢや私だめよ。ね、ちよつとだけつかまらせて頂戴。」
どこまで本音か、祐三は聞きわけかねた。巧妙な罠のようにも感じた。

―ここで舞台はがらりと転換する。
群衆の拍手の中を、進駐軍の軍楽隊が入場してくる。20人ばかりだ。そして彼らは舞台に上がると、無造作に吹奏楽を吹き鳴らした。
その吹奏楽器の第一音がいっせいに鳴った瞬間、祐三はあっと胸を起こす。目が覚めたように頭の雲が拭われた。
なんという明るい国だろうと、祐三はいまさらながら、アメリカという国に驚く。
」」

「再会」の意義

「再会」の後半、祐三と富士子は、何ということもなく電車に乗って東京へ出る。

横浜を過ぎるころから、夕べの色が沈んできた。

長いこと鼻についていた焦げくさい臭気はさすがにもうなくなったが、いつまでも埃を立てているような焼け跡だ。
祐三がいつもは降りる品川も通りすぎてしまう。かつて、ふたりは新橋で降りて銀座へ出たものだったが、その新橋も通りすぎてしまう。
富士子は、いま自分の住んでいる土地を明かさない。祐三も、友人の六畳間に置いてもらっている、というばかりだ。再会したばかりなのに、祐三の胸には、今度もうまく富士子を振り落とすことができるだろうかという狡猾な打算もはたらく。
東京駅のホオムで、祐三は通勤の折々、しばしば目にした餓死に近い姿の復員兵の群れを思い出す。

この戦争のやうに多くの兵員を遠隔の外地に置き去りして後退し、そのまま見捨てて降伏した敗戦は、歴史に例があるまい。

と思う。これは、祐三の心に託して、作者の怒りが噴出した言葉であろう。日本軍の行った戦争に対する康成の評価として重要だ。
東京駅のホオムを降りて、丸ビルの横に出るが、それまでにふたりは、帰国の汽車を待つ朝鮮人の群れや、翌日の切符の売り出しを待つ日本人の疲れた行列も見る。
丸ビルの前へ来ると、16,7の汚い娘がいて、アメリカ兵が通りかかるたび、取りすがるように呼びかける光景も見た。乞食か浮浪児か気ちがいか、わからぬが、富士子は眉をひそめる。

――夜になって、銀座のあたりから、人通りの稀な焼け跡の暗がりを、ふたりは根比べのように歩く。
富士子がふと告白する。

こんな晩に、上野駅に行列していたとき、「あらと気がついて、うしろへ手をやると濡れてるの」と息をつめた口調で、「うしろの人に、着物をよごされたのよ。」「……私、ぞうつと顫へて、列を離れちやつたの。男の人つて気味が悪いのねえ。あんな時によくまあ……。おお、こはい。」

敗戦後の錯綜した空気の中でも、痴漢めいた行為をする男はいたのだ。

――焼け跡にも、ぽつぽつ、建ちかけのバラックがあった。夜が深まってきたころ、ふたりは、瓦礫の上で結ばれる。

温かく柔かいものはなんとも言へぬ親しさで、あまりに素直な安息に似て、むしろ神秘な驚きにしびれるやうでもあつた。
そこには、病後に会う女の甘い恢復があった。
手にふれる富士子の肩は瘦せ出た骨だし、胸にもたれかかつて来るのは深い疲労の重みなのに、祐三は異性そのものとの再会と感じるのだつた。
生き生きと復活して来るものがあつた。
祐三は瓦礫の上からバラツクの方へ降りた。
窓の戸も床もまだないらしく、傍によると薄い板の踏み破れる音がした。

「再会」は、このような文章で閉じられる。

地下水のような人間の内面

この作品の主題は、いうまでもなく、「生き生きと復活して来るものがあつた」という一行に凝縮されている。
祐三は自分自身に再会したのであり、過去に再会したのだ。
あの殺戮と破壊の怒濤のなかで完全に抹消されたはずの男女間の瑣事がよみがえったことへの新鮮な驚き、それがこの作品の眼目である。建ちかけのバラックの散見する焼け跡の瓦礫の上で結ばれたとき、祐三のうちに「生き生きと復活して来るものがあつた」というのは、あの未曾有の戦争をくぐり抜けたあとの、虚脱と活気が奇妙に交錯していた一時期をありありと読者に追体験させる。同時に、戦争の怒濤でさえも吹き消すことのできぬ、人間の心の不可思議さを、あらためて読者に開示しているのである。

この発見――つまり、いかなる外圧をもってしても搔き消すことのできぬ人間の深層心理の無気味な生命力、地下水のように脈々と過去から現在へと流れつづける人間の内面の奥深い部分――。
これを確認したとき、康成は戦後を生き始めたのであり、あえていうと、「再会」を書き終えた瞬間、康成の晩年は始まっていた。
そして「生命の樹」を経て「反橋」(そりはし)「しぐれ」「住吉」の3部作によって、康成はもはや引き返すことの不可能な領域に決定的に踏み込んだ、といえるのである。

もう1つ、この作品で驚かされるのは、敗戦後2ヶ月の、鎌倉と東京の、情景と風俗・世相が、微細に描きこまれていることだ。
鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の境内の情景、鎌倉から東京へ出る電車から見えた景色、そして何よりも、東京駅のホオムから構内、そこから茫漠とひろがる焼け跡の情景と風俗・世相が、みごとに活写されている。
康成が「私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものもあるひは信じない」と宣言するのは、翌22年10月の「哀愁」においてであるが、それは決して、戦後の世相、風俗から目を逸(そ)らす、という意味ではなかった。それどころか、康成は恐ろしいばかりの冷徹な眼によって、戦前から様変わりした戦後の日本の現実を凝視し、その本質を洞察しているのである。
ただ、康成は、戦後の現実をとらえても、それに同調し、同化されるのではなかった。戦時下から戦後にかけて、みずからの内に確乎として定めた、「日本古来の悲しみ」のほかのことは一行も書かぬ、という決意が揺らぐことはなかった。
富士子との再会が祐三にもたらしたものは、「自身の発見」であり、「過去への再会」であり、男女の仲のもつ、「温かく柔かいもの」であり、「素直な安息」、「神秘な驚き」であり、しびれるような「病後に会ふ女の甘い恢復」であった。
男と女の仲こそ、日本古来の人々が最も大切にし、また溺れてきた「あはれ」である。

「再会」は、康成が戦後に最初に描いた男女の物語であり、それは「住吉」連作を経て「山の音」「千羽鶴」へと飛躍してゆく、男女の物語の嚆矢(こうし)だったのである。


以下つづく




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