北アルプスの花畑 稜線に出ると標識があり、 左は目指す朝日岳 右はあの?栂海(つがみ)新道 、日本海まで続きます。
保育について、今度はその実際の現場から学ぶ。テキストは、
津守 真『保育者の地平』ミネルヴァ書房
すでに述べたように、著名な心理学者の津守真さんがいち保育者として愛育養護学校の現場に立った12年間の事々をまとめた本である。
保育の本質的な意味は教育に先立つといってもいいだろう。
実際、保育実践の中には、人とは何か、人が人と出会い、交わることとはどういうことかについての洞察があり、また子どもにとって保育者とは何か、子どもの認識や自我の形成と、保育者が子どもとかかわることについても絶えず問われることだろう。
そして、こうした知見は、つい先を急いでしまう今日の教育ありよう全体にとっても重要な一視点に違いない。
保育者の地平から津守さんは、どのように子ども捉え、解釈し、働きかけ、その変容を子どもの成長の中にどう位置づけて行ったのだろう。
なお、津守さんの文章そのものの中に保育者としての視点や微妙な感じ取り方が味わい深く物語られており、長い引用になる。
第3章 今を充実させる ―保育者5・6年目— から
子どもが成長する一日
《自分で歩く》
保育室から庭に出たところに、私が立っていたとき、ふと気がつくと、背後からA夫が私の手にさわっていた。
母親のひざから下りて、奥の部屋から保育室を横切って、庭の出口まで一人で出てきたのだった。その日、この子は、一人で部屋の中を歩き回り、隅の櫓の上に登り、櫓と壁との間の狭いすきまを歩くなど、いつもだと母親と私の手を引いてしか行かない場所を、一人で手を振って歩いた。
A夫が私の手にさわっていたとき、私がそれに気がついて驚いたのは、その行為の中に、この子どもの心の思いがこめられているのを見たからであった。自分で独力で歩きたいという日頃の思いは、この日のいろいろの条件に支えられて、この意志的な行為となった。
庭に出てゆく私のあとを追って、母親のひざから下りて部屋を横切って歩いてきたとき、この子はこれを一人であえてしたのだった。私はその気持ちを受けとめた。思い切ってそうした子どもの気持ちに気づけば、それを受けとめるのはあたりまえであろうが、しばしば子どもたちの中で忙しさに追われて、傍に寄ってきた子どもの思いに気づかないことがあるに違いないことを、私はこの日あらためて考えさせられた。
A夫は、このあと、一人であちこちを歩き回った。これは能動性をもって歩くという、長い間にわたってこの子が問いつづけてきたテーマである。この日、私のあとを追って思い切って歩くという一つの行為がおとずれたとき、それがきっかけとなって、このテーマは展開した。
子どもは、刺激‐反応の鎖の一つではなく、自らの内なる課題をになって行為する存在である。保育者も、反応を期待して刺数を与える一つの点ではなく、他者と自分の存在の本質に接して現実に生きる者である。子どもの内なる課題に気づき、それにこたえて行為するとき、大人と子どもとの関係は創造的に変容しはじめる。私が床にひっくり返って、「助けてー」と言うとA夫は私の手を引いて起こそうとする。そうしている間に、一人で彼方に自由に歩いてゆく。私にもこの子にも、一瞬先の未来は冒険と試みであるけれども、存在の本質にふれつつ、前途は着実に開かれてゆく。保育の一日の歩みはこうして進められる。
《揺れ動く心》
朝、M夫が門から入ってきたとき、庭の途中で母親にまつわり、何かだだをこねている様子だった。私はそれに気づいていたのだが、傍らで私を頼りにしている子どもから離れられず、M夫とつきあいの深いF先生を見つけたので、そのことを告げた。
その次に私がM夫と出会ったのは、しばらく後に彼が三輪車に乗って、F先生と声を上げて庭を走っているところだった。その日、保育が終わってから、どのようにしてこの子は元気になったのかをたずねた。
入ろうか、出ようかといつも迷いの中にあり、デリケートで、いまにもこわれそうなM夫とつきあってF先生は一日を過ごしたという。元気にしていると見えたのは、見えないところで保育者に支えられている子どもの一側面である。その子の本質をあらわにしているような遊びも、そのような保育者との関係の中に生まれる。午後になって、ホールのトランポリンで、リズミカルにとんでは小刻みに足踏みをし、自分で倒れるのを繰り返しているその子を見て、私はその動きに合わせてリズムを口ずさんだ。この子はまたそれに合わせて何度も自分で転んでは起き上がる遊びを繰り返した。他の子どもに倒されるのは我慢がならず、そのくらいならば、自分から先に転んでしまう。倒されても自分から起き上がるというこの子どものテーマである。そのテーマをM夫はたのしんでためしている。
弁当のとき、音楽が響くと、耳に手をあて食べるのをやめてしまう。ようやく、トメテクダサイ、と小さな声で言う。おそれながら、しかし思い切って、この子どもは表現する。帰るころには、トランポリンに他の子どもがのってきても、おそれず、自分からその動きに合わせ、二人でとんでいた。
迷いの中にある子どもをうけとめられるのは、子どもの内なるテーマを承知して、その微妙な心の動きに沿って応答することのできる保育者である。それはただ一人の人に限られるのではないが、そのような人と一日を過ごすときに、子どもは安心して揺れ動き、成長への一歩を踏み出すことが可能になるのだろう。
M夫は、夏休みには、ああでもない、こうでもないとだだをこねることが多かったという。だだをこねるというのは、出ようか入ろうかとの心の動揺があることだろう。ねまきに着がえるのがいやで、赤ちゃんのときの小さなパジャマを着るといい、一度着ると、今度は脱がないとがんばるのだという。成長の前進をしようか、するまいかと揺れ動く心がここにもある。
後退と前進を繰り返しながら、ほんの少しずつ、子どもは前進する。子どもの心の内なるテーマを理解する保育者との関係の中で、子どもは成長する。
《普遍的意味と独自の意味》
保育者は、子どもの行為に驚かされたり、困惑させられたりする。そこで気づかされる子どもの行為は、「一人で歩いてきて」とか「母親にまつわり、だだをこね」とか記述することができる。さらに、子どもはどのように感じてそれをしているのかを、大人は見てとることができるし、それを記述することも可能である。子どもは「あえて」「思い切って」「意志をもって」誇らしくそれをしたのであり、また「迷いつつ」「おそれながら、しかし思い切って」それをしたのである。
一つの行為には、普遍的意味と、特定の子どもの、その場面の独自の意味との両方がある。両者を考えて、その子どもの行為の本質に近づき、大人が応答するとき、子どもは自分自身の内なる課題と、とりくむことができる。
その大人との間で、子どもは安心して一人で歩きまわることを試み、また、自分で転んでは起き上がる遊びを繰り返す。
こうして、保育の場は、子どもが成長する一日となる。
《コラムとしての補足》
人がある行為をするとき、そこには思いが込められている。私は行為から思いを読み取る。人がある言葉を語るとき、そこには思いが込められている。私は言葉から思いを読み取る。行為から読み取るときには、それを一度私の言葉にするから、彼が言葉にするときとは違う。言葉から読み取るときには、思いは彼の言葉になっている。私は彼の言葉から、彼の思いをさらに読み取る。
一人の実習生がK夫のパンツをはき替えさせる大変さについて語るとき、そこにはその実習生の思いがある。別の人が、K夫が他人から見られるときの恥ずかしさを語るとき、両者の思いが重ねられて、聞く私共の理解が創造的に展開する。世界は表現に満ちており、創造的に展開するときを待っている。
(行為と思いについて ‐ 保育後の話し合いから)
《見出し写真の補足》
足元はいつの間にか高山の花々。冬は積雪5㍍を超す豪雪地帯にして可憐な花々。
保育について、今度はその実際の現場から学ぶ。テキストは、
津守 真『保育者の地平』ミネルヴァ書房
すでに述べたように、著名な心理学者の津守真さんがいち保育者として愛育養護学校の現場に立った12年間の事々をまとめた本である。
保育の本質的な意味は教育に先立つといってもいいだろう。
実際、保育実践の中には、人とは何か、人が人と出会い、交わることとはどういうことかについての洞察があり、また子どもにとって保育者とは何か、子どもの認識や自我の形成と、保育者が子どもとかかわることについても絶えず問われることだろう。
そして、こうした知見は、つい先を急いでしまう今日の教育ありよう全体にとっても重要な一視点に違いない。
保育者の地平から津守さんは、どのように子ども捉え、解釈し、働きかけ、その変容を子どもの成長の中にどう位置づけて行ったのだろう。
なお、津守さんの文章そのものの中に保育者としての視点や微妙な感じ取り方が味わい深く物語られており、長い引用になる。
第3章 今を充実させる ―保育者5・6年目— から
子どもが成長する一日
《自分で歩く》
保育室から庭に出たところに、私が立っていたとき、ふと気がつくと、背後からA夫が私の手にさわっていた。
母親のひざから下りて、奥の部屋から保育室を横切って、庭の出口まで一人で出てきたのだった。その日、この子は、一人で部屋の中を歩き回り、隅の櫓の上に登り、櫓と壁との間の狭いすきまを歩くなど、いつもだと母親と私の手を引いてしか行かない場所を、一人で手を振って歩いた。
A夫が私の手にさわっていたとき、私がそれに気がついて驚いたのは、その行為の中に、この子どもの心の思いがこめられているのを見たからであった。自分で独力で歩きたいという日頃の思いは、この日のいろいろの条件に支えられて、この意志的な行為となった。
庭に出てゆく私のあとを追って、母親のひざから下りて部屋を横切って歩いてきたとき、この子はこれを一人であえてしたのだった。私はその気持ちを受けとめた。思い切ってそうした子どもの気持ちに気づけば、それを受けとめるのはあたりまえであろうが、しばしば子どもたちの中で忙しさに追われて、傍に寄ってきた子どもの思いに気づかないことがあるに違いないことを、私はこの日あらためて考えさせられた。
A夫は、このあと、一人であちこちを歩き回った。これは能動性をもって歩くという、長い間にわたってこの子が問いつづけてきたテーマである。この日、私のあとを追って思い切って歩くという一つの行為がおとずれたとき、それがきっかけとなって、このテーマは展開した。
子どもは、刺激‐反応の鎖の一つではなく、自らの内なる課題をになって行為する存在である。保育者も、反応を期待して刺数を与える一つの点ではなく、他者と自分の存在の本質に接して現実に生きる者である。子どもの内なる課題に気づき、それにこたえて行為するとき、大人と子どもとの関係は創造的に変容しはじめる。私が床にひっくり返って、「助けてー」と言うとA夫は私の手を引いて起こそうとする。そうしている間に、一人で彼方に自由に歩いてゆく。私にもこの子にも、一瞬先の未来は冒険と試みであるけれども、存在の本質にふれつつ、前途は着実に開かれてゆく。保育の一日の歩みはこうして進められる。
《揺れ動く心》
朝、M夫が門から入ってきたとき、庭の途中で母親にまつわり、何かだだをこねている様子だった。私はそれに気づいていたのだが、傍らで私を頼りにしている子どもから離れられず、M夫とつきあいの深いF先生を見つけたので、そのことを告げた。
その次に私がM夫と出会ったのは、しばらく後に彼が三輪車に乗って、F先生と声を上げて庭を走っているところだった。その日、保育が終わってから、どのようにしてこの子は元気になったのかをたずねた。
入ろうか、出ようかといつも迷いの中にあり、デリケートで、いまにもこわれそうなM夫とつきあってF先生は一日を過ごしたという。元気にしていると見えたのは、見えないところで保育者に支えられている子どもの一側面である。その子の本質をあらわにしているような遊びも、そのような保育者との関係の中に生まれる。午後になって、ホールのトランポリンで、リズミカルにとんでは小刻みに足踏みをし、自分で倒れるのを繰り返しているその子を見て、私はその動きに合わせてリズムを口ずさんだ。この子はまたそれに合わせて何度も自分で転んでは起き上がる遊びを繰り返した。他の子どもに倒されるのは我慢がならず、そのくらいならば、自分から先に転んでしまう。倒されても自分から起き上がるというこの子どものテーマである。そのテーマをM夫はたのしんでためしている。
弁当のとき、音楽が響くと、耳に手をあて食べるのをやめてしまう。ようやく、トメテクダサイ、と小さな声で言う。おそれながら、しかし思い切って、この子どもは表現する。帰るころには、トランポリンに他の子どもがのってきても、おそれず、自分からその動きに合わせ、二人でとんでいた。
迷いの中にある子どもをうけとめられるのは、子どもの内なるテーマを承知して、その微妙な心の動きに沿って応答することのできる保育者である。それはただ一人の人に限られるのではないが、そのような人と一日を過ごすときに、子どもは安心して揺れ動き、成長への一歩を踏み出すことが可能になるのだろう。
M夫は、夏休みには、ああでもない、こうでもないとだだをこねることが多かったという。だだをこねるというのは、出ようか入ろうかとの心の動揺があることだろう。ねまきに着がえるのがいやで、赤ちゃんのときの小さなパジャマを着るといい、一度着ると、今度は脱がないとがんばるのだという。成長の前進をしようか、するまいかと揺れ動く心がここにもある。
後退と前進を繰り返しながら、ほんの少しずつ、子どもは前進する。子どもの心の内なるテーマを理解する保育者との関係の中で、子どもは成長する。
《普遍的意味と独自の意味》
保育者は、子どもの行為に驚かされたり、困惑させられたりする。そこで気づかされる子どもの行為は、「一人で歩いてきて」とか「母親にまつわり、だだをこね」とか記述することができる。さらに、子どもはどのように感じてそれをしているのかを、大人は見てとることができるし、それを記述することも可能である。子どもは「あえて」「思い切って」「意志をもって」誇らしくそれをしたのであり、また「迷いつつ」「おそれながら、しかし思い切って」それをしたのである。
一つの行為には、普遍的意味と、特定の子どもの、その場面の独自の意味との両方がある。両者を考えて、その子どもの行為の本質に近づき、大人が応答するとき、子どもは自分自身の内なる課題と、とりくむことができる。
その大人との間で、子どもは安心して一人で歩きまわることを試み、また、自分で転んでは起き上がる遊びを繰り返す。
こうして、保育の場は、子どもが成長する一日となる。
《コラムとしての補足》
人がある行為をするとき、そこには思いが込められている。私は行為から思いを読み取る。人がある言葉を語るとき、そこには思いが込められている。私は言葉から思いを読み取る。行為から読み取るときには、それを一度私の言葉にするから、彼が言葉にするときとは違う。言葉から読み取るときには、思いは彼の言葉になっている。私は彼の言葉から、彼の思いをさらに読み取る。
一人の実習生がK夫のパンツをはき替えさせる大変さについて語るとき、そこにはその実習生の思いがある。別の人が、K夫が他人から見られるときの恥ずかしさを語るとき、両者の思いが重ねられて、聞く私共の理解が創造的に展開する。世界は表現に満ちており、創造的に展開するときを待っている。
(行為と思いについて ‐ 保育後の話し合いから)
《見出し写真の補足》
足元はいつの間にか高山の花々。冬は積雪5㍍を超す豪雪地帯にして可憐な花々。