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文学や史跡で登場するマチを旅しながら、折々、紹介することを心がけています。

楽しめる、10.49キロ=40分バスの旅 35番遠矢線220903。

2022年09月05日 08時58分05秒 | 旅紀行
 楽しめる、10.49キロ=40分バスの旅 35番遠矢線220903。
所要があって釧路町河畔団地7丁目52番1の会場へ。移動手段は「路線バス」と決めていた。

 時刻表をネットで調べると2時間に一本のバスダイヤ。土曜日、日曜日のダイヤで始発の便に乗ると、少し早めながら「行ける」。
 釧路駅から商用時間は、なんと42分。「どうしてだろう」。
 とのかく乗車。乗る前に会社さんの総合案内で二点の確認があったけれども。

 路線は国道44号線を走り、最初は「睦団地」。大型量販店経由で高等学校もあるし、医療施設も通過する。
 「場外馬券場」のところで国道391号。次には河畔団地5丁目、9丁目と巡回し、つぎは真宗大谷派寺院前を通って柏団地の外周をほぼ一周。
 住宅街のみならず、遠く釧路湿原をわずかに望めるあたりでは、北方文学作家の直木賞受賞作品の舞台を彷彿とさせてもらえる。その関連施設は今や、廃墟寸前ながら。

 高齢者ホーム入り口も通過するし、墓園入口でも底流所はある。高齢者ホームには父の従兄が入所、夫婦で一度訪ねたことがある。墓園には義兄がおさまる。
柏団地一周後、再び国道391号にもどり、目的地の 「公民館前」。「開局100年」の横断幕を掲げた郵便局には筆禍お隣のご主人が、局長さんを務めておられた。
 お連れ合いがお元気と受け止める。

 公民館駐車場では多くの車両整備員が。「ハイ、今日は『吉良平次郎殉職100周年記念式典』を開いています」。
 副知事が、北海道アイヌ協会長が、国会議員が。
おあつまりらしい。

 公民館で1階は「神八三郎資料特別展」、2階は図書室。そうだ、ここ、楽しめる。トイレも清潔。歩こう。暇な折り。料金490円、「おデパス使うと・・・・・」。
 道のり10.49キロ、車でなら20分もあればの道のり。40有余分を要する時間にもご理解を。
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左翼-胴体-右翼 空間としての鎌倉五山&三大寺社220610

2022年06月12日 08時47分44秒 | 旅紀行
左翼-胴体-右翼 空間としての鎌倉五山&三大寺社220610 

 仏教の時世に「三世 さんぜ」の概念があるも。三世とは。 
 「前世・現世・来世(後世)、または過去世・現在世・未来世の 総称」
 「過去・現在・未来の称」
「三際(さんさい)。三生(さんしょう)。三界(さんがい)」とも。

 鶴岡八幡宮は初め「八幡宮寺」でった、と。
 八幡宮寺-永福寺跡-勝長寿院跡をむすぶ三角形の領域。取り囲んで浄土教系寺院群。
 ある意味「源氏系一族菩提」の「東方に位置して(黄色の線でむすぶ)過去世の領域」は「右翼」を担う。

 八幡宮寺-高徳院大仏殿を結んだ「鎌倉の表鬼門と裏鬼門」。航空機の胴体に匹敵。
 政権の安定を裏付け、頭頂部に東国政権のニラミ。広報の尾翼に外寇を睨んで国家の餡安泰を期して「現世」を体現。

 対して紫の線で結節は「臨済宗系鎌倉五山(建長・円覚・寿福・浄智・浄妙寺)」が存する。
 武家社会の信仰をかたじけなくして、座禅と茶道。なにを祈った、か。
 「お互いの心を安らかにし、大きな力を生み出す」とまとめられる。
 往時を思いめぐらすに「戦場で仏に守られて成仏するためであり、また神仏に加護を祈るためのもの」とする。

 鎌倉五山。紫の線で結ばれた領域。
 その五寺院は「禅宗寺院最高の寺格。鎌倉末期に北条氏により鎌倉中心の五山制度が制定」。
 こちらは北条政権存続のための「西方に位置する臨済禅=来世」の家臣団紐帯のシステムということなりや。
 
 三大寺社が源氏再興の頼朝主導ですすんだ。航空機で申すと「右翼」に相当。
 中軸に鶴岡八幡宮の「表鬼門=首」が位置し、尾翼に長谷寺&高徳院の「裏鬼門=尾」が占める。北東の東国武将をニラミつつ、南西の相模湾に唐船=外寇に対処の「胴体」を推進。
 金倉五山は源氏政権を継承した北条政権が制定。機体で位置づけると「左翼」を担う。
 
  ある一つの「鎌倉観」。かくなる地域観はいかがであろうや。
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左翼-胴体-右翼 空間としての鎌倉五山&三大寺社220610

2022年06月10日 18時32分35秒 | 旅紀行
 左翼-胴体-右翼 空間としての鎌倉五山&三大寺社220610 

 仏教の時世に「三世 さんぜ」の概念があるも。三世とは。 
 「前世・現世・来世(後世)、または過去世・現在世・未来世の 総称」
 「過去・現在・未来の称」
 「三際(さんさい)。三生(さんしょう)。三界(さんがい)」とも。

 鶴岡八幡宮は初め「八幡宮寺」でった、と。
 八幡宮寺-永福寺跡-勝長寿院跡をむすぶ三角形の領域。取り囲んで浄土教系寺院群。
 ある意味「源氏系一族菩提」の「東方に位置して(黄色の線でむすぶ)過去世の領域」は「右翼」を担う。

 八幡具寺-高徳院大仏殿を結んだ「鎌倉の表鬼門と裏鬼門」。航空機の胴体に匹敵。
 政権の安定を裏付け、頭頂部に東国政権のニラミ。広報の尾翼に外寇を睨んで国家の餡安泰を期して「現世」を体現。

 対して紫の線で結節は「臨済宗系鎌倉五山(建長・円覚・寿福・浄智・浄妙寺)」が存する。
 武家社会の信仰をかたじけなくして、座禅と茶道。なにを祈った、か。
 「お互いの心を安らかにし、大きな力を生み出す」とまとめられる。
 往時を思いめぐらすに「戦場で仏に守られて成仏するためであり、また神仏に加護を祈るためのもの」とする。

 鎌倉五山。紫の線で結ばれた領域。
 その五寺院は「禅宗寺院最高の寺格。鎌倉末期に北条氏により鎌倉中心の五山制度が制定」。
 こちらは北条政権存続のための「西方に位置する臨済禅=来世」の家臣団紐帯のシステムということなりや。
 
 三大寺社が源氏再興の頼朝主導ですすんだ。航空機で申すと「右翼」に相当。
 中軸に鶴岡八幡宮の「表鬼門=首」が位置し、尾翼に長谷寺&高徳院の「裏鬼門=尾」が占める。北東の東国武将をニラミつつ、南西の相模湾に唐船=外寇に対処の「胴体」を推進。
 金倉五山は源氏政権を継承した北条政権が制定。機体で位置づけると「左翼」を担う。
 
  ある一つの「鎌倉観」。かくなる地域観はいかがであろうや。
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鎌倉町青年団史跡・旧跡碑迎える「亀谷山寿福金剛禅寺」220525

2022年06月09日 06時15分42秒 | 旅紀行
臨済宗建長寺派 寿福寺。鎌倉五山の第三位にして鎌倉市扇ガ谷一丁目17番7号に所在。亀谷山寿福金剛禅寺(きこくさん じゅふくきんごうぜんじ)と号する。

 一帯は「源氏山」と呼ばれたようで、「このあたりは源頼朝の父、義朝の屋敷があったところと言われてます」(鎌倉市教委HP).
 「(寿福寺は)1200年(正治2年)に北条政子が頼朝の遺志を継いで明菴栄西を招いてここに寺を建て始め」とも。
 この寺院から国指定史跡国泰寺跡に第三世住職 霊雲が派遣されている。そこで、筆者は平成7年に一度、訪問した。

 今回、この寿福寺で紹介するは写真にある「源氏山」碑。
 碑題にあたる「篆額 てんがく」が篆書体で書かれているため、理解しにくい。しかし碑文を読むと、すぐに「源氏山」と解することができる。
 同型の碑が鎌倉市内の随所でお目にかかった。その基数、70基が閲覧可能と紹介。
 https://kamakura.press/cal/category/kamakura-hi/ 鎌倉 史跡碑・旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)

 碑の建立者は「鎌倉町青年団」とある。建立期は「大正時代から昭和初期」。
 国指定史跡「永福寺邱𦾔蹟=旧跡」は確かに「大正」とあった。
 大正デモクラシーから昭和恐慌期に至る時期の建立。一はそこに関心があった。

 二に地域の古老が発意しての建立。それは理解する。しかし「青年団」=正確には「靑年團」が、発起するというのも注目点。
 三に最重要の一基、ゆずって2~3基を建立とするのはいずれの地にも例がありそう。しかし、その数「鎌倉市内に80ヶ所弱、設置されていると言われていました」。

 その規模は、北海道では思いつかない。
 しかも結構に「偉丈夫 いじょうぶ=からだが大きくてたくましい男」と言うべき、風格のある碑。
 碑に敬意を表して「三解脱門」へ向かう。表に「山門不幸」の駒方札。御堂の前には「御朱印は休みます」。

 このたぎ携帯の『御朱印帖」。せめて当山で一筆。
 そう思ってでかけるも「五大不調 遷化」のお方があっては。
 鎌倉町青年団史跡・旧跡碑迎える「亀谷山寿福金剛禅寺」220525
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鎌倉の裏鬼門=鎌倉大仏  国宝高徳院阿弥陀像220524

2022年06月08日 10時00分02秒 | 旅紀行
鎌倉の裏鬼門=鎌倉大仏  国宝高徳院阿弥陀像220524

 鎌倉の裏鬼門=鎌倉大仏  国宝高徳院阿弥陀像220524
 「鎌倉大仏」は「こんなに階段を昇る高台にあったか」。地図で測ると標高=12.5メートル。
 高徳院=鎌倉市(鎌倉市長谷4丁目2番28号)は、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院。鎌倉大仏は「国宝銅造阿弥陀如来坐像」で、像高約11.3m、重量約121トン。
 別に「大異山高徳院清浄泉寺(だいいざん こうとくいん しょうじょうせんじ)と号する」との記載も見られる。

 造像までの過程は一筋ではない。
 どうも契機は、「京都や奈良に倣った都市づくり」と「首都にふさわしい象徴的な建造物」が必要で、「その象徴が、実は大仏」とする考え方があったらしい。
 1)大仏建設は1238(暦仁元)年に開始、当初は木造であったようだ。
 2)「1252(建長4) 年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられ(完成)」
 3)『東関紀行』には、「1242(仁治3)年に木造の大仏と大仏殿が、3分の2ほど完成」の記載もあるというが、この記載の信憑性を問う見解も示されている。

 本尊=国宝銅造阿弥陀如来坐像は、南南西に面して奉置されたと読める。
 その先に相模湾が広がり、中心の「由比ヶ浜」の西海岸に至るライン上に位置。
 「首都にふさわしい象徴」にして、外寇(がいこう)=国外から敵が攻めてくるを迎えるに対しているかの<たたずまい>。 

 かく拝して、高徳院を後にした。
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アジサイの観賞と由比ヶ浜の眺望 長谷観音で知られる海光山慈照院長谷寺220524

2022年06月07日 14時00分03秒 | 旅紀行
 アジサイの観賞と由比ヶ浜の眺望 長谷観音で知られる海光山慈照院長谷寺220524

鎌倉路の紀行も「裏鬼門」の位置に。江ノ電に乗って長谷駅で下車。
長谷寺は十一面観世音菩薩像が本尊。木彫仏で日本最大級=高さ9.18mと尊い。
足下に祈祷を請う拝礼があいつぎ営まれるも、そちらはご遠慮申しあげて。連れ合いの足は次第に痛み出しているが、あと二カ所。

境内から由比ヶ浜の景観を望むことができる。「三方を山に囲まれた要害の地」は東西北。開けた南に二つの海岸線。
「中国からの貿易船が入港」。実は鎌倉。伊豆国で秀逸なミナトの地点。源氏に選択させたもう一方の要件なのだ。
ベンチに腰をおろして癒しながら、往時の賑わいに思いをはせる。

境内のもう一つの楽しみはアジサイ。
三分咲きというところか。満開ではないが確かにその片鱗。ネットを開くと「8日から有料」と。
「相模湾の眺望と共に梅雨に映える40種類2500株のアジサイが織り成すその風情が、鎌倉でも有数の景勝地」。

確かにそのとおり。疲労を取り除いてくれる一刻であった。
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武家社会形成の犠牲を弔う 鎌倉三大寺社「勝長寿院跡」220525.

2022年06月06日 12時06分11秒 | 旅紀行
  武家社会形成の犠牲を弔う 鎌倉三大寺社「勝長寿院跡」220525.

鶴岡八幡宮(八幡宮寺)-法華寺跡(頼朝墓・北条義時墓)-国指定史跡永福寺跡とめぐり、残る一は「勝長寿寺跡 しょうちょうじゅじあと」。
 所在地は「鎌倉市雪ノ下四丁目6番20号」付近ということになる(写真)。

 路線バスを降りて、「田楽辻子の道」が横切る小流を過ぎたところで、道路を歩いている方に教えを乞うた。
 スマホを取り出しながら、「確かにこのあたりに、なにかが在りましたですネ-」。
 その方のスマホ確認で、どうも横道一本、進みすぎているらしい。小流の左岸にそった道を行くとよいのだ。
 取り付け道路を340メートルほど歩いたころに、金網で囲った小さな木立があって、そこに三基の史跡跡標、源義朝と家臣の鎌田政清の墓碑が二基、確かに残っていた。

 建立を発願したのは頼朝。
 平家追悼が時間の問題となったという1184年、「源頼朝は、父・源義朝の菩提を弔うため、大御堂ヶ谷の地に寺院の建立計画を開始」と、説明されている。
 別名は「大御堂」。またの名を「南御堂」とも称するそうで、鎌倉時代には「鶴岡八幡宮(八幡宮寺)、鎌倉・永福寺と共に、鎌倉での3大寺社のひとつと言う規模」を誇ったと、される。

 1)「勝長寿院は、源氏の菩提寺に近い格式ある寺院」と言える。
 2)建立後には、大姫(源頼朝の娘)が病気回復祈願で参籠。これに対し源義経の愛妾・静御前が舞を披露することも。
 3)滅亡した平家の菩提を弔うために万灯会、奉納。
 4)後白河法皇の49日法要を行う
 5)源実朝暗殺後には勝長寿院に葬られ、母・北条政子によって法華堂(五仏堂)が建てられた、とも。

 保護者が居なくなり16世紀に廃寺となったとされる。寺基の地は宅地化がすすんだ。
 遺構はなくなり。木立のなかに「勝長寿院旧蹟」の石碑、ならびに供養塔が立つ。

 「平家に倒された父」。その元で「滅亡した平家の菩提を弔う」。
 二つの間合いには、頼朝が武家社会を形成する過程で犠牲を<やむなくした>に鑑み、、「権力が恐れた『祟り』の鎮魂」の機能もあったのであろうか。
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詠歌の教養がむすぶ源氏・朝廷政治、鎌倉武士の教養 鎌倉歴史文化交流館 企画展「北条氏展vol.2 鎌倉武士の時代―幕府草創を支えた宿老たち―」220524

2022年06月02日 11時16分45秒 | 旅紀行
 詠歌の教養がむすぶ源氏・朝廷政治、鎌倉武士の教養 鎌倉歴史文化交流館 企画展「北条氏展vol.2 鎌倉武士の時代―幕府草創を支えた宿老たち―」220524

 鎌倉歴史文化交流館では、「源平合戦図屏風 屋島合戦図」が入館者を待ちうけていた。
 「源平合戦図屏風 一ノ谷・屋島合戦図」(六曲一双)の半双で、鎌倉国宝館の記載では鶴岡八幡宮所蔵作を列品しているようだ。

 第四展示室が「企画展 北条氏展vol.2 鎌倉武士の時代―幕府草創を支えた宿老たち―」の展示場に宛てられていた。
 二つのテーマで構成されている。そう受け止めた。
 1)「度重なる合戦で目覚ましい活躍を遂げ」「(戦時から平時へと移行後は)鎌倉幕府を支える人々の『文』の側面も重要視」を提示。
 2)「武士が持つ和歌や信仰などの『文』の側面にも注目」

 世に「鎌倉殿十三人」とするが、そこは二つのグループで大別される。
 「中原親能(57) 大江広元(52) 三善康信(60) 二階堂行政・・・文筆吏僚」
 「北条時政(62) 北条義時(37) 和田義盛(53) 比企能員 安達盛長(65)
  三浦佳澄(73) 梶原景時    八田知家    足立遠元 ・・・東国武士」

 中原ら文筆吏僚は、「朝廷で実務経験を積んだのち、新天地の鎌倉へ」「頼朝の右筆、京都と鎌倉の窓口、寺社の奉行として能力をいかんなく発揮」。
 文筆吏僚なくして鎌倉幕府の存続はありえなかった、とする。
 (「幕府を支えた京下りの吏僚たち」 鎌倉歴史文化交流館『企画展 北条氏展 北条義時ハンドブック』)

 屋島合戦図では、海上の船に掲げられた扇を射落とす那須与一や、海へ落とした弓を武士の誇りを掛けて拾い上げる源義経などが描かれます。
 源平合戦図は室町時代から江戸時代に至るまで多く制作され、一の谷と屋島合戦の組み合わせはそのなかでも典型的なものです。

 本図では人物を比較的大きく描きながら、群衆や船団の描写を随所に配置して、合戦のもつエネルギーの表現に努めています。なお両隻には狩野吉信の落款、印章がありますが、埼玉県川越市の喜多院に所蔵される「職人尽図屏風」を描いた吉信と同一人物ではないようです。
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奥州征伐で散った同朋追善 国指定史跡永福寺跡220524-後-

2022年05月31日 15時40分39秒 | 旅紀行
 奥州征伐で散った同朋追善 国指定史跡永福寺跡220524-後-

 永福寺は「応永12年(1405)に焼失し、以後は再建され」ず、とある。
 現代の遺構発掘調査で「二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂」の基礎を確認。
 湘南工科大学のCG図でその偉容が復元された(写真)。当時の旅日記に記載。

 史跡整備のポイント
 1)遺構の東南隅に境界表示の掲示が据えられていた。
 2)前庭の池はその一部が埋められており、見取り図で「本来の池の範囲」を図示。縁辺は30センチ土盛りして保存した。
 3)発掘調査で確認できた遺構の上に60センチの暑さで土盛り。その上に柱の礎石を排して「二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂」を表示。上屋はコンピューター・グラフィックで全容を示す。
 4)整備地の西。標高60.2メートルの地点に展望設備を設けているようで、階段が配されていた(登山・ 登攀=とうはん)して、整備地を鳥瞰=鳥の目のように見下ろすことは試みなかった。

 「その姿形は極楽の様子をそのまま表したようだ」とあるそうで。

 写真撮影中、連れ合いは見学グループの昼食時に参加者から話を聴いた。
 「鎌倉市民ではない」「近隣から来たが、調べているのみではダメ」「現地を歩いてみなくてわ」。そう語っていたそうで。
 一行は17名、持参の弁当を取り出して、ベンチに腰をおろし昼食を始めたようで。

 域内及びその周辺の居住者が、何度目かの訪問。そのつど「新しい発見と気づき」があるそうで。
 我々、テレビ大河テレビの影響をうけ、物見遊山で訪問の「観光客」とは別な角度で見学。参加者の説明も、「胴に入っていた」。話を聞いてきたヒトの報告。
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奥州征伐で散った同朋追善 国指定史跡永福寺跡220524

2022年05月30日 14時08分29秒 | 旅紀行
 奥州征伐で散った同朋追善 国指定史跡永福寺跡220524

 頼朝公の墓址から徒歩で国指定史跡永福寺跡に。
 途中、二グループの団体とすれちがった。
 ベストを着用したガイド風の方が先頭に立ち、10数名の参加者が図面などの配布資料を片手に歩く姿。それぞれ、高齢者の方の多いグループであった・・・・・・、が。

 初め「大塔宮」をめざして歩き、そこからさらに徒歩5分。所在地は鎌倉市二階堂209。
 史跡の説明に、
 「源頼朝が建立した寺院の跡」
 「源義経、藤原泰衡等、頼朝の奥州攻めで亡くなった武将等の鎮魂のため」
 「平泉の中尊寺二階大堂等を模して建立」、と。
 中世の征討に「従軍僧・陣僧」の概念があった。「軍旅に従う僧侶,すなわち陣僧」「戦陣に僧侶をともなうことは古くからあったが,とくに南北朝内乱期からこの傾向が著しく」。

 史跡永福寺跡はある意味、その先駆的形態なのかも。
 陣僧は武功を引き出すため自陣の犠牲者を手厚く弔う趣旨。しかしここでは、弟・義経、それを成敗した藤原泰衡も追福の対象としている点に、頼朝の<ある種、逡巡=ためらい>を思う。
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東国政権正当性の再構築か 江戸中期筆『源平合戦図屏風(一ノ谷)』220524

2022年05月29日 09時39分43秒 | 旅紀行
 東国政権正当性の再構築か 江戸中期筆『源平合戦図屏風(一ノ谷)』220524

 「北条氏展vol.2ー 鎌倉武士の時代ー」。鎌倉市内で開催中の企画展示。
 鶴岡八幡宮に参拝した足で、鎌倉国宝館を訪問。三回目の入館と言うことになる。
 最初に展観は『源平合戦図屏風(一ノ谷)』と記憶する。作品の概要は以下の説明なのだが・・・・・・・。

 「六曲一双」の「半双」が公開されていた。狩野吉信筆、17世紀の作品とある。
 『源平合戦図屏風』は「室町時代から江戸時代に至るまで多く制作」との説明があるも。
 江戸幕府の成立後の17世紀、幕府御用絵師の狩野家の作品となれば。自ずと一つの意味がうまれよう。

 そもそも家康は「源氏」を名乗る。ほかには「平」「橘」「藤」の氏を名乗る道があった、が。
 三河に発した政権が、織田・豊臣の例にならわず、江戸に開府した。
 その根拠を源氏・北条氏政権にもとめ、東国を基盤に「征夷大将軍」の称号を得る正当性にしたのでは。

 研究者は苦笑するかも。
 1)島津重豪による頼朝公墓碑再建、
 2)幕府御用絵師による『源平合戦図屏風』の完成、
 3)鶴岡八幡宮を(鎌倉版)表鬼門の比叡山、長谷を石清水八幡宮にならう(同)裏鬼門。
 →上野・寛永寺(江戸版)表鬼門、芝・増上寺(同)裏鬼門。
 家康は鎌倉を超える規模の東京湾を表玄関に江戸に開府、頼朝は当時、中郷貿易船の周回地・鎌倉の海を基盤に

(作品説明)=「ぶんか
 源平合戦図屏風(一の谷・屋島合戦図 げんぺいかっせんずびょうぶ いちのたに・やしまかっせんず)


 作品概要 源平合戦図屏風(一の谷・屋島合戦図)=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401461
 狩野吉信 よしのぶ 江戸時代、17世紀 紙本金地著色 6曲1双
 解説
 源氏と平氏が戦った、寿永3年(1184)の生田森・一の谷合戦、翌年の屋島合戦について、『平家物語』に語られる武勇伝やエピソードをもとに俯瞰的に描きます。

 一の谷合戦図では、画面右側に生田の森、中央に平氏が一の谷に構えた陣、左側に平氏の武将たちが敗走する 須磨の海が描かれ、源義経の坂落としや、平敦盛の討死などの有名なエピソードが散りばめられます。また、平重衡の生捕りや、平忠度や盛俊といった平氏一門の武将たちの討死のシーンも所狭しと描かれており、諸行無常を感じさせます。
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頼朝墓所再訪 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)

2022年05月28日 10時28分06秒 | 旅紀行
 島津重豪 しまづ・しげひで 江戸後期の第9代薩摩(鹿児島)藩主,島津家第25代当主、生年:延享2=1745年生まれ-天保4.=1833年没、と。

 頼朝公の墓所に詣でた。
 昭和41年2月に続き、 2度目。墓塔への昇降口の案内板に、「現在の塔は島津重豪が整備したものとされています」とあった。
 記載を物語るかのように、 石香炉には島津家の家紋「丸十」が彫り込まれる。

 どうも、源氏政権が北条政権に継承されたところで、断絶があるらしい。
 頼朝公墓所の西に「法華堂」があり、墓塔が設けられていたが、島津重豪の時代といえば江戸中後期に相当する。
 整備を担当したのが西南雄藩を代表する島津公である点に、注目しておきたい。

 その法華堂は頼朝公の持仏堂であった。法華堂は「江戸時代ニハ八幡宮供僧坊ノ管理ニ属セシカ維新後廃セラル」と、廃阯は維新後の後であったとされている。

「史跡名勝天然記念物 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」(案内-抄-) 法華堂阯ハ西御門ニ在リテ頼朝墓ノ下西側ニアリ、始メ頼朝ノ持佛堂ニシテ其ノ薨去後其ノ廟所トナレリ 江戸時代ニハ八幡宮供僧坊ノ管理ニ属セシカ維新後廃セラル
 今地域内ニ白旗神社ノ小祠ヲ祀ル
 法華堂阯ノ背後ナル丘陵ノ中腹ニアリ長方形ニ石疊ヲ敷キ土鏝頭ノ上ニ高サ七尺ノ多重塔一基ヲ建テ石玉垣ヲ周ラセリ (220524 訪問)
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中世鎌府の表鬼門 鶴岡八幡宮220524

2022年05月27日 09時01分48秒 | 旅紀行
 中世鎌府の表鬼門 鶴岡八幡宮220524
 鎌倉幕府-源氏政権の都府構造を理解するうえで、お目にかかるのは鶴岡八幡宮。

 鎌倉駅東口を出ると目にとまるのが「朱色の鳥居」。近くに「近道」の表示があって、すすむと大鳥居、そのかたわらに到達する。

 モノの本には 
 「京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まり」
 との解説がある。

 「以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった」。
 「建久2年(1191年)に、社殿の焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した」。
 「承元2年(1208年)には神宮寺が創建」と続く。

 階段を昇って拝殿に向かい、拝礼後に磁石をとりだして方位を確認。磁針は確実に北東を指していた。
 拝殿は北東に位置する山稜を背に、政所・侍所・問注所を見下ろす地に位置することに。

 「鎌府(れんぷ=鎌倉市の中心部相当地域)の鬼門」。その位置にあるのだと、確認。本所を表鬼門にすえ、では裏鬼門は。帰省してきがついた。どうも高雄寺の「鎌倉大仏」が<裏鬼門>にあたる、らしい。

 かく見立てたのであるが。いかがであろうか。
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桜開花しました 共栄大通一丁目ポケッ開花しました

2022年05月10日 09時02分56秒 | 旅紀行
桜開花しました 共栄大通一丁目ポケッ開花しました

釧路駅北口。共栄大通一丁目2番。ポケット公園に移植された桜が開花しました。
昨日5月9日、買い物がてらの散歩に出かけ、確認することができました。
家との境界を<綠の生け垣>で区画された、一角。ポケット公園ができて、桜が移植されました。

平成10年=1997年2月。この界隈に転居しました。
朝夕、通勤で眺めてきましたが、開花期はこれまでになく、早いです。
樹木の枝ぶり。心なしか、「力強さに欠ける」の思いが強くなりました。
桜はけなげに開花していますが、<お礼の施肥>が不足 のようです。

公共空間につき、市民が勝手に手を施すと、失敗したときのハネ返りがコワイです。
かと申して、エリートのお方には「下から具申」はいかにも、迷惑そうに受け取られかねません。
桜が可愛い。しかし、「なにかをするは、はばかられる」。でも、自然は実に正直。

そうしたことを思わせてくれる、「共栄大通一丁目 ポケット公園の桜」です。ト公園220509確認
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開花一輪、姉妹都市の由緒 鳥取ゴールド廿世紀梨220502

2022年05月03日 08時57分39秒 | 旅紀行
 開花一輪、姉妹都市の由緒 鳥取ゴールド廿世紀梨220502.

 昨2日は幸いに晴れ。<五月晴れ>がピッタリ。
昼過ぎ、釧路フィッシャーマンズワーフの緑地庭園で、小休止。
 <白い花>の開花。本市と姉妹都市を提携している鳥取市から贈答の一樹。

 写真に一枚、背景の緑樹に囲まれて、標柱のみが明確ながら。
「 廿世紀梨」は著名ながら、「鳥取ゴールド廿世紀梨」の「ゴールド」とはなにか。
 「ゴールド廿世紀梨 来歴:特徴」のネット https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/nashi-G20C.htm にあった。

 次の記載。
 「ゴールド二十世紀は「二十世紀」に放射線を照射することにより突然変異を誘発させ、「二十世紀」と同じ果実特性をしていながら黒斑病に抵抗性をもつ変異種を生み出し育成された青梨品種です」。

 「『二十世紀』は非常に食味に優れた梨で、誕生以来何十年と市場に評価されてきたいますが、生産にあたっては黒斑病に弱くその対策に結構な費用と労力が必要なのだそうです」。

 「そこで茨城県つくば市にある国の機関、独立行政法人農業生物資源研究所において1962年から緩いガンマ線の照射実験が始められ1981年にナシ黒斑病徴の見られない一枝を発見、1986年から適応性検定試験がはじまり、その特性が確認され1990年「なし農林15号」として命名登録(農林認定)され、「ゴールド二十世紀」として種苗品種登録が出願、翌1991年に品種登録されました」。
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