いすみ鉄道デンタルサポート大多喜駅から大多喜城(千葉県立中央博物館大多喜城分館)へ向かって徒歩7分くらいの所に「メキシコ通り」と呼ばれる遊歩道があります。
メキシコ通り遊歩道は、今から約400年前に御宿海岸の沖合いで遭難したスペインのフィリピン総督ドン・ロドリゴ一行を時の城主が庇護し帰国させ、その答礼として昭和53年(1978年)に来日したメキシコ大統領が当町を訪問し、これを記念して整備された遊歩道(プロムナード)です。
起点にはメキシコ塔が立ち歩道には古代メキシコの魚や鳥、人、太陽などが刻印されたタイルが埋め込まれています。
古代メキシコの太陽のスタンプデザイン 古代メキシコの人体のスタンプデザイン
とってもユニークですよね 車だと見逃しますから歩いてみてください
古代メキシコのちょうのスタンプデザイン 古代メキシコの魚のスタンプデザイン
~日本とメキシコの関係~
江戸時代の初めの1609年(慶長14年)、フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がマニラからの帰途に、大暴風の為房総の御宿海岸に座礁難破した。地元の漁民達に助けられ、時の大多喜藩主本多忠朝がこれら一行を歓待し、徳川家康が用意した帆船でメキシコへ送還したことから、日本とメキシコとの交流が始まった。
そして1613年(慶長18年)に仙台藩主伊達政宗の命を受けた支倉常長は、ローマ教皇に謁見すべくメキシコ、スペインを経由しイタリアのローマに向かった。支倉常長ら慶長遣欧使節団の乗ったサン・フアン・バウティスタ号は太平洋を横断しアカプルコへ、その後陸路メキシコシティを経由し大西洋岸のベラクルスからスペインへ至った。メキシコでは大変手厚いもてなしを受け、現在、記念碑や教会のフレスコ画などに当時を偲ぶことができる。
また、日本が開国して諸外国と通商条約を結んだ中で、1888年(明治21年)メキシコと締結した日墨修好通商条約は日本にとって初めての平等条約であり(1871年の日清修好条規は平等条約ではあったが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であるため)、諸外国の駐日大使館のうちでメキシコ大使館のみ東京都千代田区永田町にある。
19世紀末には榎本移民団によるメキシコへの移住が始まり、第二次世界大戦後まで続いた。移民者の数は総計10,000人余りに達し、その子孫が現在でも日系メキシコ人としてメキシコの各地に住んでいる。
(ウィキペディア メキシコ 日本との関係より)
日本にとって初めての平等条約締結は、1609年のことをメキシコの人達が忘れていなかったからだそうです。
大多喜お城祭りも近いです。 前夜際10月8日(土)、メインイベント10月9日(日)
『大多喜城賛歌』から歴史が学びましょう こちら
メキシコと結んだ条約も、その頃の日本の文化は遅れていたのでは?
そう考えると、今の豊かな日本はこういう歴史が作ってくれたのかも。
大多喜城讃歌の動画・・・本多ただともさん・・・討ち死に・・・悲しいけど、とっても感動しました
NHKの大河ドラマになります