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文学や史跡で登場するマチを旅しながら、折々、紹介することを心がけています。

上垣外憲一著『雨森芳洲 元禄・享保の国際人』

2012年04月15日 13時46分57秒 | Weblog
 上垣外憲一著『雨森芳洲 元禄・享保の国際人』。雨森芳洲は「あめのもり ほうしゅう」と読むらしい。日本の鎖国体制が「長崎でオランダ・中国との間で貿易を徳川家が独占」と理解してきたなか、琉球・対馬・蝦夷地にも「外国に接する場所」があると、論じた(144p)。

 芳洲は対馬・宗氏のもとにあってながく朝鮮外交を担当した儒家(4p)。儒家としてのみならず朝鮮語寛文に生まれて元禄・享保期に活躍する。木下順庵の門下、一門から新井白石、荻生徂徠らを輩出している。元禄2年、22歳のとき対馬・宗家に仕える。師の順庵の推挙によるとする(57p)。

 宗家のもとで「朝鮮方佐役」。貿易のほかに将軍代替わりに行われる朝鮮通使を接遇する接点になる。
 朝鮮の文化・人格に見識をもち、「日本人と朝鮮人で、人間の本性がそんなに違うはずはない」(102p)と考える。一般に観念的といわれる朱子学者の中にあって、「芳洲は現実社会の出来事を精密に観察し、分析し、記録しようとする態度をもっていた」(111p)とする。

 対馬に仕官したが江戸に帰り、幕閣の枢要に位置することも考える。そこに立ちふさがるのは同門の先輩にあたる白石。「日本国号」問題で反論し(121p)、「銅輸出抑制」でも宗家独自の意見を具申する当事者となる(142p).。

 晩年は通訳養成に努め、総じて「江戸時代の知識人としてはまったく稀有のものだった」(4p)と規定する。(中央公論社 1998年)。
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