大正10年、川端康成の汽車の旅
川端康成と伊藤初代
康成と永無は、どの列車で岐阜に行ったのか?
偶然にも、去年2019年は、明治32年(1899)に生まれた康成の生誕120年の年であり、しかも初恋の女性伊藤初代と、本郷元町2丁目のカフェ・エランで出会った大正8年(1919)から、ちょうど100年に当たる節目の年であった。
「篝火(かがりび)」「非常」「南方の火」「彼女の盛装」など、岐阜で二人が結婚の約束をした、大正10年秋の一連の出来事を描いた作品を読んでゆくと、いやでも康成たちの汽車の旅が浮かんでくる。
9月16日の最初の訪問は、夏休みが終わって東京へ帰る途上、島根県温泉津(ゆのつ)から山陰本線で来た三明永無(みあけ・えいむ)と、大阪に帰省していた康成が前日、京都駅で落ち合い、東海道線の汽車に乗って岐阜に着いたのである。それも「午前2時」、岐阜駅に着いたと康成は「新晴」に明記している。そして駅前の「壁の赤い宿」(濃陽館支店)に落ち着いて朝を迎え、それから初代の寄寓している西方寺を三明が訪れて連れ出したのである。
2度目は10月8日で、東京駅から汽車に乗って、やはり夜明けに岐阜駅に着き、駅前の宿で朝食をとる。この日も、二人は初代を寺から連れ出すことに成功して、長良川に面した宿(鐘秀館)で、康成の結婚の申し入れ(これは、三明永無が代わりにしてくれていた)の返事を訊く。幸いにも、初代が受諾してくれたので、三人はこの宿で鵜飼の「篝火」を見る。康成はこのあと初代を寺へ送ってゆき、三明と康成はこの宿に泊まる。
翌9日、約束どおり初代は寺から出てくる。三人は岐阜市内の繁華街に出て、裁判所の前の瀬古写真館で記念の写真を撮るのだ。
その夜、二人は東京へ帰る。康成は催眠剤を飲みすぎて座席からころげ落ちたりする。
次には、この10月の末、三明永無の提唱で、エランへ通った鈴木彦次郎、石浜金作と、計4人の帝大生は、制服を着て夜行列車に乗り、初代の父親の住む遠い岩手県の岩谷堂へ行く。東北本線の水沢駅で降り、父親が小使として勤める岩谷堂小学校を訪ねて、結婚の承諾をもとめる。「南方の火」に「土曜日の朝だつた」と明記されているので、大正10年の暦を調べると、これが10月29日であったことがわかる。。
翌30日朝、彼らは水沢駅を発ち、鈴木彦次郎の郷里である盛岡に寄り、鈴木宅に一泊して、翌11月1日、東京に帰り着く。
いずれも、夜行列車による行程である。
ところが11月8日、東京浅草の康成の下宿へ、岐阜の初代から「非常」の手紙が来て愕然とし、康成は一人で最終の夜行に乗って岐阜へ急行する。
朝、岐阜駅に着くと、駅の柱という柱は紅白の布に覆われて、祝賀模様だった。駅前の宿で尋ねると、11月1日に岐阜駅が一等駅に昇格した、その祝賀だというのであった。
……このように康成はこの秋、岐阜へ3度、岩手県の岩谷堂へ1度、計4度の、大きな汽車の旅をした。前後の叙述から、これらの旅はいずれも夜行列車を用いたものと推定される。
この経過を文章に書いていると、当然、「いったい彼らは何時に京都や東京を発ち、何時に岐阜に着いたのだろう?」という疑問が湧いてくる。
これらの日程は、作品中にかなり細かく描かれているが、肝腎の、汽車の時刻がわからない。これまで誰も調べた人はない。
そこで私は大望を抱いた。康成が乗った、これらの汽車の時刻を調べる、そしてその結果を今度の本に書き込むという野望である。
いずれも夜行列車だ。多分、急行列車であろうが、当時の時刻表を見ようにも、どうすればよいか、手につかない。そんな本があるだろうか。
そこで私は、アマゾンでさまざまに検索してみた。「夜汽車」とか「夜行列車」とか、「時刻表」「岐阜駅」「東海道本線」など……。
すると、こんな題名の本が出てきたのだ。
三宅俊彦「時刻表でたどる夜行列車の歴史」――これには、ピンと来るものがあった。しかもレビュー(読者による本の感想)が載っている。それを見ると、こう書いてあった。
「本書の最大の特徴は、歴代夜行列車の登場→廃止年月日が、臨時便以外はすべて網羅されていることです。」
私は狂喜した。この本を見れば、大正十年に東海道線や東北本線を走っていた夜行列車の時刻表が一目瞭然なのかもしれない。もしそうだったら、私の野望は、この本1冊によって達せられるかもしれない……。
早速、購入を申し込むと、3日めには郵便受けに届いていた。値段の割には薄いのがちょっと気になったが、包みを開くと、何と、これは昭和31年以降の夜行列車を取り上げたものだった。「歴代の」とあったので、当然、明治以来の夜行列車が網羅されていると思ったのが甘かった。ブルートレインは確かに美しいが、今の私に関心はない。
……以後の紆余曲折は、省く。
結局、近くの姫路市立城内図書館に依頼して、『復刻版 明治大正鉄道省列車時刻表』新人物往来社・2000年、『復刻版 明治大正時刻表』同・1998年、の2つのセットを取り寄せていただいた。個人で買える価格ではない。
すると後者に、捜し求めていた大正10年8月改訂の時刻表が1冊、入っていたのである。康成の旅の直前に改訂されたばかりのものだ。
康成が三明永無と前日、京都の停車場で落ち合って、岐阜駅に初めて降り立った9月16日の訪問について、習作「新晴」に康成は、前日、島根県から山陰本線で来た三明永無と「京都の駅で待合はし」、「午前2時」岐阜に着いた、と書いている。
この表現を手がかりとして、この時刻表によって、二人が乗った汽車を割り出してみよう。
この時刻表によると、京都から岐阜に至る上り列車は、1日に特急が1本、急行列車が6本、普通列車が10本ある。
このうち、「午前2時」前後に岐阜着の列車は、午後10:41京都を発して、午前01:36岐阜発の、急行列車第14号以外に該当するものはない。午前2時ちょうどではないが、次の午前02:59岐阜発の列車なら、康成は「午前3時」と書いただろうから、これは該当しない。
二人は、神戸始発午後08:40、東京着午前11:40の急行列車第14号に乗って岐阜に着き、駅前の「壁の赤い宿」濃陽館支店に旅装を解き、朝まで仮眠したと確定できるのだ。
『文芸日女道』622号(2020.02.05)
川端康成と伊藤初代
康成と永無は、どの列車で岐阜に行ったのか?
偶然にも、去年2019年は、明治32年(1899)に生まれた康成の生誕120年の年であり、しかも初恋の女性伊藤初代と、本郷元町2丁目のカフェ・エランで出会った大正8年(1919)から、ちょうど100年に当たる節目の年であった。
「篝火(かがりび)」「非常」「南方の火」「彼女の盛装」など、岐阜で二人が結婚の約束をした、大正10年秋の一連の出来事を描いた作品を読んでゆくと、いやでも康成たちの汽車の旅が浮かんでくる。
9月16日の最初の訪問は、夏休みが終わって東京へ帰る途上、島根県温泉津(ゆのつ)から山陰本線で来た三明永無(みあけ・えいむ)と、大阪に帰省していた康成が前日、京都駅で落ち合い、東海道線の汽車に乗って岐阜に着いたのである。それも「午前2時」、岐阜駅に着いたと康成は「新晴」に明記している。そして駅前の「壁の赤い宿」(濃陽館支店)に落ち着いて朝を迎え、それから初代の寄寓している西方寺を三明が訪れて連れ出したのである。
2度目は10月8日で、東京駅から汽車に乗って、やはり夜明けに岐阜駅に着き、駅前の宿で朝食をとる。この日も、二人は初代を寺から連れ出すことに成功して、長良川に面した宿(鐘秀館)で、康成の結婚の申し入れ(これは、三明永無が代わりにしてくれていた)の返事を訊く。幸いにも、初代が受諾してくれたので、三人はこの宿で鵜飼の「篝火」を見る。康成はこのあと初代を寺へ送ってゆき、三明と康成はこの宿に泊まる。
翌9日、約束どおり初代は寺から出てくる。三人は岐阜市内の繁華街に出て、裁判所の前の瀬古写真館で記念の写真を撮るのだ。
その夜、二人は東京へ帰る。康成は催眠剤を飲みすぎて座席からころげ落ちたりする。
次には、この10月の末、三明永無の提唱で、エランへ通った鈴木彦次郎、石浜金作と、計4人の帝大生は、制服を着て夜行列車に乗り、初代の父親の住む遠い岩手県の岩谷堂へ行く。東北本線の水沢駅で降り、父親が小使として勤める岩谷堂小学校を訪ねて、結婚の承諾をもとめる。「南方の火」に「土曜日の朝だつた」と明記されているので、大正10年の暦を調べると、これが10月29日であったことがわかる。。
翌30日朝、彼らは水沢駅を発ち、鈴木彦次郎の郷里である盛岡に寄り、鈴木宅に一泊して、翌11月1日、東京に帰り着く。
いずれも、夜行列車による行程である。
ところが11月8日、東京浅草の康成の下宿へ、岐阜の初代から「非常」の手紙が来て愕然とし、康成は一人で最終の夜行に乗って岐阜へ急行する。
朝、岐阜駅に着くと、駅の柱という柱は紅白の布に覆われて、祝賀模様だった。駅前の宿で尋ねると、11月1日に岐阜駅が一等駅に昇格した、その祝賀だというのであった。
……このように康成はこの秋、岐阜へ3度、岩手県の岩谷堂へ1度、計4度の、大きな汽車の旅をした。前後の叙述から、これらの旅はいずれも夜行列車を用いたものと推定される。
この経過を文章に書いていると、当然、「いったい彼らは何時に京都や東京を発ち、何時に岐阜に着いたのだろう?」という疑問が湧いてくる。
これらの日程は、作品中にかなり細かく描かれているが、肝腎の、汽車の時刻がわからない。これまで誰も調べた人はない。
そこで私は大望を抱いた。康成が乗った、これらの汽車の時刻を調べる、そしてその結果を今度の本に書き込むという野望である。
いずれも夜行列車だ。多分、急行列車であろうが、当時の時刻表を見ようにも、どうすればよいか、手につかない。そんな本があるだろうか。
そこで私は、アマゾンでさまざまに検索してみた。「夜汽車」とか「夜行列車」とか、「時刻表」「岐阜駅」「東海道本線」など……。
すると、こんな題名の本が出てきたのだ。
三宅俊彦「時刻表でたどる夜行列車の歴史」――これには、ピンと来るものがあった。しかもレビュー(読者による本の感想)が載っている。それを見ると、こう書いてあった。
「本書の最大の特徴は、歴代夜行列車の登場→廃止年月日が、臨時便以外はすべて網羅されていることです。」
私は狂喜した。この本を見れば、大正十年に東海道線や東北本線を走っていた夜行列車の時刻表が一目瞭然なのかもしれない。もしそうだったら、私の野望は、この本1冊によって達せられるかもしれない……。
早速、購入を申し込むと、3日めには郵便受けに届いていた。値段の割には薄いのがちょっと気になったが、包みを開くと、何と、これは昭和31年以降の夜行列車を取り上げたものだった。「歴代の」とあったので、当然、明治以来の夜行列車が網羅されていると思ったのが甘かった。ブルートレインは確かに美しいが、今の私に関心はない。
……以後の紆余曲折は、省く。
結局、近くの姫路市立城内図書館に依頼して、『復刻版 明治大正鉄道省列車時刻表』新人物往来社・2000年、『復刻版 明治大正時刻表』同・1998年、の2つのセットを取り寄せていただいた。個人で買える価格ではない。
すると後者に、捜し求めていた大正10年8月改訂の時刻表が1冊、入っていたのである。康成の旅の直前に改訂されたばかりのものだ。
康成が三明永無と前日、京都の停車場で落ち合って、岐阜駅に初めて降り立った9月16日の訪問について、習作「新晴」に康成は、前日、島根県から山陰本線で来た三明永無と「京都の駅で待合はし」、「午前2時」岐阜に着いた、と書いている。
この表現を手がかりとして、この時刻表によって、二人が乗った汽車を割り出してみよう。
この時刻表によると、京都から岐阜に至る上り列車は、1日に特急が1本、急行列車が6本、普通列車が10本ある。
このうち、「午前2時」前後に岐阜着の列車は、午後10:41京都を発して、午前01:36岐阜発の、急行列車第14号以外に該当するものはない。午前2時ちょうどではないが、次の午前02:59岐阜発の列車なら、康成は「午前3時」と書いただろうから、これは該当しない。
二人は、神戸始発午後08:40、東京着午前11:40の急行列車第14号に乗って岐阜に着き、駅前の「壁の赤い宿」濃陽館支店に旅装を解き、朝まで仮眠したと確定できるのだ。
『文芸日女道』622号(2020.02.05)
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