箱根八里 (三島大社→小田原城) 三島から一里の地点 初冬の富士山の朝
HNK「視点・論点」(10月2日放送)で、湯浅 誠さんが「居場所とめざすべき社会」という話をされていた。
居場所づくりから出発した社会観は説得力がある。
人には「頑張るから認められる」、そういう面と「認められたから頑張る」と言う面の両方があります。
両者の関係は、一般には「頑張るから認められて、認められたからもっと頑張る」と言うふうに「頑張る」ことを起点に考えられがちです。
しかし私たちは生まれた時何もできませんでしたが、それでも誰かに認められ育ててもらって今があります。
私たち全員の人生は「認められたから頑張れ、頑張れたから認められると認められる」ことを起点に始まっています。
一般には「頑張るから認められて、認められたからもっと頑張る」と言うふうに「頑張る」ことを起点に考えられがちです。
(しかし)今必要なのは「認められるから頑張る」という回路を日本社会の中に復活再生させることではないでしょうか。
居場所づくりとは認められる場をたくさんつくるということである。
HNK「視点・論点」(10月2日放送)で、湯浅 誠さんが「居場所とめざすべき社会」という話をされていた。
居場所づくりから出発した社会観は説得力がある。
人には「頑張るから認められる」、そういう面と「認められたから頑張る」と言う面の両方があります。
両者の関係は、一般には「頑張るから認められて、認められたからもっと頑張る」と言うふうに「頑張る」ことを起点に考えられがちです。
しかし私たちは生まれた時何もできませんでしたが、それでも誰かに認められ育ててもらって今があります。
私たち全員の人生は「認められたから頑張れ、頑張れたから認められると認められる」ことを起点に始まっています。
一般には「頑張るから認められて、認められたからもっと頑張る」と言うふうに「頑張る」ことを起点に考えられがちです。
(しかし)今必要なのは「認められるから頑張る」という回路を日本社会の中に復活再生させることではないでしょうか。
居場所づくりとは認められる場をたくさんつくるということである。
学校も一義的に居場所であるべきなのはいうまでもない。
湯浅さんは、「教育課程からの疎外」という認識もしている。学校はある子には居場所になりにくいことを指摘している。
放送の内容(全文)
あなたに居場所はありますかそう聞かれたら何と答えになるでしょうか。
自宅と答える方は多いでしょう。ご自宅のどこですか。自分の部屋リビング、お風呂、トイレ、そのすべて、あるいはいずれでもない。
夜中にガレージに止まっている車の中でラジオを聴きながら缶麦酒を飲むことだと言った女性がいました。人それぞれだと思います。
今日は居場所について考えることを通じて、私たちの社会の有り様を考えたいと思います。
広辞苑によれば、居場所とは、いるところ、居所と説明されています。
今自分がいる場所が居場所なのであれば、今の私にとって居場所とは、この場所と言うことになりますが、しかし、今私はテレビカメラを前に慣れない収録で緊張しており、このNHKのスタジオが私の居場所ですと言えるかというと疑問です。ここには居場所感がありません。
実際の用法においては、多くの場合、人は居場所感を抱ける場所を居場所と呼んでいます。居心地が良くない場所は、現に自分がいる場所ではあっても居場所感を抱けないので、居場所とは呼びません。
ではどのような場所に人は居場所感を抱くのでしょうか。
例えば小中学生にアンケートをとると、約半数は学校を居場所だと答え、そして約半数は、学校は居場所ではないと答えます。同じ〇〇小学校の3年1組でもそこを居場所と感じられる子どももいればそうでないこと思います。言うまでもなくクラスメイトとの関係、教師との関係が影響するからです。
居場所間の中身を解明するカギは関係性にありそうです。居場所感と関係性の結びつけ方は多様です。人や物、自然との良好な関係性があれば、人はそこに居場所感を抱きます。
また、居心地の悪い関係性から逃れられる場所に居場所感を抱くというように、関係性と居場所感が逆の形でつながっていることもあるでしょう。
はっきりしている事は、暮らしの中に居場所感を抱ける関係性のある場所が十分にある、たくさんある、そういう人の幸福感は高く、逆に自分が居場所感を抱ける場所は、世の中のどこにもないという人の幸福感は低いと言うことです。中には、それを理由に自殺してしまう人もおり、居場所のあるなしは人間にとって切実な問題です。
昔は街に自由に館入れる雑木林があって、私はそこでチャンバラをやって遊びました。住宅街の中に空き地があって草野球をやりました。駄菓子屋があってそこでたむろしました。
しかし、私の暮らす街からはすべてなくなりました。自分が子どもの頃はもっとたくさんのスペースが街なかにあって、そこで人や自然と良好な関係を作って、居場所感を抱き時にしんどい関係から逃れて居場所感を抱いていた。
そういうスペースや関係性を今の時代において復活させたい、新たに作り出したいそう願う大人たちが行っている営みを「子どもの居場所づくり」と呼びます。私が関わっている子ども食堂もそのうちの1つです。
子ども食堂は初めて誕生してからまだ10年、新しい現象ですが、近年は毎年1000件以上増え続けており、もうすぐ全国の中学校数を超えます。
子ども食堂が増えても子どもの居場所が増えるとは限りません。
学校があってもそこに居場所感を抱けない子どもがいるように、子ども食堂があってもそこに居場所感を抱けない子どもはいるでしょう。
ですが、人々はその営みを止めません。なぜなら、確かにその場とそこでの関係性に居場所感を抱く子どもがいて、それが手ごたえとなっているからです。
自分たちは誰かの大切な居場所を確かに作れている子ども食堂は大人の居場所にもなっています。子ども食堂は義務で行く場所ではありません。そして運営されている方たちはここで一緒に食べようと思ってくれる人を分け隔てなく、受け入れたいそう思っている場合が多いです。ですから8割の子ども食堂は参加に条件はなく、公園のようにきた人たち全てを受け入れており、結果的に6割以上の子ども食堂には高齢者も参加しています。
そして今、年間延べ1270万人の人たちが子ども食堂に参加するに至っています。私たちはこうした居場所づくりを推進しています。子どもの居場所づくりみんなの居場所づくりです。
目指しているのは「どこも」と「どこか」が両立した状態です。「どこも」と言うのは、家庭も職場も、学校も地域も、子ども食堂も高齢者サロンも、と言うように暮らしの中で過ごす様々な場所がどこもかしこも居場所になる状態です。AもBもと言う形でより多くの人によりたくさんの居場所がある状態を指します。
そして「どこか」とは、それでも多くの場が自分の居場所にはならないんだ、とそういう事情を抱えた人はいますから、家庭がダメなら、地域の居場所が、学校がダメなら、フリースクールが、リアルがダメなら、オンラインだと、「AがダメならB」という形で、どんな人にも少なくとも1つは居場所がある。そういう状態を指します。この「どこも」と「どこか」が十全に満たされたとき、私たちの社会はすべての人がつながりを感じながら、幸福に生きられる社会になるでしょう。
私はそれが私たちの社会が目指すべき新しい経済成長の形でもあると考えています。GDPだけを見れば家族が揃って手料理を食べるより、一人一人がバラバラに外食したほうがより多くの金額が消費され、GDPが増えます。
しかしそれが一人ひとりの幸福感を高めるかはまた別の話でしょう。そうではなく、一人ひとりの幸福感を高めることを主眼に置くんです。成長あきらめるのではありません。家族や地域を犠牲にしてでも成長、ではなくて、一人ひとりの幸福感を高める成長を目指す。
人には「頑張るから認められる」、そういう面と「認められたから頑張る」と言う面の両方があります。
両者の関係は、一般には「頑張るから認められて、認められたからもっと頑張る」と言うふうに「頑張る」ことを起点に考えられがちです。
しかし私たちは生まれた時何もできませんでしたが、それでも誰かに認められ育ててもらって今があります。
私たち全員の人生は「認められたから頑張れ、頑張れたから認められると認められる」ことを起点に始まっています。
人は認められることに主眼を置く場所に居場所感を抱きます。
頑張ってもいいが、頑張らなくてもいい、そう認められて初めて頑張れるようなところが人間にはあるからです。
私たちはずっと頑張る事を起点に経済成長を考えてきました。そしてみんながものすごく頑張ってきました。しかしこの30年間、日本はまともに成長しませんでした。成長したのは日本よりも残業もしない休暇もたくさん取る日本ほどには頑張らない国々でした。
もしかしたらみんなすでに頑張らないと認められない、と言う回路では頑張らなくなっているのではないでしょうか。
今必要なのは「認められるから頑張る」という回路を日本社会の中に復活再生させることではないでしょうか。
こだま食堂ではここだと「お家で食べられないものを食べてくれる」という保護者の声をとてもよく聞きます。宿題をやってる娘の姿を見て、「こんなに長く集中していられる娘を見たのは初めてだ」と驚いていた保護者もいました。
居場所では人は普段出してる以上の力を出します。それは成長の源泉です。それは誰かが食べろ、勉強しろと叱咤激励しているからではなく、「頑張るのもすごいけど、頑張らなくてもすごいよ」とその人を認めているからその力が出てきます。
人々が続々と居場所を立ち上げていく背景に、私たちの社会のありようや進むべき未来についてのどのような願いがあるのか、もっと耳を傾け、人々の願いに沿った世の中を作っていきたいと思います。
放送の内容(全文)
あなたに居場所はありますかそう聞かれたら何と答えになるでしょうか。
自宅と答える方は多いでしょう。ご自宅のどこですか。自分の部屋リビング、お風呂、トイレ、そのすべて、あるいはいずれでもない。
夜中にガレージに止まっている車の中でラジオを聴きながら缶麦酒を飲むことだと言った女性がいました。人それぞれだと思います。
今日は居場所について考えることを通じて、私たちの社会の有り様を考えたいと思います。
広辞苑によれば、居場所とは、いるところ、居所と説明されています。
今自分がいる場所が居場所なのであれば、今の私にとって居場所とは、この場所と言うことになりますが、しかし、今私はテレビカメラを前に慣れない収録で緊張しており、このNHKのスタジオが私の居場所ですと言えるかというと疑問です。ここには居場所感がありません。
実際の用法においては、多くの場合、人は居場所感を抱ける場所を居場所と呼んでいます。居心地が良くない場所は、現に自分がいる場所ではあっても居場所感を抱けないので、居場所とは呼びません。
ではどのような場所に人は居場所感を抱くのでしょうか。
例えば小中学生にアンケートをとると、約半数は学校を居場所だと答え、そして約半数は、学校は居場所ではないと答えます。同じ〇〇小学校の3年1組でもそこを居場所と感じられる子どももいればそうでないこと思います。言うまでもなくクラスメイトとの関係、教師との関係が影響するからです。
居場所間の中身を解明するカギは関係性にありそうです。居場所感と関係性の結びつけ方は多様です。人や物、自然との良好な関係性があれば、人はそこに居場所感を抱きます。
また、居心地の悪い関係性から逃れられる場所に居場所感を抱くというように、関係性と居場所感が逆の形でつながっていることもあるでしょう。
はっきりしている事は、暮らしの中に居場所感を抱ける関係性のある場所が十分にある、たくさんある、そういう人の幸福感は高く、逆に自分が居場所感を抱ける場所は、世の中のどこにもないという人の幸福感は低いと言うことです。中には、それを理由に自殺してしまう人もおり、居場所のあるなしは人間にとって切実な問題です。
昔は街に自由に館入れる雑木林があって、私はそこでチャンバラをやって遊びました。住宅街の中に空き地があって草野球をやりました。駄菓子屋があってそこでたむろしました。
しかし、私の暮らす街からはすべてなくなりました。自分が子どもの頃はもっとたくさんのスペースが街なかにあって、そこで人や自然と良好な関係を作って、居場所感を抱き時にしんどい関係から逃れて居場所感を抱いていた。
そういうスペースや関係性を今の時代において復活させたい、新たに作り出したいそう願う大人たちが行っている営みを「子どもの居場所づくり」と呼びます。私が関わっている子ども食堂もそのうちの1つです。
子ども食堂は初めて誕生してからまだ10年、新しい現象ですが、近年は毎年1000件以上増え続けており、もうすぐ全国の中学校数を超えます。
子ども食堂が増えても子どもの居場所が増えるとは限りません。
学校があってもそこに居場所感を抱けない子どもがいるように、子ども食堂があってもそこに居場所感を抱けない子どもはいるでしょう。
ですが、人々はその営みを止めません。なぜなら、確かにその場とそこでの関係性に居場所感を抱く子どもがいて、それが手ごたえとなっているからです。
自分たちは誰かの大切な居場所を確かに作れている子ども食堂は大人の居場所にもなっています。子ども食堂は義務で行く場所ではありません。そして運営されている方たちはここで一緒に食べようと思ってくれる人を分け隔てなく、受け入れたいそう思っている場合が多いです。ですから8割の子ども食堂は参加に条件はなく、公園のようにきた人たち全てを受け入れており、結果的に6割以上の子ども食堂には高齢者も参加しています。
そして今、年間延べ1270万人の人たちが子ども食堂に参加するに至っています。私たちはこうした居場所づくりを推進しています。子どもの居場所づくりみんなの居場所づくりです。
目指しているのは「どこも」と「どこか」が両立した状態です。「どこも」と言うのは、家庭も職場も、学校も地域も、子ども食堂も高齢者サロンも、と言うように暮らしの中で過ごす様々な場所がどこもかしこも居場所になる状態です。AもBもと言う形でより多くの人によりたくさんの居場所がある状態を指します。
そして「どこか」とは、それでも多くの場が自分の居場所にはならないんだ、とそういう事情を抱えた人はいますから、家庭がダメなら、地域の居場所が、学校がダメなら、フリースクールが、リアルがダメなら、オンラインだと、「AがダメならB」という形で、どんな人にも少なくとも1つは居場所がある。そういう状態を指します。この「どこも」と「どこか」が十全に満たされたとき、私たちの社会はすべての人がつながりを感じながら、幸福に生きられる社会になるでしょう。
私はそれが私たちの社会が目指すべき新しい経済成長の形でもあると考えています。GDPだけを見れば家族が揃って手料理を食べるより、一人一人がバラバラに外食したほうがより多くの金額が消費され、GDPが増えます。
しかしそれが一人ひとりの幸福感を高めるかはまた別の話でしょう。そうではなく、一人ひとりの幸福感を高めることを主眼に置くんです。成長あきらめるのではありません。家族や地域を犠牲にしてでも成長、ではなくて、一人ひとりの幸福感を高める成長を目指す。
人には「頑張るから認められる」、そういう面と「認められたから頑張る」と言う面の両方があります。
両者の関係は、一般には「頑張るから認められて、認められたからもっと頑張る」と言うふうに「頑張る」ことを起点に考えられがちです。
しかし私たちは生まれた時何もできませんでしたが、それでも誰かに認められ育ててもらって今があります。
私たち全員の人生は「認められたから頑張れ、頑張れたから認められると認められる」ことを起点に始まっています。
人は認められることに主眼を置く場所に居場所感を抱きます。
頑張ってもいいが、頑張らなくてもいい、そう認められて初めて頑張れるようなところが人間にはあるからです。
私たちはずっと頑張る事を起点に経済成長を考えてきました。そしてみんながものすごく頑張ってきました。しかしこの30年間、日本はまともに成長しませんでした。成長したのは日本よりも残業もしない休暇もたくさん取る日本ほどには頑張らない国々でした。
もしかしたらみんなすでに頑張らないと認められない、と言う回路では頑張らなくなっているのではないでしょうか。
今必要なのは「認められるから頑張る」という回路を日本社会の中に復活再生させることではないでしょうか。
こだま食堂ではここだと「お家で食べられないものを食べてくれる」という保護者の声をとてもよく聞きます。宿題をやってる娘の姿を見て、「こんなに長く集中していられる娘を見たのは初めてだ」と驚いていた保護者もいました。
居場所では人は普段出してる以上の力を出します。それは成長の源泉です。それは誰かが食べろ、勉強しろと叱咤激励しているからではなく、「頑張るのもすごいけど、頑張らなくてもすごいよ」とその人を認めているからその力が出てきます。
人々が続々と居場所を立ち上げていく背景に、私たちの社会のありようや進むべき未来についてのどのような願いがあるのか、もっと耳を傾け、人々の願いに沿った世の中を作っていきたいと思います。