わたしの祖父は 検定という方法で医者になったと聞きます。今では考えられないことですが 当時は医師不足だったのでしょう。
祖父は結婚をし 四人の息子と一人の娘に恵まれ大阪の高槻に医院をたて 流感で大儲けしたり 室戸台風にあったり 紆余曲折を経て 子育てを終えたようです。
四人の息子は戦争に駆り出されましたが 一人京都の府立医大を卒業し 軍医として赴任した跡取りと期待した息子だけが ニューギニア ソナムで餓死したそうです。
祖父自身にはかなえられなかった医大卒業をなしとげ 医師になってくれた息子は 期待していたことだろうと思うのです。
がっかりしてしまった祖父夫婦は 大阪の家を手放して 祖父の兄と長男の住む愛知に隠居することとしたのだそうです。
帰るはずのない宙という名の叔父は 育った家に思いをはせ 京都の学生時代の幸せだったころを思い亡くなったのだろうとおもうのです。
私にはよくわからぬ母から聞いた昔ばなしだったのですが
五十年以上もたったあるとき 急に思い起こすこととなったのです。
娘が京都の大学に入学し 初めての下宿先が京都府立大のまえあたりだったのです。
そして 下宿マンションの隣が 塩昆布屋さんでした。
父も 叔父さんも 塩昆布が大の好物だったと聞いていたのです。
今まで 思い起こすことのなかった宙叔父さんのことを ふと下宿の掃除をしてあげていた時 思い起こしたのです。
弔われることもなく 異国で白骨となっているであろう叔父さんが お会いしたこともないのに傍にいるような感覚がおきました。おじさんが このあたりに住んでいた感じがしたのです。
ほどなく 娘はその下宿を引っ越したのですが 同期の男性と出会い結婚しました。
その出会った人の実家の方が 祖父が大阪に居を構え 生活拠点としていたあたりにお住まいなのです。そして 孫が大の塩昆布ずきとなっていたりしたので なぜか 昆布を手にするたびに 一連の縁をイメージするようになっています。
医者が神仏に頼ってどうすると 神仏にまったく関心のない祖父夫婦でしたから 笑うでしょうが
今は亡き父や叔父に 私が京都で思いをはせたことで 私も守られ 導かれ 今 娘の努力を評価され幸せを 手にしているような気がしてなりません。
努力も 縁にすなおなこころも 大切にすべきなのかもしれません。
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