まだ骨董市をうろうろしていた頃の30代・・・、骨董を買うお金などろくになく、ただうろうろしている中で時には手頃な価格のノリタケの器を買って愉しんでいました。
オールドノリタケかもしれないとガラクタ?を漁りながらワクワクしていた頃が懐かしいものです。
結局は骨董市で見かけるのはコーヒーカップの片割れとかの何気ない作品ですが、今でも男の隠れ家の食器棚に大切に保管しています。
本日紹介する作品は、そんな時期が懐かしくなって購入した作品です。
懐かしき作品 オールドノリタケ? 風景湖畔図耳付金彩花瓶
誂箱
最大幅150*奥行130*高さ210
戦前のノリタケの作品を総称してオールドノリタケというようです。
*正確にはオールドノリタケ(英語圏での一般的な表記は “ EARLY NORITAKE ” )とは、その年代をはっきりと限定することはできませんが、1800年代の末から第二次世界大戦前後頃まで、ノリタケカンパニーの前身である森村組と日本陶器で作られ主にアメリカへ輸出された装飾品(花瓶、壷、陶製人形、置物、陶製化粧セットなど)とテーブルウェア・ディナーウェアの総称とされます。
近年ブームとなり、輸出された作品が多いので海外からの里帰り作品も多いとされます。マークで製作年代が分かるのも大きな特徴ですが、当時から類似品が多かったので注意を要するとされています。本作品の裏印は1911年から1921年まで用いられた「M-NIPPONN印」といわれているもののようです。
日本の陶磁器産業を代表する企業集団「森村グループ」は、1876年(明治9年)、森村市左衛門と森村豊兄弟の両氏によって創立された、わが国貿易業界の草分けともいうべき森村組(現在、森村商事株式会社)がそのルーツです。
森村市左衛門は師と仰ぐ福沢諭吉に相談し、国外に流出した金を取り戻すには輸出貿易で外貨を稼ぐのが一番だとの助言を得ました。この福沢諭吉のアドバイスにより、森村市左衛門は輸出貿易に乗り出す決意をします。
森村グループは、1904年(明治37年1月)、日本陶器合名会社(のち日本陶器株式会社、現在株式会社ノリタケカンパニーリミテド)が森村組の創業者らによって設立されてからであり、その後、1917年(大正6年5月) に、同社の衛生陶器部門を分離して東洋陶器株式会社(現在、TOTO株式会社)が、ついで、1919年(大正8年5月)に碍子部門を分離して日本碍子株式会社 (日本ガイシ株式会社)が設立されました。同じ年(大正8年5月)に、大倉陶園(現在、株式会社大倉陶園)が、その後も1936年(昭和11年9月)日東石膏株式会社(1985年(昭和60年6月)ノリタケカンパニーリミテドに合併)、同年10月、日本特殊陶業株式会社(日本ガイシNGK点火栓部門等より分離独立)などが設立され、こんにちの森村グループの基礎が形成されるにいたりました。
1904年1月1日、6代森村市左衛門たちは工場建設に先立ち、愛知県愛知郡鷹場村大字則武を本社所在地として日本陶器合名会社(現 株式会社ノリタケカンパニーリミテド)を設立しました。のちにこの則武という地名が「ノリタケ」ブランド名の由来となりました。
明治37年頃、度重なる研究の結果、白生地の焼成には天草陶石54、蛙目(がいろめ)粘土23、長石23の割合で配合することが最適であることを見極め永年の目標であった白生地の完成を見ることが出来ました。白生地の製造を決意してから既に10年の歳月が流れていました。後にこの白生地は陶磁器窯業の業界で『日陶の3・3生地』と言われるようになりました。
白い生地はできるようになったものの、日陶の3・3生地ではディナーセットの基本である25cmの大皿をどうしても作ることが出来ませんでした。25cmの大皿の製造は困難に困難を極めました。大皿自体は、以前から日本でも製造されていましたが、底が平らな大皿を作るのは至難の技だったのです。
一つ一つ形が違うことに味わいを見出す和の文化・和食器とは異なり、洋食器は均一性を重んじる食器です。形がバラバラな食器では売れないため、真っ直ぐな底のディナー皿を作ろうと研究に研究を重ねていたある日、行き詰った社員が、フランスから取り寄せた見本皿を床に叩き付けて割ってしまいました。その割れた断面を見た時、皿の中央部分が分厚く作ってあることに気付きました。皿の中央がへこんだり盛り上がったりするのを防ぐため、これまで、できる限り真ん中を薄く作ろうとしていたことが、却って底が平らな皿を作れなかった原因だったと分かったのです。
一つ一つ形が違うことに味わいを見出す和の文化・和食器とは異なり、洋食器は均一性を重んじる食器です。形がバラバラな食器では売れないため、真っ直ぐな底のディナー皿を作ろうと研究に研究を重ねていたある日、行き詰った社員が、フランスから取り寄せた見本皿を床に叩き付けて割ってしまいました。その割れた断面を見た時、皿の中央部分が分厚く作ってあることに気付きました。皿の中央がへこんだり盛り上がったりするのを防ぐため、これまで、できる限り真ん中を薄く作ろうとしていたことが、却って底が平らな皿を作れなかった原因だったと分かったのです。
さらにノリタケは1933年に日本で初めてボーンチャイナの製造に成功しました。イギリスで生まれたボーンチャイナの製造は『一般の磁器に比べ製造コストが高い』 『ボーンアッシュの製造や坏土の調合、焼成などに非常に高度な技術を要する』といった問題が多かったのです。ノリタケは1932年にボーンチャイナの研究を始め翌年の1933年にはボーンチャイナの試作品を完成させました。ノリタケのボーンチャイナの本格的製造は1935年に始まり1938年頃にはノリタケのボーンチャイナ製ティーセット等が北米等に大量に輸出されるようになりました。
基本的にオールドノリタケは大きく2つに分類されます。
1つは1885年(明治18年)頃から1935年(昭和10年)頃までに主にアメリカに輸出された日本的なデザインの商品を含むアールヌーボーを中心とした西洋画風のグループで、もう1つは大正末期頃から昭和初期頃の短い間に流行したアールデコのグループです。
( 1 ) アールヌーボー様式 | |
オールドノリタケの1910年代までの初期の作品の特徴はは手造りで複雑な曲線を持ち、花や樹木などの自然をモチーフにし、淡いパステルカラーを基調とした点で、当時流行したアールヌーボー様式の影響を強く受けています。 初期の作品は花瓶やキャンディーボックスなどでしたが、次第にコーヒーポットなども生産されるようになりました。 その後、1914年にはわが国最初のディナーセットを完成させました。当時の商品はアメリカやヨーロッパ向けの輸出が殆どでしたが、しばらくすると欧米風の商品が宮内省や海軍省、また一部のホテルやレストランにも販売されるようになりました。この頃の製品の殆どは当時では最高クラスのグレードで、デザインも日本の花鳥画の技法が欧米のデザインと融合した特異なものでした。 |
( 2 ) アールデコ様式 | |
大正時代末期の1922年頃から昭和初期の1929年頃の短い間にかけてはそれまでのオールドノリタケのような高級な装飾品ではなく、機械によって大量生産が可能なファンシーウェアが生産されました。これらはオールドノリタケの中でもオールドノリタケファンの間で大変に貴重なコレクターズアイテムとして強い人気を集めています。 オールドノリタケがこれほどまでに愛されている訳は近代陶芸の研究家であるニューヨーク大学美術部のジュディオス・シュワルツ博士によれば、ノリタケとノリタケの製品が工業的に優れた技術を持ち、装飾の複雑さと完成度の高さ、熟練した筆使い、鮮やかな色彩の配列などが他の美術品をはるかに越えて凌駕している為だということです。 |
*なお現在の名古屋市内にあるノリタケは建て替え中です。当方のその工事に縁があって関わっています。
本作品のマークの資料との比較です。創始者の森村家の家紋をあしらったマークとして有名なものですね。
平野遼の作品と一緒に飾っています。
それほど手の込んだ作品でもないのでしょうが、当時陶磁器を通していろんなことに挑戦をした人々へ賛歌のつもりで飾っています。
驚くほどオールドノリタケには器種が多くあり、また分だけ多くのコレクターがいるようです。意外に根強い人気のある作品群ですね。