滝があって、川があって、橋があって、庵があって、道があって・・・と家内には「南画はおなじね」と言われています。「違いがわからないかな~」と小生・・。
秋景山水図 野呂介石筆
絹本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2050*横610 画サイズ:縦1300*横465
「倣明人沈□筆法 丁丑(1817年 文化14年)□月 第五隆 白文朱方印 「第五」「隆」」野呂介入が71歳の時の作品と推察されます。表具は改装されています。
野呂介石については小生は初めての入手なので資料を詳細に調べることとしました。
わりと文人画としては評価の高い画家のようです。
野呂介石:生年: 延享4 (1747) 没年: 文政11.3.14 (1828.4.27) 江戸後期の南画家。名は隆。通称九一郎。字は松齢,隆年。介石,矮梅,四碧斎などと号し,また後漢の第五倫を慕い,第五隆とも称した。和歌山の人。
医師の家に生まれ,幼時,藩儒伊藤蘭嵎に師事して儒学を修め,寛政5(1793)年,47歳で紀州(和歌山)藩に仕えた。武芸にも励むまじめな武士であった。
画は少年時,鶴亭,次いで池大雅に師事。仕官以前は画家として生活したか。黄公望,伊孚九に私淑して南宗山水を描く。しばしば「那智滝図」などの真景図を描いたのは大雅の影響かもしれないが,その画風は極めて穏和で,大雅には似ていない。画論に『介石画話』がある
野呂介石の詳細
野呂介石:延享4年1月20日(1747年3月1日) - 文政11年3月14日(1828年4月27日))江戸時代後期の日本の文人画家である。紀州藩に仕え、祇園南海、桑山玉州とともに紀州三大南画家と呼ばれている。
名ははじめ休逸(きゅういつ)であったが、のちに改名して隆(りゅう)または隆年(りゅうねん)のふたつの名を混用した[1]。字を松齢(しょうれい)、号は介石のほかに班石(はんせき)、十友窩(じゅうゆうか)、澄湖(ちょうこ)、混斎(こんさい)、台嶽樵者(だいがくしょうしゃ)、第五隆(だいごりゅう)、晩年になって矮梅居(わいばいきょ)、四碧斎(しへきさい)、四碧道人(しへきどうじん)、悠然野逸(ゆうぜんやいつ)と号している。通称を弥助(やすけ)、後に九一郎(きゅういちろう)、喜左衛門(きざえもん)と称した。
紀州和歌山城下の湊紺屋町、町医 野呂高紹の三男として生まれる。10歳の頃より藩儒 伊藤長堅(蘭嵎)に儒学を学んだ。墨竹などの画を好み、中国の画法を独学しようとしたが進まず、14歳にて京都に出て黄檗僧 鶴亭(海眼淨光)について長崎派の画法を修める。一旦郷里に戻るが再び上京し、21歳の時、池大雅について南画の技法を修得した。京都と和歌山を行き来しながらおよそ10年もの間、毎日山水画十景を画くことを日課とした。
25歳のときには大雅の妻 玉蘭が和歌山を訪問している。師を深く敬愛したが、28歳の時大雅を失う。このころ清の来舶商・画家 伊孚九に私淑し影響を受けている。大坂の木村蒹葭堂や紀州の先輩 桑山玉州とも親しく交流し画業の研鑽に励み、名を成すようになる。34歳の時再婚したが花嫁は17歳年下の士族の出身であった。
終生を京都で過ごそうとしたが、藩命によって仕官することとなり46歳のとき紀州に戻った。勘定奉行支配小普請として医業を以て藩に仕え、のちに銅山方なって領内各地を踏査している。本草学にも詳しかったようである。江戸には2度赴いた記録があるが、晩年には江戸詩壇の大窪詩仏、菊池五山との交わりがあった。その他に頼山陽、頼杏坪、篠崎小竹、田能村竹田、本居大平などの交友が伝えられる。
1810年、大和多武峰千手院に所蔵される黄公望の「天地石橋図」を臨模したことを大いに喜んでいる。公務で熊野の山中に分け入り、深山幽谷に数十日もあって山水の趣を体得したという。画は人のためでなく己の楽しみのためとし、胸中に真山水を貯えれば、自ずと手が応じるとして、写意のある画を求道した。墨竹図・山水図を得意としたが、特に熊野山中を描いたものが多く那智の瀑布は現在までに十数点確認されている。
兄と慕うひとつ上の桑山玉州とともに南画会の双璧と評されている。また長町竹石、僧愛石とともに「三石」とも称されている。中国の黄公望、伊孚九に私淑した
。
享年82。法号 四碧院節翁介石居士。和歌山市吹上護念寺に墓碑がある。
四碧齋の号は、藩侯が彼の那智山図を見て嘆賞し「山色四時碧」の一行物を下賜したことを記念したもの。
•矮梅居の号は、仕官して2年目に賜った居宅に老梅があったことから。
•第五隆の号は、漢の第五倫の人となりを慕ったことから。三男だったが姉二人を入れると五番目の子であった。
「倣明人沈□筆法」とは沈周のことと推察されます。
沈周:(しん しゅう、宣徳2年11月21日 (1427年) - 正徳4年8月2日 (1509年))は、中国の明代中期の文人にして画家である。文人画の一派である呉派を興し「南宋文人画中興の祖」とされた。また蘇州文壇の元老として中国文学史上に名をとどめ、書家としても活躍した。詩書画三絶の芸術家として後世になっても評価が高い。家訓を守り生涯にわたって仕官することなく明朝に抗隠した。長洲県相城里(現在の江蘇省蘇州)の出身。字を啓南、号を石田・石田翁・白石翁とした。享年83。
野呂介石の作品はものすごくいいとは思いませんが、出来のいい作品のいくつかは所蔵に値すると思われます。桑山玉洲もまた評価の高い画家ですが、この画家の作品は滅多に入手できません。
秋景山水図 野呂介石筆
絹本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2050*横610 画サイズ:縦1300*横465
「倣明人沈□筆法 丁丑(1817年 文化14年)□月 第五隆 白文朱方印 「第五」「隆」」野呂介入が71歳の時の作品と推察されます。表具は改装されています。
野呂介石については小生は初めての入手なので資料を詳細に調べることとしました。
わりと文人画としては評価の高い画家のようです。
野呂介石:生年: 延享4 (1747) 没年: 文政11.3.14 (1828.4.27) 江戸後期の南画家。名は隆。通称九一郎。字は松齢,隆年。介石,矮梅,四碧斎などと号し,また後漢の第五倫を慕い,第五隆とも称した。和歌山の人。
医師の家に生まれ,幼時,藩儒伊藤蘭嵎に師事して儒学を修め,寛政5(1793)年,47歳で紀州(和歌山)藩に仕えた。武芸にも励むまじめな武士であった。
画は少年時,鶴亭,次いで池大雅に師事。仕官以前は画家として生活したか。黄公望,伊孚九に私淑して南宗山水を描く。しばしば「那智滝図」などの真景図を描いたのは大雅の影響かもしれないが,その画風は極めて穏和で,大雅には似ていない。画論に『介石画話』がある
野呂介石の詳細
野呂介石:延享4年1月20日(1747年3月1日) - 文政11年3月14日(1828年4月27日))江戸時代後期の日本の文人画家である。紀州藩に仕え、祇園南海、桑山玉州とともに紀州三大南画家と呼ばれている。
名ははじめ休逸(きゅういつ)であったが、のちに改名して隆(りゅう)または隆年(りゅうねん)のふたつの名を混用した[1]。字を松齢(しょうれい)、号は介石のほかに班石(はんせき)、十友窩(じゅうゆうか)、澄湖(ちょうこ)、混斎(こんさい)、台嶽樵者(だいがくしょうしゃ)、第五隆(だいごりゅう)、晩年になって矮梅居(わいばいきょ)、四碧斎(しへきさい)、四碧道人(しへきどうじん)、悠然野逸(ゆうぜんやいつ)と号している。通称を弥助(やすけ)、後に九一郎(きゅういちろう)、喜左衛門(きざえもん)と称した。
紀州和歌山城下の湊紺屋町、町医 野呂高紹の三男として生まれる。10歳の頃より藩儒 伊藤長堅(蘭嵎)に儒学を学んだ。墨竹などの画を好み、中国の画法を独学しようとしたが進まず、14歳にて京都に出て黄檗僧 鶴亭(海眼淨光)について長崎派の画法を修める。一旦郷里に戻るが再び上京し、21歳の時、池大雅について南画の技法を修得した。京都と和歌山を行き来しながらおよそ10年もの間、毎日山水画十景を画くことを日課とした。
25歳のときには大雅の妻 玉蘭が和歌山を訪問している。師を深く敬愛したが、28歳の時大雅を失う。このころ清の来舶商・画家 伊孚九に私淑し影響を受けている。大坂の木村蒹葭堂や紀州の先輩 桑山玉州とも親しく交流し画業の研鑽に励み、名を成すようになる。34歳の時再婚したが花嫁は17歳年下の士族の出身であった。
終生を京都で過ごそうとしたが、藩命によって仕官することとなり46歳のとき紀州に戻った。勘定奉行支配小普請として医業を以て藩に仕え、のちに銅山方なって領内各地を踏査している。本草学にも詳しかったようである。江戸には2度赴いた記録があるが、晩年には江戸詩壇の大窪詩仏、菊池五山との交わりがあった。その他に頼山陽、頼杏坪、篠崎小竹、田能村竹田、本居大平などの交友が伝えられる。
1810年、大和多武峰千手院に所蔵される黄公望の「天地石橋図」を臨模したことを大いに喜んでいる。公務で熊野の山中に分け入り、深山幽谷に数十日もあって山水の趣を体得したという。画は人のためでなく己の楽しみのためとし、胸中に真山水を貯えれば、自ずと手が応じるとして、写意のある画を求道した。墨竹図・山水図を得意としたが、特に熊野山中を描いたものが多く那智の瀑布は現在までに十数点確認されている。
兄と慕うひとつ上の桑山玉州とともに南画会の双璧と評されている。また長町竹石、僧愛石とともに「三石」とも称されている。中国の黄公望、伊孚九に私淑した
。
享年82。法号 四碧院節翁介石居士。和歌山市吹上護念寺に墓碑がある。
四碧齋の号は、藩侯が彼の那智山図を見て嘆賞し「山色四時碧」の一行物を下賜したことを記念したもの。
•矮梅居の号は、仕官して2年目に賜った居宅に老梅があったことから。
•第五隆の号は、漢の第五倫の人となりを慕ったことから。三男だったが姉二人を入れると五番目の子であった。
「倣明人沈□筆法」とは沈周のことと推察されます。
沈周:(しん しゅう、宣徳2年11月21日 (1427年) - 正徳4年8月2日 (1509年))は、中国の明代中期の文人にして画家である。文人画の一派である呉派を興し「南宋文人画中興の祖」とされた。また蘇州文壇の元老として中国文学史上に名をとどめ、書家としても活躍した。詩書画三絶の芸術家として後世になっても評価が高い。家訓を守り生涯にわたって仕官することなく明朝に抗隠した。長洲県相城里(現在の江蘇省蘇州)の出身。字を啓南、号を石田・石田翁・白石翁とした。享年83。
野呂介石の作品はものすごくいいとは思いませんが、出来のいい作品のいくつかは所蔵に値すると思われます。桑山玉洲もまた評価の高い画家ですが、この画家の作品は滅多に入手できません。
>「違いがわからないかな~」と小生・・。
真に残念。
南画自体、評価されない傾向がありますね。
戦後はつまらない絵の喩えにされ、今や存在自体知られない。
しかし、蒐集面ではそこが狙い目です。
人によってここまで変化する分野もないと思うのですが、つまらない絵も多いですからね。
割合気軽に参戦して描けたのがいいとも言えますが。
本ブログにも多くの南画の作品が投稿してありますので参考にしてください。今後ともよろしくお願いします。
確かに軸物自体が狙い目ですね。
参考にさせて頂きます。
私は和歌山在住なので
この作品にすごく魅力を感じます
いったいどれくらいの価格で
手に入れられたのか教えていただければ
うれしいです
入手金額は6000円程度です。非常の廉価で購入できた作品のひとつと思っています。
送料は当方が負担します
「倣明人沈□筆法 丁丑(1817年 文化14年」
僭越ながら
明人・沈啓南の法に倣うと書いてありますね
啓南は夜噺骨董談義さんが見抜いておられる通り
沈周の号です
購入の申し出についてはまことに誠に申し訳ありませんが、ご要望にお答えしかねますので、ご了解ください。