妹の見舞いにもこのところの猛暑で1カ月行っておりません。
balletの先生のグループが毎年開催している「東日本大震災の被害者を励ますバレエ公演 7」が横浜都築公会堂で行われました。
朝からダイレクトバスで出かけまして、先ずは妹の所を訪ねてその後都築区の公会堂へと向かいました。
妹はいつものように穏やかな顔で私を迎えてくれました。こうして何やかやと言っても動けない体でものも食べられない体で、妹が「頑張って居てくれるから、出かける楽しみもあるのよ!・・ありがとう」と話しかけたら目を潤ませてくれました。
とても気持ちが伝わることが多くて、逢う楽しみを与えてくれます。もし妹が亡くなったら千葉県からどんどん進化していく都心部を抜けて神奈川県までくることも無くなると思うと複雑な心境になります。
生きていてくれるからまわりの人たちもかかわりを持っている限り通うのですが、妹が亡くなってしまったら、多分もう都心へはめったに来なくなるのではないかと思います。「高齢者になっても、こうして一人で元気に電車に乗って来れるのはあなたのお陰ですよ!」「辛いことだらけだと思うけれど頑張っていてくださいね」と話しかけました。
3時間半ほどベッドの傍らで手を握ったり熱い蒸しタオルで顔などを拭いてやったりして過ごしました。
話せなくてもキナコの写真を見せると「キナコ」と言う言葉を口で言っている様子も見られます。スマホで近況を見せて行くと眼も動かなくなるとか云いますけれど長く時間をかけて傍にいるうちにはキョロキョロとこの病気(進行性核上麻痺)とは信じられないほど、よく眼を動かすようになります。
この難病ももう少し研究が進んでくるといいなと思います。快方に向かうのではないかと思うような(期待してはいけないのでしょうけれど)行動も時々見受けます。(素人考えなのでなんとも言えないのですが・・・)
身体が丈夫で心理的な面も充実して来れば。。とか思ってはいけないことを期待し歯がゆい思いがいたしますが・・止めましょう・・・難病ですから・・・・
手を握って話しかけていますが、瞼を閉じたり眼を動かしたり手も握り返したりと・・・十分な意思疎通が出来てとても充実した面会です。
アルバイトの水遣りで日焼けしている手が
私の手です
こんな状態なのになぜ?どうにもならないのかなぁ・・・難病なのですね。
足も自由に動かせています。首の硬直はあるのですが、それも微々たる動きではありますが少し介添えすると結構動かせます。 あぁ・・何とかしてやりたい!
痰も絡むのですが、唾液などは自分で飲み込めているような雰囲気です。
いやもう・・・やめます・・・
病院前を通過するバスが1時間に1本なので飛び乗って、都築区の公会堂へと向かいました。
丁度良く電車に乗れまして開演時間の少し前に到着
昔sazae3はたまプラーザに住んで居ました。あざみ野から新しい地下鉄でセンター南駅へ、この辺は知っているつもりで懐かしく思えるのでは・・・などと思っておりましたが、驚き桃の木山椒の木・・ウラシマ太郎子になったのではと思うほどの変化で進化していました。
あの時土地が安い千葉へ家を買わずにそのまま近くの物件を探していれば…等と後悔の念が頭をもたげますが・・・もしそうだったら・・私の半生はまた違っていたのではないかと・・・・そう思えば・・・・後悔はしません。
今の状態にあるからこそ・・という事も多々あるのですから・・・・
それにしてもその進化の仕方は想像を超えるものでした。あの頃(40年程前)横浜市営地下鉄がいずれは通る・・という事は知っていました・・・・・こんな都市になるとは・・・ねぇ・・・・
でも何とかなるといいのに・・・
妹さんはまだお若いから歯がゆいことですね。
横浜、私たちが住んでいたのは2012~2014年ですが、その間にマークイズが出来ました。みなとみらい地区や桜木町の都会っぷりは凄いと思いました。まるで毎日が観光のようでした。(うちは桜木町からいくつか先の駅でしたが)
それに元町商店街やら中華街、山手西洋館、どこもお洒落で、もうワクワクとしょっちゅう出かけていました。
日本丸に氷川丸、赤煉瓦倉庫と、見る所は数え上げたらキリがありません。
世界にも自慢できるくらいスタイリッシュな街ですね。
2年間横浜に住めたことは一生のうちでも良かったと思います。
身体が丈夫で結構若いので何とかしてやりたいですが、どうにもなりません。
横浜の本牧と鶴見は母の育ったところで、子供たちも横浜は大好きでした。母は小さいころからよくグランドホテルで食事をするという生活だったようです。
私たちの育つころはもうそのチャンスはありませんでしたが・・(苦笑)。。お話だけは聞いています(笑)良い時代だったようです。
昔から東横線などに乗ると車内を見渡してもちょいと違うのですよねぇ・・あぁ・・目蒲線も利用していました。…