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規格外の人間

2019-06-23 22:03:27 | マスメディア
規格外の人間

 最近、富山市で猫を50-100匹殺したという男が逮捕された。捕まえた猫を自宅で殴ったり、餓死させたり、熱湯をかけたりして殺したという。まことにおぞましい事件である。猫を路上で捕まえる姿を目撃されているので、被害に遭ったのはおそらく人になついた猫が多かったことだろう。動機はストレスを解消するためだったという。

 5月に川崎市で、スクールバスを待っていた小学生らが次々と包丁で刺され2人が死亡、17人がけがをした事件は51歳の男の単独犯行であった。被害者のほとんどは幼い小学生であり、この蛮行に憤りを覚えない人はいないだろう。恐らく悪魔はこのような人間を元に創造されたものだろう。自殺したが、このような男を人間として扱っていいものか疑問である。生物学的には人間であり、他の人間との交配が可能であったとしても。

 さてこれらの犯人だが、我々が一般的に考える人間というものからあまりに乖離している。殺害対象が猫と人間では違うと思われるかもしれないが、加害者の動機など精神面ではよく似ている。自己の利益のための犯行なら理解できるが、この場合殺害そのものが目的であり、凡人の理解を超えている。

 19世紀から20世紀初頭に活躍したイタリアの精神科医、チェーザレ・ロンブローゾは犯罪者は人類の亜種であると言ったそうである。ロンブローゾは犯罪者は先天的に宿命付けられた存在であるとした。生来的犯罪人説である。ずいぶん大胆な説であるが、犯罪者の身体的・精神的特徴と犯罪との相関性に関する膨大な調査結果による結論であり、当時はかなりの影響を与えたらしい。現代ではこんな説を言えば非難の的になろうが、上記の二人をみて、この生来的犯罪人説を思い出した。

 戦後、犯罪者は社会が作り出すものという考え方が強くなった。つまり貧困や家庭の問題などが犯罪者を生むことになるというわけだ。確かにその部分もあるだろう。しかし、彼らをそれだけで説明することはできないと思う。どう考えても彼らの行動は理解できない。

 最近でこそ犯罪被害者に注意が向けられるようになってきたが、十数年前まではそうではなかった。加害者の人権を保護することに重点が置かれ、被害者は軽視されてきたといっても過言ではない。加害者の保護には、犯罪は社会によって作られるものであり、矯正が可能であるという考え方があり、さらに犯罪者も一般的な属性をもつ人間という前提があったものと考えられる。人権が尊重され、法の保護受けるにふさわしい人間という概念である。光市の母子殺害事件では多数の弁護士による大弁護団が結成され、死刑に反対したのもそのような考えによるものであったろう。

 人間という概念をクソ真面目にとらえ、論理的に考えると、死刑反対ということも理解できないわけではない。だが先に挙げた犯罪者は人間という概念でくくるのには無理があると思われる。世界で死刑を存続させている国は僅であり、日本も廃止すべきだという議論がある。たしかに死刑は野蛮な刑罰に見える。お隣の死刑大国、中国をみればなおのことそう思う。

 しかし自己の快楽のために多数の人間を殺すような人間に懲役刑がふさわしいのだろうか。そして懲役刑は社会の負担になる。彼らは生来的な病気とも考えられるから、同情すべき点もある。静かに消えていただくのがよいのではないか。他人を殺して人権はないだろう。死刑反対を言うのなら、その前に絞首刑をやめ薬殺刑にするように主張する方がよい。絞首刑は野蛮である。薬殺は苦痛もなく、上品である。

 ついでながら、今回の猫虐待事件について少し追加したい。このほど動物愛護法が改正され「5年以下の懲役または500万円以下の罰金」と強化された。しかし初犯なので執行猶予がつく可能性が高いとされる。2017年、埼玉県で元税理士の男性が野良猫に熱湯をかけたり、バーナーであぶったりする虐待を行い、13匹を殺傷するという事件では懲役1年10月の判決を受けたが執行猶予4年がついた。一方、2015年米国カリフォルニア州では21匹の猫を虐待死させた男に懲役16年の実刑判決が下された。日本では罰則が強化されつつあるが米国には遠く及ばない。まあ犬や猫を食べる国よりはずっとマシだが。


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