朝起きて夜寝るまでの間には、毎日毎日、同じようなルーティンを無数に繰り返していることに、改めて意識が向きました。
朝起きて身支度をするにしても、食後に歯を磨いたりするにしても、その日によって変化を付けるなんてことはしないで、いつものパターンを無意識に繰り返しているだけ、といった感覚。
特に近頃では、昨日と今日はまるで完コピと言えるほど、違いのないような日もあったりするのです。
毎日同じことを繰り返すだけの日々で、生きている意味なんてあるのだろうか❔といった疑問を持つ人もいるという話を耳にしたことがあります。
特に退職して、家族のお世話をすることもなくなった高齢の方の中には、そんな疑問を持たれる方はいるような気がします。
今のところ私は、そんな気持ちになったことはありませんが、朝起きたと思ったらもう寝る時間がきて、寝たと思ったらもう起きる時間が来て、といった時の流れの速さに気持ちがついていけません。
もう少し言えば、一日の終わりにその日ならではの充実感は少なく、一日の始まりにも、その日ならではの期待感といったものは薄くなっていることに気づいたのです。
これは毎日のルーティンを、ただ漫然とこなしていることが原因かなと思った。
手慣れたことだと無意識にパパッと済ませられるため、丁寧に、とか心を込めて、なんてことは面倒だし今までは意識しなかった。
でも、手慣れたルーティンを中心とした日々の生活そのものを、無意識にやらず意識的にこなしていくことで、見えてくる世界、感じる世界が変わってきたように思えるのです。
どのように変わってきているのかを言葉で伝えるのはとても難しいのですが。
たとえばトイレ掃除、といった今まではいやいやながらやっていた家事作業でも、丁寧に心を込めてやり続けていたら、次第にやりがいが感じらるようになり、気持ちが整ったりする変化が出てきました。
最近ではむしろ掃除は積極的にやりたい気持ちが高まってきたので、今までより掃除回数は増え、そのことによって掃除は楽になり、さらに楽しく掃除ができるようになるといった好循環に。
そして、私は一日のうちに何度も、これが人生最後の〇〇になるかもしれない。。ということは考えるようになりました。
余命宣告を受けたわけではありませんが、人はいつ死ぬかはわからないものなので、「これが人生最後の食事になるかもしれない」とか、「人生最後の入浴になるかもしれない」といったことを、わりと頻繁に考えてみることで、その行為を丁寧にじっくり味わうことができています。
明日はなにが起こるかわからないような人生より、明日もたぶん今日と同じような日が巡ってくるだろうと予測される人生が自分には合っているし、それがとてもありがたく思える今日この頃。
ただし、自分次第で見える世界、感じる世界が今日は昨日とは違うし、明日になれば今日とは違う世界が見えてくるのだろうなと思うと、なんとなく楽しみな気がします。