ここで、少しだけ原民喜詩集から一部をほ~んの少しだけ紹介します。。。
「コレガ人間ナノデス」
コレガ人間ナノデス 原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ 肉体ガ恐ロシク膨張シ 男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル ・・・・・・
詩はもう少し続きますが、インターネット上ですべてを公開するのはよくないのでこれくらいまでで
この詩を読んでいて、淡々と描写してあるんですが、とても迫ってくるものがあります。
さて、被ばく柳をみて、次の場所に移動していく途中、サダコさんが元気であれば卒業していたであろうという中学校を通りました。
碑の内容を少し書きます。
この「折り鶴の碑」は、日本各地からだけでなく、外国からもヒロシマに寄せられるようになった無数の折り鶴に込められた平和への願いを、広島の子どもたちが受けとめた証しとして建立されたものです。
(中略)
それらの折り鶴の一羽ずつにこめられた願いを、わたしたちは大切に受け継ぎます。そして、貞子さんの命日である10月25日には、ヒロシマの子どもの堅い意志をあらわすこの黒御影石の碑に折り鶴を置き、世界に平和を築く決意を明らかにします。
2000年3月 広島市立幟町中学校 生徒会
平和であることなんて、日常の生活、特に日本にいると当たり前のように感じてしまうことの方がおおいでしょうが、こうやって振り返りながら「築く」ための決意をすること、、それはわたしにも必要なことだと思いました。
この「折り鶴の碑」も通りすぎ、今度は縮景園に行きました。
この縮景園は、広島藩主が1620年から別邸の庭として築成されたものですが、原爆により壊滅状態になりましたが、現在は戦災前の景観に復元されています。
ここで、しばし休憩…のはずだったんですが、わたし自身かなり疲れがピークで。。。
暑さと歩き疲れ、そしてまた帰りは自転車に乗って宿泊所に向かわねばならず、いったいどこまで歩いていかなければならないんだろう?という不安もあり、情けないですがここでリタイアすることにしましました
でも、わたしの疑問は残っているので、原民喜の研究者である女性の方になぜ自裁したか尋ねてみました。
すると女性から、原民喜は「生に対しての欲がなかった」という返事がかえってきました。
もともと被災する前に愛するひとを亡くし、死を決意していたのですが、被爆したことでその時間が少し伸びたといってもいいのかもしれません。
この原爆の状況を残すことが彼の使命・ミッションであったということも言われていました。
ですが、ここでもうひとつわたしには疑問がありました。
彼は幼少のころとても慕う姉の影響でクリスチャンにはならなかったけれどもキリスト教の教えに傾倒していたようですが、最後まで洗礼を受けることもなくクリスチャンにはならなかった…。
このことも尋ねてみたら、組織に入ることがクリスチャンになることとは違う、という考えをもっていたのではないかと、推測だけれどもということばを添えて女性は言っていました。
確かに…。わたしも共感するところがあります。
組織に属すものではなく、常に個が神とつながっていると考えた方がいいでしょう。組織となった時点で、残念ながらひとはひとをみて、神をみることがなくなることも儘にある気がします。
でも、それが悪いわけではないですが…。ひとの世に生きる限り、組織も必要ですからね。
原民喜が惜しげもなく、自分の命をたつことができたことは、ある意味全力で生きてきたからなのかもしれません。もしかしたら、死の向こう側に希望を見出していたのでしょうか?
わたしはわたしであり、当然のことながら原民喜ではありませんので本当のところはわかりませんが、彼が見て書き残したもの…それを読んで個々がいろいろと感じるということが大切なのかもしれませんね。