中日新聞の“介護社会シリーズ”の記事があると、ついつい読んでしまいます。
やっぱり今自分の置かれている立場がそうだからでしょうね。
今回は
“理想の最後”と“延命治療”
がわたしにとってはキーワードのようにひっかかりました。
自分自身の意思がはっきりしているうちに、どうしたいのかということを事前に、周りの家族や施設側などに伝えておくというのは結構大事なことだとそう思います。
ですが、今回わたしの場合は、新聞記事とは違う選択肢をとっていたと思います。
昨年夏、母が胃ろうを造設するにあたり、それなりに悩みました。母は多少なりとも認知症はありますが、自分の意思がないわけではなく、医師から胃ろうの話をされたときは、母にとっては体を傷付けて胃に穴をあけて食事を摂るなんていうことは、正直内心は嫌だったと思います。
ですが、誤嚥性肺炎に近い状態で入院し、点滴だけの病院生活を送り、やせ細っていく中、物事を理解し、正確な判断を本人が下すことは難しい状態でした。
そんな中で身内の判断となるわけですが、兄は以前母から延命治療なるものはやめてほしい、と言われていたこともあり、胃ろう造設は延命治療にあたるのだから、母親の意思を尊重するならばやめた方がよいのではないか、それに介護者に負担がかかるのではないかと悩んでいるようでした。
わたしは、というと、胃ろう=延命治療などとは全然考えておらず、ただ単に栄養の摂り方が口から胃に代わるだけ、と軽い思いでした。
先生もまた口から摂れるようになれば、造った胃ろうを塞ぐことができるという話や、知人からも同じようなことを聞いていたので、とにかく造設に関しては深刻には考えてませんでした。
それよりも、点滴だけでは十分に栄養が摂れないため、やせ細っていく母をそのままにして看取るほどの気持ちというか、勇気がわたしにはありませんでした。
延命治療をどう捉えるか、それは本人の状態や周りの考え方で違うのだと思いますが、わたしの母は胃ろうを造設したおかげで今いろいろと出かけたり、以前より苦しい思いをせずに済んでいるということは確かです。(母も、やってよかったと)
ですが、全て胃ろうをすることがよいともいえないと思います。
中には合わないというひともいますし。
何が一番か、それはそのときに考えて決めた判断が一番でしょうね。
理想の最後。
自然に逝くことを希望するこ方が多いみたいですが、、、“自然”とはどういうことなんでしょう?
なんだかわからなくなりました。
それと、寝たきりになってしまうと楽しみなんてないだろう…ついそう思ってしまいますが、寝たきりでも楽しめることって逆にできないんでしょうか?難しいんでしょうかね。。。
理想の最後は、とにかく苦しまずに眠るように最後を終える…
それがわたしの中では理想です。ですが、そう物事うまくいかないかな。